ルソーにおける、モンテーニュ、ラ・ボエシー  

宮下志朗(放送大学教授・東京大学名誉教授)

ルソーを読んでいると、あちこちでモンテーニュの影を感じる。『孤独な散歩者の夢想』、「第一の散歩」で「私の魂の変化とその変化の移り行きを理解する」ために、「自分の魂に気圧計をあてがって」、「 〔その〕作業の記録le registre des opérationsをつけることに甘んじ、これを体系にまとめる努力は払うまい」[1]とくれば、これはもうただちに、「ここにあるのは、さまざまに変転するできごとと、ときとして矛盾した不安定な思考の記録であるun contrôle de divers et muables accidents, et d’imaginations irrésolues」(『エセー』3・2「後悔について」)とか「結局のところ、わたしがこうして、やたらに書き散らした寄せ集めの文章は、わが人生の試みの数々の記録簿un registre des essais de ma vieにすぎない」(『エセー』3・13「経験について」)といった文章を連想する[2]。ルソーがその直後に、モンテーニュの名前を出して、「モンテーニュがその『エセー』をもっぱら他人のために書いたのに対し、私はひたすら自分のためにのみわが夢想を書きしるす」と差別化をはかるのも、ごく自然なのである。

では、「第三の散歩」の次の一節はどうだろうか? 「私たちは生まれると競技場に入り、死ぬとそこから出て行く。コースも終わりに近いころになって、二輪馬車を操縦する腕を上げたところでなんの役に立とうか。もうこのときになって考えるべきことは、どのようにしてそこから退場するかということしかない。老人にまだ勉強しなければならないことが残っているとすれば、それはひとえに死に方を学ぶことであって、しかも、これがまさに私の年頃の人間のいちばんなおざりにしている勉強なのである。」

引退の美学である。ここを読んで、わたしが『エセー』でまず最初に思い出すのは、「わたしは、これからはもう走らないぞと決心している——ゆるりと歩くだけで十分なのだ」(3・13「経験について」)という一節だ。人生行路の終盤になって、無理して走ったりしても、いいことはないよなと、わたし自身でも、つね日ごろから感じているからにちがいない。でも、よくよく考えるならば、「第三の散歩」のこの箇所は、次の一節と深く結びつくかと思われる。やや長いが引用する。 

「よいものであれ、なんであれ、ものごとには季節というものがある。〔中略〕賢者がわれわれのなかにen nous認める、最大の悪徳とは、われわれの欲望が、たえず若返るということなのだ。〔中略〕たとえ片足を墓穴につっこんでいても、われわれの欲望や探究は、次々と生まれてくるのだ。《きみは、自分の葬儀が迫っているくせに、大理石を切らせ、墓石のことなど忘れて、家を建てている》(ホラティウス『カルミナ』)。〔中略〕〔しかしながら〕わたしの計画の場合、もっとも長期のものでも、一年は越えない。今はもう、終わらせることしか考えていないのだ。〔中略〕どこに行っても、そこを立ち去る時には最後の別れをつげる。そして、毎日、自分の持っているものを処分していくのだ。《もうずっと前から、わたしには損も得もない。これからさきの道のりに十分な、路銀があるのだから》(セネカ『書簡集』77の3)。〔中略〕ところが大カトーときたら、永久に口をつぐむことを学ぶべき時に、話すことを学んだのである。いつまでも勉強や思索を続けるのはいいけれど、学校通いは、やはりいけない。老人がイロハを習うなど、おろかなふるまいではないか!」(2・28「なにごとにも季節がある」)

大カトーは最晩年になってからギリシア語の勉強を始めて、通常はこのことがりっぱな心がけだとされるのだけれど、モンテーニュはそうは考えない。老いてから、知識のための勉強を続けることにはむしろ否定的なのである。大カトーのギリシア語が、ルソーの二輪馬車に対応するように思われる。そして、ルソーが「老人にまだ勉強しなければならないことが残っているとすれば、それはひとえに死に方を学ぶこと」といっている個所などは、「そんなに年をとっているのに、なんのために勉強するのかと聞かれた人が、「よりよく、また、より安んじて、あの世に旅立つためだ」と答えたというけれど、われわれも、こんなふうに返事ができればいい」(2・28「なにごとにも季節がある」)と響き合ってくる。こう述べて、モンテーニュは、大カトーではなくて、北アフリカでカエサルに敗れて自害を命ぜられた前夜、ゆっくりと本を読んで過ごしたという小カトーの生き方を讃える。

ただし、「死に方を学ぶ」ことに関しては、モンテーニュにはなるほど「哲学することは、死に方を学ぶこと」(『エセー』1・19/20)という章はあるものの、彼は最終的には、「死というものは、いたるところで、われわれの生とまじりあっている」のだから(3・13「経験について」)と達観して、「終活」は不要だと考える。あなたは死に方を知らなくても、そんなこと問題じゃないんです、自然が、その現場で、ちゃんと十分なほど死について教えてくれますよ、あなたのために、この仕事をきちんとはたしてくれます、だから、そんなこと心配しなくていいんですというのである(3・12「容貌について」)。さらに同じ章で、こうも述べる。「われわれは死ぬことを心配するせいで、生きることを乱しているし、生きることを心配するせいで、死ぬことを乱している。〔中略〕死とは、あまりに瞬間的なものであって、たった一五分の断末魔の苦しみなどは、その後になんのダメージも残りようのないものであるから、それに備えて特別な教訓などはいらない。〔中略〕わたしが思うに、死はたしかに生の終わりではあるが、目的ではないのだ。それは生に究極の終止符を打つとはいえ、目標とはいえない。生きること自体が生の目標であって、そのめざすところでなくてはいけない」(3・12「容貌について」)。達観といえば、次のような痛快なものいいを忘れるわけにはいかない。「こうしてわたしは、自分の命を、少しずつ、捨てているのだけれど、それはまるで、もう余計で、じゃまになった排泄物を出すみたいで、自然な快感をともなっている」(3・13「経験について」)。死に近づいているのに、それを「排泄」にたとえて、むしろ「自然な快感」だというのだから、さすがではないか。

以上、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』の一節を取りあげて、『エセー』との関連を推理してみた。おそらく『エセー』の読者としてのルソーを論じた博士論文のたぐいも存在するのだろうが、もちろん、わたしはそのようなものは所持してもいないし、読んだこともない。自分勝手な連想ゲームをしてみたにすぎない。とはいえ、こうした作業をする際に気をつけるべきことがある。それこそ学問のイロハだけれど、パスカルにしてもルソーにしても、現代における『エセー』のエディションの代名詞ともいえる「ヴィレー=ソーニエ版」でモンテーニュを読んでいるわけではない。ヴィレー=ソーニエ版は、フランス革命直前に発見された「ボルドー本」と呼ばれる、モンテーニュによる1588年版への加筆訂正本を底本にしたエディションにほかならず、いわば20世紀になって成立した『エセー』の本文にすぎない。にもかかわらず、18世紀研究においても、時として安易に「ヴィレー=ソーニエ版」を引用している例が散見される。

では、ルソーはどの版で読んだのかといえば、18世紀に流通していた『エセー』の刊本でということになる。モンテーニュは1592年に他界するが、1595年、グルネー嬢などの尽力で「死後版」の『エセー』が刊行される。この「死後版」にも、当然のことながら、生前のモンテーニュが1588年版におこなったおびただしい加筆訂正が活かされている。ただし、この1595年版と、「ボルドー本」というモンテーニュの「手沢本」では、本文には微妙な差異が存在する[3]。そして、はたしてどちらが、モンテーニュの最終的な意志を受け継いだテクストであるのかをめぐって覇権争いが起こり、その結果、「ボルドー本」という御真筆が残っているという強みもあって、20世紀初頭には、「ボルドー本」を底本とする側が勝利を収めた。その「ボルドー本」の校訂版として「ヴィレー=ソーニエ版」が長年にわたって、圧倒的な権威を誇示してきたのである。

とはいえ、繰り返しになるが、ルソーはむろん「ボルドー本」の存在を知るはずもなく、1595年版の系統の『エセー』を愛読していたのである。そこで、『ミシェル・ド・モンテーニュ事典』の「ルソー」の項目を引いてみた。すると、その冒頭に、それは1725年版のピエール・コスト版だと書いてある[4]。ピエール・コスト(1668-1747)は南仏出身の「ユグノー」で、1685年にナントの王令が廃止されると国外に亡命、アムステルダムでロックの『人間悟性論』(『人間知性論』)や『教育論』(『教育に関する考察』)などを仏訳して出版した後にロンドンに移り、1724年、ロンドンで『エセー』のエディションを出したという。『エセー』は1676年には「禁書目録」に入れられているわけで、およそ半世紀の空白期間をはさんで、久しぶりに刊行されたことになる(その間、英訳は出されている)。ただし、よくわからないことがある。1724年版は全6巻の予定で、グルネー嬢による『エセー』の「序文」はいいとしても、驚くことに、エチエンヌ・ド・ラ・ボエシー『自発的隷従論』も収録予定であったらしいのだ。ところが、1724年版は検閲で発禁になってしまったようで、どうやら全巻の刊行には至らなかったらしい。このあたり、詳細がつまびらかではないので、調査してみる価値がありそうだ。残念ながらGallicaでは、第1巻しか見られず、全貌をつかむことができない[5]

ルソーが読んだといわれる1725年版の『エセー』も、Gallicaにはないから、隔靴掻痒の感をぬぐいがたい。われわれ16世紀研究者が知っているのは、1727年にデン・ハーグで上梓されたコスト版の『エセー』の第5巻に『自発的隷従論』が収録されて、一世紀半ぶりに読者の前に姿を現したということである[6]。ただし、わたし自身は現物を確認したわけではない。Gallicaでも、なぜか、問題の第5巻だけは見られないのが、なんともくやしい。けれども、この1727年版に添えられた、ピエール・コストによる長文の「最新版へのはしがき」(1726年7月15日、ヨーク州Hovinghamにて)は読むことができる。そこでは、『自発的隷従論』を「現在のような不快な季節の、粗野で重苦しい風潮に委ねるわけにはまいりません」という、ラ・ボエシーの作品集に寄せた、モンテーニュの「読者に」(1570年8月10日付け)も引用しながら、コストは当時の状況からして、モンテーニュが『自発的隷従論』の公刊をためらったのも無理もないと述べている。

モンテーニュは、『自発的隷従論』を、「縫い目もわからないほど」(『エセー』1・27「友情について」)の友情で結ばれていた亡き親友の「思い出がそこなわれてはいけないから」(同)といって、ラ・ボエシーの作品集に収めることを控えたのだが、その気持ちもよくわかる。なにしろ、圧政を支えているのは、われわれ自身ではないか、隷従するわれわれが国王による支配という秩序を支えているのだぞ、諸君、目覚めよ、そうすれば圧政など恐れるにはたりぬという、危険なテクストなのである。事実、その後『自発的隷従論』は、「国家の政体を混乱・変革させようとめざす人々によって、いわば悪しき目的で出され、彼らの手になる別の文章とごったにされてしまったのだ」。手書きで回覧され、変革を願う勢力によって政治的に利用された『自発的隷従論』であったが、その後、絶対王政の時代を迎えると、ほとんど省みられず、出版されることもなかった。「思想史におけるランボー」[7]という形容は、いささか大げさだと思うものの、若き日のラ・ボエシーが綴った『自発的隷従論』が、コストの尽力で一世紀半ぶりに読者の前に出現したのは事件であってもおかしくない。ところが、このテクストはただちに反響を呼ぶことはなかったようで、最初期の影響としては、『自発的隷従論』の一部をそっくり取りこんだという、山岳派のジャン=ポール・マラーの『隷属の鎖』を挙げるのが通例であるらしい(英語版1774年、フランス語版1792年)[8]

愛蔵の1725年版の『エセー』には、惜しくもタッチの差で『自発的隷従論』は入っていないのだから、ルソーはこのテクストを読んでいないのであろう。ところが、念のためと思い、『ミシェル・ド・モンテーニュ事典』と同じシリーズの『ジャン=ジャック・ルソー事典』[9]の「モンテーニュ」の項目を読んで、大変に驚いた。ルソーはこの1727年版を、1735年に購入し、他の書籍を手放したときにも、プルタルコスと(ラ・ボエシーのテクストの入った)モンテーニュだけは手元に残したとあるではないか! となると、ラ・ボエシーを読んでいることになる(ただし、上記の事典にはラ・ボエシーは立項されていない)。いずれにせよ、一般的には、ルソーが『エセー』を愛読したことはしばしば書いてあるが、ラ・ボエシーを読んだ、読まないといった言及はなさそうである。このようなことを考えていて、あれこれ検索していたら、もうひとつとんでもない事実にぶつかった。ルソー研究者にはよく知られたことであろう。20世紀も終わり近くになって、ルソーの手で書き込みがなされた『エセー』が古書市場に出現したというのだ。それは1652年にパリで出た版であって(ラ・ボエシーのテクストは収録されてはいない)、この書き込みについては、スタロバンスキーが論じている[10]。つまり、ルソーは『エセー』の刊本をいくつか所蔵していたことになる。そして、そのひとつが1627年版であったならば、ラ・ボエシーを読んで、なんらかの直接的な反応があってもよかったのではと思ってしまう。

これ以上、ぐだぐだいっても仕方がない。最後に、両者のテクストから、有名な一節を抽出しておく。

「したがって、民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、あえてみずからを抑圧させているのである。彼らは隷従をやめるだけで解放されるはずだ。みずから隷従し喉を抉らせているのも、隷従か自由かを選択する権利をもちながら、自由を放棄してあえて軛le jougにつながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受け入れるどころか、進んでそれを求めているのも、みな民衆自身なのである。」

そもそも、彼らが自由を取りもどすのになにかを支払う必要があるのなら、私もあえてやかましくそうしろとは言わない。しかるに、人間がみずからの自然権son droit naturelを取りもどし、いうなれば、獣の状態から人間の状態へと立ちもどること以上に大切なことがあるだろうか。〔中略〕それにしても、なんということか。自由を得るためにはただそれを欲しすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世のなかには、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは!」[11]

「人は自由なものとして生まれたのに、いたるところで鎖につながれている。〔中略〕もしも力と、力によって生まれる効果だけについて考えるならば、わたしは次のように答えるだろう。「ある人民が服従することを強いられて服従するならば、それはそれで仕方のないことだ。人民がその軛を振りほどくことができ、実際に振りほどこうとするのなら、それは早ければ早いほうがよい。人民は、人民から自由を奪った者と同じ権利をもって、みずからの自由を回復することができる。というのも人民には自由を回復するだけの根拠があるし、そもそも人民から自由を奪うことそのものが根拠のないものだったからである」と。」[12]

ルソーの良き読者とはいえないわたしに、これ以上の議論を展開することはむずかしい。とはいえ、ルソーの枕頭の書となった18世紀版の『エセー』が、1725年版なのか、1727年版なのかで、ルソーの思想の把握の仕方も、ずいぶん異なってくるだろうし、書き込みのある17世紀版『エセー』が、ルソーにとっていかなる位置づけの本であったのかも気になるところである。

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[1] ルソー『孤独な散歩者の夢想』佐々木康之訳、白水社、「ルソー選集4」、1986年。以下、同様だが、『随想録』とあるのは『エセー』に変えた。
[2] 『エセー』の訳文は、次の拙訳を用いた。モンテーニュ『エセー』全7巻、白水社、2005-2016年。
[3] たとえば、先に引用した『エセー』2・28「なにごとにも季節がある」だと、「われわれのなかにen nous」という個所は、「ボルドー本」だと「われわれの性質のなかにen notre nature」となっている。これぐらいならば、大した差異とはいえない。ただし、無視できない本文のちがいも、当然存在することは忘れるべきではない。
[4] Ph. Desan(s.l.d.d.), Dictionnaire de Michel de Montaigne, Honoré Champion, 2007,p.1030.
[5] BNFによる書誌的説明には、「タイトルは手書きで修復titre refait à la main」となっていて、版元が「パリ、ビエーヴル街7番地、マルチネMartinet」と記されている。
フランスで出版できない場合には、奥付で「ロンドン、X書店」などと架空の版元を記して、フランスで出したことをカムフラージュするのが常套手段であって、これでは逆ではないかと思うのだが? このあたりの詳細も不明である。
[6] 第5巻のpp.74-136に、1577年、ジュネーヴで改革派牧師Simon Goulartが出したヴァージョンが再録されているという。なお、この1727年のデン・ハーグ版は、その後ロンドンで、1739年、1745年に再刊されているらしい。cf. Œuvres complètes d’Estienne De La Boétie, par L. Desgraves, T.1, 1991(1892), p.47.
なお、1740年「ロンドン刊」だという次の書物には、コストの注が付された『自発的隷従論』が、パスカルの『ド・サシ氏との対話』などと共に収録されていることを、Gallicaにより確認できた(タイトルページにはautres piècesとだけあって、わからないようになっているが、コストによる注釈付きでpp.39-95に収められている)。こうした事実から推して、『自発的隷従論』が1727年版の『エセー』第5巻に収められて、刊行されたことはまちがいない。Supplément aux Essais de Michel, seigneur de Montagne, contenant la Vie de Montagne par M. le président Bouhier...,London, Guillaume Darres & Jean Brindley, 1740.(BNF. ark: /12148/bpt6k850003z )
[7] ピエール・クラストル「自由、災難、名づけえぬ存在」、西谷修監修、山上浩嗣訳、エチエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』ちくま学芸文庫、2013年、192ページ。
[8] 山上浩嗣「解題」、『自発的隷従論』前掲邦訳、137-138ページ。
[9] R. Trousson et F. S. Eigeldinger(s.l.d.d.), Dictionnaire de Jean-Jacques Rousseau, Honoré Champion, «Champion Classiques», 2006, p.602.
[10] J. Starobinski, « Rousseau dans la marge de Montaigne——Cinq notes inédites », Le débat ,Gallimard, n.90, 1996, pp.3-26.
[11] エチエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』前掲邦訳、18-19ページ。
[12] ルソー『社会契約論』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2008年、18-19ページ。


2016/05/31

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