モンテーニュ、あるいは近代情念論への礎石
Emiliano Ferrari, Montaigne : une anthropologie des passions, Paris, Classiques Garnier, 2014.
エミリアーノ・フェラリ『モンテーニュ、情念の人間学』、クラシック・ガルニエ社、2014年
久保田剛史(青山学院大学文学部准教授)
情念に関する近代的理論といえば、一般的にデカルトとともにはじまるとされている。とはいえ、「あるがままの人間の姿」に強い関心が寄せられたルネサンスの時代から、すでにペトラルカやエラスムス、フアン・ルイス・ビーベスなどの人文主義者たちによって、人間の内面に関する再定義の試みがなされていた。なかでも、ルネサンス最後の人文主義者であるモンテーニュは、古今東西の逸話や自己の経験を題材にしながら、近代情念論への礎石ともいうべき新たな情念論を展開している。本書は、そうしたモンテーニュの情念論がもつオリジナリティはもちろん、『エセー』がヨーロッパの精神科学にもたらした功績についても明らかにしている。
第一章では、古代から中世までの伝統的な霊魂観を踏まえたうえで、『エセー』における情念論の生理学的側面について論じている。魂を肉体の動力原理とみなすアリストテレス主義の伝統とは異なり、モンテーニュは、人間がおこなう反射的行動や無意志的動作を例に挙げながら、魂の作用を伴わない動力因が肉体そのものに存在すると考える。モンテーニュはこうした身体の自律的・生理的運動を、とりわけ自身の落馬体験をもとに説明づけているが、著者フェラリはさらに、デカルトの機械的人間観との比較を通して、近代の情念論に与えたモンテーニュの影響を浮き彫りにしてみせる。
第二章では、情念の諸相やそれらの特質に着目したうえで、『エセー』における情念論の心理学的側面について論じている。モンテーニュによると、人間は肉体と魂からなる存在であるが、いかなる情念も「肉体のみ」あるいは「魂のみ」に還元できるものではない。というのも情念は、肉体から生じる生理的なものであれ、魂から生じる心理的なものであれ、肉体と魂のあいだで相互に影響を及ぼしあうことで、人間を移ろいやすいものにするからである。アリストテレス主義の伝統では、魂はそれぞれの機能に応じて階層化されていたが、モンテーニュはこうした合理的な霊魂論を架空の産物としてしりぞける。モンテーニュによると、実際の魂とは、さまざまな感情による多様な絡みあいで成り立っているものである。そのため、みずからの内面を観察してみること、つまり内省と自己認識の試みこそが、人間の複雑な心理を理解するための最良の方法となるのである。このことから著者フェラリは、モンテーニュの情念論が「汝自身を知れ」というソクラテス的英知を引き継いでいるだけでなく、ホッブズにおける自己認識の概念(とりわけ『リヴァイアサン』の序文)にも影響を与えていることを指摘する。
第三章では、『エセー』における情念論の倫理的側面が考察されている。ストア派が情念にかられる人々を非難したのに対して、モンテーニュは人間が情念を免れることのできない存在であると考えており、情念を排斥することよりも、むしろ情念を緩和させることに重点を置く。たとえば、『エセー』第三巻4章の「気を紛らわすこと」では、ある情念を和らげるために、別の対照的な情念を駆り立てて両者を解消させるという合理的な方法が提唱されている。モンテーニュによると、ストア派的な非情の境地(apatheia)は実現不可能であるとはいえ、理性はさまざまな情念を効果的に用いることで、魂の動揺を調整することができる。肉体もまた、魂に対して影響を及ぼすことがあるにせよ、少なくとも内省と自己観察を試みることで、魂は肉体の情欲に働きかけることができる。こうして肉体と魂が調和をとりあい、たがいに均整のとれた状態こそが、モンテーニュが説く人間の理想的英知なのである、と著者は結論づける。
以上のように、本書は『エセー』における情念の思想を、たんなる心理学的問題として扱うのではなく、認識論や倫理学をふくめた多様な視点からアプローチすることで、これまでの研究にはない斬新な考察をもたらしている。テクストの読解にあたっては、『エセー』の刊行年にそって読み解くのではなく、あくまでも共時的な観点から分析がなされている。そのため、情念に関するモンテーニュの思想的変遷については検討の余地があるものの、いずれにせよモンテーニュの情念論を西洋思想史のなかに位置づけるうえで、きわめて重要な書物であることは間違いない。