ルソー、〈共〉と〈感覚〉の喪失に抗して


Jean-Luc Nancy, Politique et au-delà, entretien avec Philip Armstrong & Jason E. Smith, Galilée, 2011
ジャン=リュック・ナンシー『政治とその彼方』(フィリップ・アームストロング&ジェイソン・E・スミスとの対話)、ガリレ社、2011年

柿並良佑(山形大学人文学部専任講師)

現代の観点からルソーを読むのであれば、数年前に『現代思想』でこの思想家がいかに特集されたかを見るにしくはない(『現代思想』青土社、特集「ルソー 起源への問い」、2012年10月号)。論考が掲載された現代の思想家の顔触れを見るだけでも、18世紀に産声を上げたルソーの遺産が今日なお我々の注目を引かずはいないことがよくわかる。

この特集には掲載されなかったが、今日のフランス語圏で精力的に著作を発表している人物、セルジュ・マルジェルのルソー論『欺瞞について』(堀千晶訳、水声社、2012年12月)がその後ほどなくして訳出されたのは嬉しい驚きであった。訳者は「無為=営みの喪失désœuvrement」というルソー自身が用い、かつ本書の軸に据えられた語を、ブランショら現代の著述家の文脈に置きなおしているが、そのブランショを受けたラクー=ラバルトやナンシーへのオマージュとして本書を捉える仮説が提示されている(同書、「訳者あとがき」参照)。まさにマルジェルの序文では、文学と政治、嘘と権力がせめぎ合う原初的な「舞台」が問いに付されているわけだが、この「舞台」なる語がラクー=ラバルトとナンシーにとっても重要な語であったことは先の仮説に一つの足場を提供することになろう。二人は1992年にこの語を冠する往復書簡を発表している(後に「対話をめぐる対話」という続編と併せて単行本化された。Philippe Lacoue-Labarthe & Jean-Luc Nancy, Scène suivi de Dialogue sur le dialogue, Bourgois, 2013)。そこでは文字通り演劇を中心としてミメーシスなどの主要問題が論じられていたが、遡れば二人の初期の活動においても精神分析をめぐってこの語が取り上げられていたのだった(「政治的パニック」拙訳、『思想』岩波書店、2013年1月号)。

一方のラクー=ラバルトは同時期にフロイトの論文「舞台の上の精神病質的人物」を仏訳し、その解題として「原光景scène primitive」にかけたタイトルのもとに執筆した論考「舞台は根源的である」を自らの著作『哲学の主体』にも収録しているが(« La scène est primitive », in Philippe Lacoue-Labarthe, Sujet de la philosophie, Flammarion, 1979)、我々の文脈に戻ればほとんど一冊の書物全体をルソー(とハイデガーによるその否認)に割いてもいたのだった(『歴史の詩学』藤本一勇訳、藤原書店、2007年。ここではごく簡単に指摘しておくにとどめるが、同書の第一部が「起源の舞台」と題されているのはおそらく偶然ではない。先の共著『舞台』でもミメーシスを核とするアリストテレスの演劇論が論じられていたが、それが『歴史の詩学』ではルソーに即して展開されている)。

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他方、ナンシーは2008年の『デモクラシーの真理』(「民主主義の実相」、『フクシマの後で』渡名喜養哲訳、以文社、2012年に収録)の冒頭に銘として「社会契約論」の一節を掲げてはいるものの、ルソーについてまとまって論じることはなかった。先にも触れた「無為」概念を展開して注目を集めた『無為の共同体』では、つねに「喪失」の意識と結びついたものとしての「共同体」が問いただされているが、その意識を近代において体現しているのがルソーだとされていた(西谷修・安原伸一朗訳、以文社、2001年、18頁)。

だが同じく政治について論じた近年の著作『政治とその彼方』では、インタビュアーに応える形ではあれ、この思想家から論を起こしている(Jean-Luc Nancy, Politique et au-delà, entretien avec Philip Armstrong & Jason E. Smith, Galilée, 2011)。ごく図式的に言って、契約を結ぶための人間たちが存在するためには社会が存在しなければならず、そのような人間性を保証する社会が存在するためには決定をくだす人間が存在しなければならない……。そのような難問、曰く「重なり合う先行性double antériorité」が思索のライトモティーフであり続けていることを、ナンシーは自らの鍵語である「特異性singularité」の名のもとに明言している。すなわち、そこで賭けられているのは「共通の実体なき、〈共同‐での‐存在〉」である。

ここでもまたルソーは近代において或る意識を持った初めての人物として(ヘーゲル、マルクス、さらにはフッサールをも飛び越えた重要性を持つ人物として!)、今度はどうやら肯定的に語られている。『社会契約論』の思想家は社会が利害関心の結びつきに他ならず、そこに上位の利害関心が存在しないことを見抜いた最初の人物である。ルソーこそは「神の死」を理解した最初の人物であって、もはやサヴォワ助任司祭の告白する「神聖な本能」も辛き渡世に傷つく人間を救うことはできまい。その「人間」は先にも触れたように社会と一種の悪循環に陥っているが、ルソーは人間の非‐自然性を提示すると同時に、社会の矛盾をも把握していた。社会は人間の可能性であると同時にその倒錯の可能性でもある。『社会契約論』の著者が同時に『告白』を書くこともできた所以である。

(「神の死」について補足しておくと、この問題意識をもってナンシーはルソーを読み、同時に例えばブランショを読む。「ポリスについて相続人不在の状態にある〈共同‐での‐存在〉が提起する問いをデモクラシーは解決したわけではなかった」が、とはいえ「デモクラシーがいかなる神や主人に対しても隷属せず、服従しないことを要求している」ことは確かなのだ。雑誌『リーニュ』のブランショ特集号に寄せたマチルド・ジラールとの対談「明かしえぬ残余」を参照されたい。Cf. Jean-Luc Nancy, « Reste inavouable », entretien avec Mathilde Girard, Lignes, n° 43, 2014/1, p. 158. ナンシーが長らく格闘してきた『明かしえぬ共同体』でブランショが『無為の共同体』での議論に異議申し立てを行っていたことを踏まえるなら、この対談のタイトルは「明かしえぬままにとどまれ!」と命令形で聞き取っておくべきなのかもしれない。なおこの対談は神話と共同体の関係を軸にさらなる展開を経て、以下の著作『本来的に語ると――神話をめぐる会話』に受け継がれている。Mathilde Girard & Jean-Luc Nancy, Proprement dit : entretien sur le mythe, Lignes, 2015. 自らの経歴について語った対談としてはすでにLa possibilité d’un monde, entretiens avec Pierre-Philippe Jandin, Petits Platons, 2013などがあるが、『本来的に語ると』の方がラクー=ラバルトとの共同作業について多く触れているという点では興味深い。)

かくして同時代人(ディドロ、ダランベール、コンドルセ、ヘルダー、そしてゲーテ)がそれぞれに時代の要請に応えていたのとは異なり、ルソーは、これ以降共立不可能となる世界のあいだで宙吊りになり、大いに揺れ動き、分岐していく経験にただひたすら向き合うことになる。

そこから導かれるのが「感傷的/情感的なsentimental」思想家としての側面であり、ルソーをロマン主義の先駆者たらしめる所以だとナンシーは指摘している。しかしここで言う「情感/感情sentiment」は、やはり人間が自然に有するものではない。ナンシーは「情感」を世界に存在・実存することの可能性と言い換えるが、それはもはや自然に感じられるものではない。そこでルソーとともに現れてくるのが、自ら実存することを感じなければならない、という要請だというわけである(これもまた「助任司祭の告白」にみられるモティーフだ)。実存の「感(受)性sensibilité」が退引していくことを感じ取ったという点にも、やはりナンシーは近代人の横顔を見て取ったのだろう。

なるほどルソーは『孤独な散歩者の夢想』のようなテクストを書き残す一方で、『社会契約論』の最後では「市民宗教」を論じるにあたり、契約から導出される装置全体を「市民が心で感じられる」ようにすることを求めたのであった(Politique et au-delà, p.14. この表現はナンシーによるものと思われるが、当該の章でルソーはたしかに「社会性の感情sentiments de sociabilité」を要請している)。

その『社会契約論』では周知のとおり「一般意志」が主要問題として論じられているわけだが、先に触れた「特異性」との関連がここで重要になる。すでに指摘された「共同/共通le commun」と「特殊le particulier」の「重なり合う先行性」が、「一般意志」と「特殊な〔個別の〕欲望」との同じく「重なり合う先行性」に読み替えられ、この難問を解く鍵が二つの項の「起源」に求められる。その起源とは、曰く「「意味」のような何物かが循環することへの意志、欲望、性向、欲動」である(実は先に「重なり合う先行性」が取り上げられた際、フロイトの言う原父殺害が示唆されていた。殺された父は「事後的に」父とされるが、しかし兄弟たちは「父」として彼を殺す、という悪循環……。この点でルソーはフロイトにも先駆けていたわけだが、「欲動pulsion」は近年のナンシーがフロイトから拝借し、いわば存在そのものの別名として援用する語であり、ここでの措辞をみるとその点でもルソーは先達だということになろうか)。

意味はけっして最終的な保証人(神、創造主、〈真理〉、等々)を持たず、つねに相互的な差し向け合い、すなわち循環のうちにある……、それ自体はナンシーがほぼすべてのテクストで繰り返すテーゼだが、ここで注意するべきはその循環が「共同/共通」と「特殊」の錯綜する境位と捉えられている点だろう。この循環とは先に触れた「起源」の別名であり、だとすればそれは起源といえども、錯綜し循環する起源、いわば起源なき起源ということになろう。ナンシーの見立てでは「共同」と「特殊」はともにこの循環のうちでその「結び目として、連接として、変奏として」形づくられるのであり、「このことがさまざまな特異性を生み出す――「共同の」特異性と「特殊な」特異性とを」(Politique et au-delà, p. 16)。ナンシーの用語法にあってもそれ自体がいささか「特異な」言い回しだが、「一般‐特殊‐個別(特異)」というヘーゲル的三幅対に収まらぬ特異性の理論が浮上していると言えるだろう。我々はここに弁証法に抗する理論家ルソーの姿を見るべきなのだろうか?

以上のように『政治とその彼方』は50頁強の小ぶりな対談ながら、ナンシー流の存在論がルソー由来の政治理論と切り結ぶ瞬間を垣間見ることのできる好機である。触れるべき論点はまだまだあるが、一つ先ほどの「感覚」との関連で述べれば、同世代の――そして「分割/共有partage」という鍵語を文字通り「共有」する――思想家ランシエールの理論との異同にも端的に触れられている。ランシエールの立場から見れば、(契約が結ばれるのに必要な)「合意consensus」が生じさせてしまう「不和dissensus」ないし「排除」を見定める必要がある(不和という用語のニュアンスについては『平等の方法』市田良彦・上尾真道・信友建志・箱田徹訳、航思社、2014年、59頁を参照)。だが「不和」は「合意」を裁断するのみならず、「分け前なき者の分け前la part des sans-part」を明らかにしながら、新たな分有へと開くものでもある。その意味でナンシーはランシエールに同意しながらも、「いかにして合意と不和にとっての〈共通の場〉に他ならない「共同」を考えるべきか」と自問している(Politique et au-delà, p. 39)。

だが仮にこれを同一性と差異の同一性という図式で言い換えることができたとするなら、今度はナンシーがヘーゲル的に振る舞っていることになるのだろうか? たしかにヘーゲルは若い頃からナンシーの関心の多くの部分を占めてきた思想家ではある。ただし先に触れた「政治的パニック」でも、主体の誕生にあって「関係」と同程度に重要な「解離dissociation」が論じられていたこと、そしてまたそれらに共通の土台のごとき境位が求められているわけではなかったこと――そしてこの思考が『無為の共同体』に引き継がれていったこと――を同時に考えあわせなければなるまい。『政治とその彼方』でもまた、ランシエール以上に「分有」の「本質」的性格を強調するナンシーはこの「本質」という「形而上学的」な語を「〈共同‐での‐存在〉をめぐる状況はどうなっているのか」という問いの形に変換し、それを目下の我々の条件――「デモクラシーの条件」――において、ただし「共通の与件を欠いた条件」において問うことを強調しているのだ。

「与件donné」の不在、何も与えられたものがないこと。それは「神の死」が代弁するように単に究極的な意味や根拠の不在であるだけでなく、「共同」の本質ないし意味を支える基盤の不在でもある。かくして「共同」は解きがたき難問として現れることになるが、西洋においてその課題に応じてきた思想家としてナンシーが召喚するのは、アリストテレス、ホッブズ、ロック、マルクス、そして言うまでないことだが、我らがルソーその人に他ならない。

***

本稿で中心的に取り上げた『政治とその彼方』にかんする補注としていくつか記しておくと、原語Politiqueには冠詞が付されていない。かつてナンシーはpolitiqueという語をめぐってラクー=ラバルトらとともに「政治的なものle politique」と「政治la politique」という区別を行っていた。近年ではこの区別はかつてほどの意義を与えられていないように思われるが、この対談のタイトルに含まれるpolitiqueの含意について次のインタビュー記事が参考になる。Ginette Michaud, « Politique tout court et très au-delà : entretien avec Jean-Luc Nancy », Spirale : arts, lettres, sciences humaines, n° 239, 2012.
(WEBでも公開されている。
https://www.erudit.org/culture/spirale1048177/spirale06/65857ac.pdf
2016年4月30日最終確認)

またインタビュアーの一人フィリップ・アームストロングは以下の著書でナンシー哲学における政治を集中的に論じている。Philip Armstrong, Reticulations: Jean-Luc Nancy and the Networks of the Political, University of Minnesota Press, 2009. 特に第一章では、80年代のナンシーらの「政治的なもの」をめぐる仕事に対するナンシー・フレイザーの論評から、サイモン・クリッチリーを経て近年の「ポスト基礎づけ主義」論者のオリヴァー・マーチャート(マーヒャルト)に至る英語圏の議論が整理されている。

ナンシーがルソーに言及するのは本稿でも取り上げたように政治にかんする文脈であることが多いが、一つ変わり種としては『思考の重み』に収録された「荒野に呼ばわる声」を挙げておく。『声の分有』以来の主要テーマをめぐって二人の男性が会話をするこの「舞台作品」には、ソシュール、ヴァレリー、バルト、クリステヴァ、モンテーニュ、アガンベンらに交じってルソーが登場し、『エミール』第二編の三種の声にかんする一節を朗読する。そしてまたシェリングやヘルダーリンと話すヘーゲルの声が聞こえ、『糸をつむぐグレートヒェン』を口ずさむ歌声や、『ナブッコ』の狂気の王のシーンが流れ……。Cf. « Vox clamans in deserto », in Le poids d’une pensée, Le Griffon d’Argile / Presses Universitaires de Grenoble, 1991 ; Le poids d’une pensée, l’approche, La Phocide, 2008 ; repris in Demande : Littérature et philosophie, Galilée, 2015.


2016/05/04

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