『ルソー 巡回路』(ジャン=フランソワ・ペラン)のレジュメ(上)
Jean-François Perrin, Rousseau, le chemin de ronde, Herman, 2014. (470 pages.)
ジャン=フランソワ・ペラン『ルソー 巡回路』、エルマン、2014年、470頁
越 森彦(白百合女子大学准教授)
著者のジャン=フランソワ・ペラン氏は大学改革の波に呑み込まれて消滅したグルノーブル・スタンダール第3大学を数年前に退官されました。氏が私に語ったところによれば、この『ルソー 巡回路』と先日刊行された『対話』の校訂版をもって氏の長年にわたるルソー研究は幕を閉じたそうです。(ただし、私自身はその言葉を半信半疑で受け止めていますが。)
当初、私は本書の書評を書くつもりでした。しかし、何度読み返しても分からない箇所が多数あり、私にはとても「評」する資格などないと痛感しています。ペラン氏は博士論文を指導してくださった恩師であり、本書の不明な点についてもご自宅に伺ってお尋ねしているのですが、本書の凡人を寄せつけぬ難解さに変わりはありません。おそらくそれは氏が明示的な説明を嫌い、比喩(それも隠喩)を好んで用いるからでしょう。たとえば、本書のタイトルにある「巡回路」(« le chemin de ronde »)という言葉をお読みになり、何を想像されましたか。「ああ、あのことか」とすぐにピンときましたか。この言葉は本書の最終章と「反歌」(これまた謎めいた言葉遣いです)と題された結論部において一度ずつ登場するのですが、私のような勘の鈍い人間はただ目が回る思いです。
本書の冒頭で« Toutes mes pensées sont en images. »というルソーの言葉をペラン氏は引用しています。氏の思考もまたイメージのなかで行われているようです。本書を読まれる方には、「これはルソーの作品を素材にして書かれた象徴派の詩人による散文詩なのだ」と思って読むことをお勧めします。著者独特の表現の妙(ペラン節)を味わうために自分はこの本を読んでいるのだ。そう自分に言い続けないと本書を読み切ることはできません。
散文詩であるがゆえに本書の意味的な中身を抽出するのは無意味であり、その難解さゆえに私にはその資格もないのですが、本書をぜひ紹介したいので著者の主張をまとめてみます。もちろん私に理解できた範囲内でのまとめです。
本書は全部で10章から成っています。まずは最初の3章についてご報告します。
I. 文体と印象
『演劇に関する手紙』と『新エロイーズ』の校正作業をめぐってマルク=ミシェル・レ(オランダの出版業者)との間に交わされた書簡の分析を通じて、「文体家」としてのルソーの「芸術上の倫理感」を明らかにする。韻文のように散文においても韻律がなによりも重視されるべきであると考えるルソーは「韻律に対する配慮」から「音節単位で」推敲をした。その厳密さはフロベールの姿を彷彿とさせる。また、「文字の順序」に敏感なルソーは「換え字遊び」(« métagramme »)あるいは「類音重語」(« paronomase »)を好んで用いた。( 例: « le premier mot ne fut pas […], aimez-moi, mais aidez-moi ».『言語起源論』)この「子音の連打」は「朗読法」の観点からだけでなく、「対照法」に基づいた思想の創造とその表明という観点からも重要な役割を担っていた。実際、ルソーは作品の冒頭部分において、作品全体を貫く「本質的対立」を「凝縮」させるために「類音重語」を頻繁に用いている。また、サンジェルマン宛書簡のように「心の奥底」を語る際にもこの文彩は欠かせなかった。ルソーにとってフランス語は「本質的属性としての欠乏」を抱え込んだ言語であり「観念が持ちうる変化」を十分に言い表すことができない。その「欠乏」を少しでも埋め合わせるために「類音重語」という文彩は必須なのである。
II. 憐れみの情の考察、言語の変革 −− 『エミール』と『不平等論』について
「憐れみの情」(« pitié »)の概念はルソーに「語彙と言語表現の面」で「恐るべき困難」をもたらした。実際、「その概念を言い表すための言葉が当時は存在していなかった。より正確には、それを言い表すことができそうな言葉があったとしても、<正しい用法>によって定められた既存の言葉ではあまりに多くの意味が含まれてしまうか、反対にあまりにわずかな意味しか含んでいなかった」。つまり、18世紀において「憐れみの情」は思考することも言語化することもできない概念であった。ルソーはそれを「不純正語法」(«barbarisme »)の意図的な使用によって初めて言い表すことに成功した作家である。具体的には、「憐れみの情」について説明する際にルソーは「一体化(する)」(« identifier », « identification »)という言葉を用いているが、 名詞形の« identification »は当時の辞書の収録項目に含まれておらず、 動詞形の« (se) identifier »に関しては、何か別のものと「一体化する」という現代的な意味はまだなく、ある要素とある要素が「(論理的に)同一である」ということのみを意味していた。ルソーは « (se) identifier »という言葉にそれまでなかった 、完全な「自己喪失」によって「自己を自己の外側に置く」という「能動的な意味」を与えている。また、 « identifier »という言葉はスコラ学の用語であり、それを用いることは「良き文体」からの逸脱ですらあった。事実、18世紀にはルソー以外にこの語を頻繁に使用した作家はいなかった。さらに、« identification »という言葉は父と子と精霊の「同一実体性」(« consubstantialité »)を意味する神秘神学の用語であり、ルソーはこれを全作品において一回だけ用いている(『人間不平等起源論』)。「憐れみの情」を論じる際に、かなり特殊な神学用語をルソーがわざわざ用いたのはなぜか。それは、その用語のみが、「(純)自然状態」においては自己と他者の区別は不分明であり両者はまさに一体化していたことを言い表すことができたからである。また、「共苦」(« pâtir avec »)の感情において典型的に現れる、他者の姿を自己と重ねる「鏡面関係」についてルソーほど「真剣に」考察した思想家はいなかった。さらに、同様の「正しい用法に対する強行措置」は « expensif,ve »(「満ちあふれる」)という本来は科学用語だった言葉の使用にも見られる。
III. 情動の政治 −− 『演劇に関する手紙』
『演劇に関する手紙』においてルソーはフランスの悲劇が古代ギリシャ・ローマの悲劇がもっていた「政治的効力」を失っていることを指摘した。モンテスキューが『法の精神』(XI, 15)において指摘したように、古代ローマでは、ある悲劇作品を観て集団的熱狂状態に陥った民衆が政治体制を変革することすらあった。しかし、そのような「政治的効力」を現代の悲劇はもはや有していない。最悪の政治的状況が舞台において提示されても現代の観客は「情動」を突き動かされない。悲劇の「政治的役割」に関して古代と現代では決定的な「乖離」が生じている。この問題をルソーはどのように「掘り下げた」のか。著者は「興味」(« intérêt »)と「模倣」(« mimésis »)という二つの概念に着目している。
最初に、ある悲劇作品に対して観客が「興味」をもっているという状態は、演じられている人物が自分とよく似ていると感じられるために観客がその登場人物の立場に身を置いている状態を意味する。この点で、「興味」は「憐れみの情」に関連している。「(神以外の)感覚的対象に心が開かれている」状態は原罪の証であるとしてボシュエのような「カトリック教徒の道徳家」は演劇を非難したが、ルソーによれば苦しんでいる他者(=悲劇の主人公)の立場に身を置くことは「憐れみの情」の発露であり自然にかなっている。そして、現代の悲劇作品が問題を抱えているとすれば、それは、間違った対象(=悪役)と一体化したい気持ちにさせることと、正しい対象に「憐れみの情」をもたせたとしてもその状態が一時的にしか続かないことである。
次に、「模倣」の問題に関しては、そもそも「憐れみの情」は模倣の才が発揮されることによって生じる。そして、他者を模倣するためには自己を一時的にせよ放棄することが必要である。しかし、現代人はもはやその能力を失っている。したがって他者の苦痛に憐れみを感じる能力も失っている。現代において他者との一体化が可能になる空間があるとすれば、それはもはや悲劇(あるいは演劇)ではなく祝祭である。
(続く)