翻訳礼賛に潜む戦略的パースペクティヴ:抵抗としての「人間性」
バルバラ・カッサン『翻訳礼賛』、パリ、ファイヤール、2016年、258頁。
Barbara Cassin, Éloge de la traduction, Paris, Fayard, 2016, 258p.
黒木秀房(立教大学兼任講師)
昨今、グローバル化疲れによる国民国家への退行と言えるような現象が世界中の様々な場所で同時多発的に起こっている。その一方で、これまでにもまして多文化共生、異文化理解、国際交流について語られることが多くなってきている。こうしたテーマについて語る際に、しばしば問われるのが翻訳の問題である。この問題を扱った本書も、一瞥しただけでは数ある翻訳学や翻訳理論の一つであり、その基本的な主張はややもすれば楽観的なマイノリティー礼賛だと見なされかねない。しかし、本書で語られる翻訳の問題は、じつは遥かに広大な射程を持ったものだ。
著者バルバラ・カッサンは、いずれの著作もまだ訳されていないものの、2015年に来日したこともあり、哲学・思想の分野では広く知られている。古典学の研究者としてキャリアをスタートし、ソフィストに関する浩瀚な著作『詭弁の効用』(Barbara Cassin, L'effet sophistique, Paris, Gallimard, 1995.)を出版したのち、ギリシャ文化に関する研究を様々な形で展開しながら、国際哲学コレージュやフランス国立科学研究センターのディレクターを務めるなど、精力的な活動を行ってきた。また、バディウとの共著のハイデガー論である『ハイデガー:ナチズム・女性・哲学』(Alain Badiou, Barbara Cassin, Heidegger. Le nazisme, les femmes, la philosophie, Paris, Fayard, 2010.)や「ノスタルジー」をテーマにした美しい哲学的エッセー『ノスタルジー、一体いつ人は家(ウチ)にいるのか:ユリシーズ・アエネイス・アーレント』(Barbara Cassin, La nostalgie. Quand donc est-on chez soi ? Ulysse, Énée, Arendt, Paris, Autrement, 2013.)など、近年ますます旺盛で多様な執筆活動を行っており、取り扱う主題も哲学のみならず、精神分析(とりわけラカン)からフェミニズムに至るまで多岐にわたる。
だが、彼女の名が世界的に広まったのは、何と言っても、哲学辞典『ヨーロッパの哲学語彙』(Vocabulaire européen des philosophies, Paris, Seuil et Robert, 2004.)*の編纂によってである。その特色は、通常の辞典のように意味を単一言語へと還元するのではなく、複数言語から構成される哲学語彙の重層性に焦点を当てていることにある。この辞典は十数ヶ国語に翻訳され、哲学辞典としては例外的な売り上げを記録し、世界中の哲学研究に根本的な変化をもたらした。この辞典の編纂が実践編だとすれば、本書はいわばその理論編と言える。ただし、本書で展開されるのは、翻訳の方法論ではない。カッサンは本書で、編纂の経験を振り返りつつ、アクチュアルな問題を交えながら、改めて「翻訳」について考察しているのだ。
本書の白眉は、単に翻訳の問題を哲学的に考察したのではなく、哲学の根本的な問題の一つに翻訳の問題があると喝破し、それを梃子に哲学の新たなイメージを提示している点にある。哲学は、その名(φιλοσοφία)がまさに翻訳不可能な語としてヨーロッパ言語に残り続けていることに端的に表れているように、翻訳の問題を内包している。しかしながら、20世紀に限ってもヴァルター・ベンヤミン、ウンベルト・エーコ、アントワーヌ・ベルマンらが重要な翻訳論を展開してきたにもかかわらず、翻訳を哲学の内的な問題として包括的に論じたものが少ないだけでなく、むしろ忌避されてきたとさえ言えるのはなぜか。それは、哲学がギリシャ語=ロゴスによって普遍性を探求するものとみなされ、ギリシャ語を話さない者はバルバロイとして最初から排除されてきたからだ。こうしたロゴス中心主義は、ハイデガーに至るまで連綿と続いてきた。それに対し、彼女が述べるところの「翻訳」とは、一つの言語へと収斂することではなく、むしろ言語を複数化へと解き放つことであり、フンボルトを引用しながらカッサンが用いたギリシャ語を使うならば、エルゴン(作品)ではなく、エネルゲイア(活動)なのだ。
カッサンはソフィスト的戦略によってロゴス中心的な哲学の体制を転倒させる。一般的には、存在、実体、事物、イデアといった観念がまずあり、ロゴスによってそれらを指し示すと思われがちだが、著者によれば、先にあるのは言葉であり、その言葉のパフォーマンスによって、ある諸条件における最良の真理を創造することこそが問題である。こうして、言葉は有限だが事物は無限であるという事実を隠蔽することなく、むしろこの事実を前提とし、さらにはバベル的現実を災厄ではなく、僥倖とみなすことで、哲学を普遍主義と一者から解放することが試みられる。従来の哲学においては批判的に語られてきた「翻訳不可能なもの」、「同形異義語」、「相対主義」という三つのトポスの礼賛も、このような転倒の結果として導かれる。端的に言えば、哲学を異邦の言葉で語ることは、偽の哲学であるどころか、ロゴス中心主義の袋小路を打ち破るための戦略的な実践哲学なのだ。
ところで、フランス語のéloge(礼賛)は、元を辿れば、「上手に話す」という意味を持つギリシャ語のeulogosと類縁関係にある。だとすれば、「翻訳礼賛」という題名には、翻訳の無批判的な肯定ではなく、ロゴスとは異なる言語のトピカ的機能の探求という意義が込められているのではないか。今や経済語として世界を跋扈するグロービッシュ(グローバル・イングリッシュ)、それに呼応するかのように隆盛を極める科学哲学の発展、現代の普遍主義としてのグローバリズムの進展、こうした状況の中で、カッサンが政治的・教育的・創造的行為としての翻訳とその礼賛を通じて試みるのは、「人間性(humanité)」の再興である。ただしそれは、彼女自身が述べるように、反68年の哲学者たちが試みたような全体主義への「反動」ではなく、一つのモデルとしての人間という普遍化への「抵抗」であり、人間の内的な複数性や重層性を肯定することを目的としている。
カッサンが、彼女の専門領域であるソフィストのみならず、20世紀フランスの哲学者、とりわけ一見すると翻訳について語ることのなかったドゥルーズを肯定的に引用していることは意外に思われるかもしれない。だが、「プラトニズムの転倒」を一つのモチーフに掲げるドゥルーズのニーチェ主義的側面に鑑みれば、まさにカッサンはその実践的継承者と言えるだろう。また、ドゥルーズのみならずラカンやデリダなどのフレンチ・セオリーを射程に収めるカッサンは、それらの思考の共通の地平を「翻訳」という観点から見事に照射しているようにも思える。
このように、古代哲学の深い学識に基づく著者の議論は十分に説得的であるだけでなく、古びてしまったかのように見えるフランス現代思想に新たな角度から光を当てながら展開される「翻訳」に関する著者自身の新たな思考は、グローバリズムとナショナリズムが混在する現代社会を考察する上でも示唆に富む。
* その序文だけは翻訳がある。バルバラ・カッサン「『ヨーロッパの哲学語彙:翻訳しがたいものの辞書』序文(三浦信孝+澤田直+増田一夫訳)『日仏文化』86号、日仏会館、2017年。また、同誌には、2015年11月25日に東京で行われた講演の翻訳も収録されている。バルバラ・カッサン「複数の言語で哲学すること」(三浦信孝訳)。