宿命に抗して


Bayerisches Staatsballett: Für die Kinder von gestern, heute und morgen Ein Stück von Pina Bausch

Inszenierung und Choreographie: Pina Bausch
Bühne: Peter Pabst
Kostüme: Marion Cito
Musikalische Mitarbeit: Matthias Burkert, Andreas Eisenschneider
Mitarbeit: Marion Cito, Daphnis Kokkinos, Robert Sturm
Tänzer/Tänzerinnen: Ivy Amista, Jonah Cook, Matteo Dilaghi, Léonard Engel, Séverine Ferrolier, Nicholas Losada, Gianmarco Romano, Mia Rudie, Ilia Sarkisov, Nicola Strada, Robin Strona, Daria Sukhorukova, Alexa Tuzil, Matej Urban, Zuzana Zahradniková
(2016.4.8. Nationaltheater, München)
(バイエルン・バレエ:ピナ・バウシュ《過去と現在と未来の子どもたちのために》、ミュンヘン、Nationaltheater、2016年4月8日)

副島博彦(立教大学文学部教授)


今シーズン限りで17年間務めたバイエルン・バレエ芸術監督を退任するイワン・リスカが,昨シーズンのマリー・ヴィグマンの《春の祭典》(1957)に続いて取り上げたドイツの振付家作品は,ピナ・バウシュの《過去と現在と未来の子どもたちのために》(2002)だった。

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バイエルン・バレエ:ピナ・バウシュ《過去と現在と未来の子どもたちのために》上演プログラム


これまで他のバレエ・カンパニーが上演したバウシュの作品は,パリ・オペラ座バレエによるダンス・オペラ《タウリスのイフィゲネイア》(1974),《オルフェウスとエウリディーチェ》(1975)や《春の祭典》(1976)のようなダンス作品に限られ,タンツテアター(ダンスシアター)作品が他のカンパニーで上演されることはバウシュの生前にはなかった。ピナ・バウシュのタンツテアターは名前から想像されるようなダンスによる演劇ではない。そこでは,断片化されたシークエンスが,コラージュされた様々な音楽とともに,一度には把握できないほど重なりながら連なってゆく。その連なりに筋はなく,全体を一括りにして意味やメッセージに回収することもできない。バウシュの作品をみていると,感覚や情動を伴った既視感が頻繁に立ち上がってくる。それは,各々の観客の個人的な体験と結びついた既視感であり,また,同じようなモチーフが様々な作品のなかでかたちを変えて繰り返されることから生じる既視感でもある。誰にでもある幼少年期の思い出や子供の頃の遊びは,男女の関係とともにバウシュ作品の心象世界の核心だが,それらを受けとめる観客のなかでは,名指しがたい何かが兆す。それは,その光景によって励起された,みる者のなかで抑圧されていた感覚や情動だ。バウシュの作品は,それをみる者がふだん抑圧している感覚や情動を解放するための合鍵,ドキッとするような体験を誘発する装置なのだ。

バウシュの振付は,彼女がたてた何十何百という問い(キーワード)に,ダンサーたちがそれぞれせりふや歌や動作やダンスなどで答える「インプロヴィゼーション」から始まる。様々な個性と背景をもったダンサーたちからサンプリングされた各々の個人的な体験は,リハーサルの時間を通して何度何度も濾過され,それらをバウシュがコラージュしたあとでは,観客が感応可能な汎用的なものへと凝縮され,ステージに登場する思い出や男女の関係は観客のものと同期し,観客は息を詰めながらステージ上の一瞬一瞬に,笑い,呆れ,混乱し,泣き,喝采することになる。例えば,冒頭のシーン。マーク・リボーのクールなギターの音とともに2人が中央のテーブルに並んで腰掛けると,端に座った男が床に向かって頭から弧を描いて倒れてゆく。その頭が床にぶつかる寸前にもうひとりがその男の足首をつかんでは元へ戻す。足首をつかむ男の視線は客席へ向いたままだ。かたちややり方は違っていても,それらは子供の頃の遊びを思い起こさせ,その動きが加速され先鋭化されている分だけそのスリルや喚起力は強まり,解放感はいっそう高まる。バウシュの作品に頻出する子供の遊びには,観客の感情を解放する力のいっぽうで,いつも相反する力,それを異化するようなアイロニーも働いている。例えば,同じ行為でも子供がするのと大人がするのとでは意味が違ってくる。男と女のモチーフがそうだ。また,男が,薄暗くなったフロアに横たわった女をマリオネットの人形か何かのように遠くから手繰り,自分のからだにからみつかせるシーン。あるいは,別の女は,「これはハグ,これはキス」とフロアにチョークで○と×をいくつも描くと,その痕跡がフロアに触れたダンサーたちのからだに淡く印されてゆく。あるいは,櫛で髪を整えてもらいながら誇らしげに「これは僕の妻です」というせりふを観客に向かって反復し,彼女の腹に一握りの砂を投げつける男。たとえこれらが舞台上のシーンであったとしても,実名で呼び合うダンサーたちの身体とその動きや発話は個人的なフレアを帯びている。それゆえ,その強度に観客は感応するのである。バウシュは,あるインタヴューでこんなことをいっている。「私は観客なのです。私は観客の立場を取らなければなりません。それが私にできる最も誠実なことなのです。観客はほんとうに多様な個人から成り立っています。私は,ある特定のものごとを指し示したり,あるいは提示することはできます。それに対して観客は,自分自身の感受性にしたがって反応するのです。観客ひとりひとりが作品に参加する,つまり,観客も作品の一部なのです。ですから,観客のひとりひとりがそこで生じていることに対して個人的な関係を結ぶことが重要なのです」。

今回のリハーサルにあたっても,〈タンツテアター・ヴッパタール・ピナ・バウシュ〉の3人のダンサーが全体をまとめながら,すでにカンパニーを離れたダンサーを含めオリジナルのキャスト全員が今回のキャストに指導したという。これは,バウシュが亡くなって以降,ヴッパタールのカンパニーでも行われていることだ。バウシュの生前もダンサーは去来してきたが,その度ごとに,バウシュは,ダンサーとしての資質はもとより,オリジナルのキャストの体格やキャラクターを意識しながらダンサーを選び,いわば丹念に綻びを繕って旧作の再演を続けてきた。

2001年の《コンタクトホーフ》(1978)の台北公演のアフター・パフォーマンス・トークで,「この20年以上も昔の作品を再演することは若いダンサーには難しいのではないのか」という観客の質問に,今回のまとめ役のひとりがこう答えていた。「技術的なことはできるだけ完璧に再現するように心がけているけれど,個々のシークエンスの感情を制作当時のように表現できるはずはないし,僕らは,現在の僕らの気持ちでそれを表現してゆくだけです」。

このカンパニーをみつづけてきた観客は,キャラクターの強い主要なダンサーが舞台から消えたとき,とくに違和感を覚えるが,「生もの」として作品を舞台にのせ続け,継承しようとするのであれば,それは,パフォーミング・アーツの宿命なのだろう。しかし,身体能力の高いバレエ・ダンサーが,たとえダンスへ傾斜していった後期のバウシュ作品を特徴づける多彩なソロやデュエットのダンスを「技術的なことをできるだけ完璧に再現」できたとしても,そこでこぼれ落ちてしまっているものによって,作品は平板なものになってしまう。観客への喚起力は「技術的なこと」だけでは薄められてしまうのだ。

今年3月のアデレード・フェスティヴァルで客演したタンツテアター・ヴッパタールの《カーネーション》(1982)の舞台には,オリジナルのキャストがついにひとりもいなくなった。カンパニーは,バウシュを知らないダンサーが既に三分の一近くをしめる。このような困難にもかかわらずピナ・バウシュの作品を継承しようとするカンパニーの姿は,「生もの」としてのパフォーミング・アーツの宿命に抗っているようにすらみえる。

現在,ボンの〈ドイツ連邦芸術展示館〉では,ピナ・バウシュ・アーカイヴ所蔵資料による〈ピナ・バウシュとタツテアター〉展が開催中だが,ここでも,こうした宿命を負ったパフォーミング・アーツのアーカイヴ化の様々な実験が行われている。

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ドイツ連邦芸術展示館《ピナ・バウシュとタンツテアター》展パンフレット

2016/04/17

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