ミュージカル『テレーズ・ラカン』
Thérèse Raquin, musical play in two acts, 2014
Based on the novel by Émile Zola, ,Thérèse Raquin, 1867
Adaptation, book and lyrics : Nona Shepphard
Composer, Musical Supervisoir : Craig Adams
Musical Director : James Simpson
Set and Costume Designer : Laura Cordery
Lighting Designer : Neil Fraser
Sound Designer : Richard Brooker
Associate Lighting Designer : Peter Small
Associate Sound Designer : Ross Portway
Casting : James Orange
Producer : Jim Zalles
Cast
Thérèse Raquin : Julie Atherton
Madame Raquin : Tara Hugo
Camille : Jeremy Legat
Laurent : Greg Barnett
Michaud : James Hume
Oliver : Matthew Harvey
Suzanne : Lila Clements
Grivet : Gary Tushaw
Oarsman : Iwan Lewis
River Woman : Claire Greenway
River Woman : Ellie Kirk
River Woman : Lucy O’Byrne
Park Theatre
(《テレーズ・ラカン》、パーク・シアター、ロンドン、2014年8月9日)
(初演Finborough Theatre、ロンドン、2014年3月25日)
参考文献:Émile Zola, Thérèse Raquin, adapted by Nona Shepphard, Oberon Books, 2014(本公演の台本を含む)
中村翠(京都市立芸術大学美術学部講師)
『テレーズ・ラカン』の翻案が近年盛んである。韓国のパク・チャヌク監督がこの小説にインスピレーションを受けて2009年に映画『渇き』を撮り、第62回カンヌ映画祭審査員賞を受賞したことは記憶に新しい。その後も、2013年には米国で、『イン・シークレット(In Secret)』という題名でチャーリー・ストラットン(Charlie Stratton)監督が映画化、2015年秋には日本でも『アレノ』という題名で越川道夫監督により映画化されたほか、同年、米国ブロードウェイで舞台化され、女優キーラ・ナイトレイがヒロインを演じた。19世紀フランスの小説家エミール・ゾラによって1867年に出版された本作が、今世紀になってどういうわけか数多のアダプテーションを生み出しているのである。女主人公テレーズとその愛人ロランが夫カミーユを川で溺れさせ、まんまと再婚するが、罪悪感から二人の関係は悪化し、最終的には破綻に陥るという悲劇は、そのストーリーのシンプルさゆえに、こんにちでも再創造を惹起するのだろうか。
なかでも2014年夏、ロンドンのパーク・シアターで上演されたミュージカル翻案は、小規模ながらも観た者にインパクトを与えた。小説を舞台作品へと翻案する際に、ミュージカルというジャンルを選んだ意義が感じられるものだったからである。同年3月にフィンボロー・シアターで初演されたこの舞台が、場所を移して再演されたこともうなずける。
ノナ・シェパード(Nona Shepphard)の脚本、クレイグ・アダムズ(Craig Adams)の音楽による本作の細部を見てみよう。幕開けと同時に、車椅子に座ったラカン夫人の前で、テレーズとロランが重なり合って倒れる場面がくり広げられる。このイン・メディアス・レスの手法により、原作を知らない観客にも前もって結末が知らされることとなる。そしてその周囲ではコーラスが「血と神経(Sang et nerfs / Blood and nerves)」というリフレインを歌う。これはゾラが『テレーズ・ラカン』第二版の序文(1868)で説明した物語の根底に流れるテーマ(「私は二つの異なる気質のあいだに生じる奇妙な関係を表わそうとした。多血質の人間が神経質の人間と接触した時におこる混乱を示したのだ」)を、単語のレベルにまで削ぎ落として音楽にのせたものとなっている。
あるいは「木曜の晩(Thursday Nights)」というナンバーは、夫カミーユとその母ラカン夫人が友人を招いて行う毎週木曜のドミノ遊びの集いを歌ったものである。この場面で、登場人物たちは« double-blank, ace-blank, double-ace, deuce-blank, deuce-ace […] »(参考文献p. 17)とドミノの目を唱えながらギクシャクとさびついた機械のような動きをする。これは単調な日常の習慣を機械的にくり返すカミーユたちを表すとともに、それに退屈したテレーズの視点をも投影している。英語の発音の端切れの良さも、そうしたメカニカルな表現を聴覚の面から強化している。
この歌が3度目にくり返される時、歌詞はわずかに変化する。「double」が「devil」に、「blank」が「death」に取って代わられるのだ。« four-death, four-ace, […] devil-four, five-death, [...]devil-five, […] six-death, […] and devil-six » (参考文献p. 19)という具合である。「double」と「devil(悪魔)」は語感が似ているし、「blank(空白、虚無)」は「death(死)」に通じる。その直後、ロランがカミーユの友人としてそこへ加わり、テレーズの愛人になる。こっそり歌詞に忍び込んできたこれらの不吉な単語は、夫殺しの誘惑や、その実行にともなう死を暗示することにより、ロランの登場とともに始まる悲劇を先取りしているのである。
第二幕が明けると、時間がとび、カミーユは水難事故で死んでしまった後となっている。木曜のドミノの会のメンバーが、力をなくしたラカン夫人を元気づけようと、ロランとテレーズをくっつけようと試みる。その時に歌われるのが同じ「木曜の晩」の歌なのだが、3度目に歌われたときとは反対に、この場では新しい恋の始まりや結婚を想起させる単語に取って代わられている(« young love », « romance », « kisses », « secret », « passion », « plight troth(婚約) », « yearning(思慕) », « marriage », « wedding », « party », « happiness » (参考文献p. 52))。これらの幸福な予感を孕んだ単語は、今回はわざとらしいまでにはばかりなく歌詞に散りばめられている。
周りから認められて再婚したものの、罪悪感にかられていがみあうようになったロランとテレーズは、最終的には二人とも折り重なって自殺してしまう。冒頭に演じられた場面を再び見せるという点でこの結末は、使い古された手法ではあった。しかし、背後に潜むテーマを単語レベルに抽出して歌詞にのせる取り組みや、役者の身体の動きや歌詞の発音によって、ジェラール・ジュネットが言うところの「括復的物語言説(récit itératif)」(Cf : Gérard Genette, Figures III)に似た効果を演出する工夫、さらには歌詞の言葉遊びによって後の出来事を予告する方法は、ミュージカルでこそ可能な翻案の一例を呈示したのではないだろうか。