死の横顔 ―品性の詩学、服の存在論―
(KEISUKEYOSHIDA Fall/Winter 2024-2025 Collection: 2024年3月17日: 立教大学)

赤津 将大(立教大学文学部文学科フランス文学専修4年)

チャイムがゆっくりと振り子し、時間の水を纏ったノスタルジックな音が徐々に、金属質に乱れ、破片を散らし、乱れたまま強行に、フラットな素地をつくる。いよいよ沈黙が熟すとき、オルガンの音が幽遠に立ちあがり、どこからともなく、彼らは歩きはじめている。すでに世界は地続きの大聖堂であり、その中央に、一本の道が冴えている。
―そうして、音楽は現実の時空を侵し、そのうえで新たな現実を始める。観客は瞳孔を大きく開いたまま、口だけがうっすらと笑っている。声も出ない不安への、不可能な抵抗である。
静かな反抗にほど近い様子で、少年が間欠的に歩いてくる(やや前傾して見える、肩から袖口への長い運び)。それでいて、彼らはもはや反抗しない、その術を持たない。反抗すべき世界を踏み越えて、彼らのみている視界と立っている脚とはすでに、どこか他所にあるのだから(おそらく足先はわずかに透けている)。それは、およそ平静なふりをした乱雑であり、青年的天才の神経質な乱れであり、われわれはそこに理由を求めてはならない。
無数に敷き詰められた小石の道で、ゴム上のように靴音が吸い取られている、この不気味な行進は、めいめいが孤独を抱えていて、ときに反抗的に、ときに恐怖の形相で、ときに悲しく清々しく、それでも優雅な身のこなしで、どこかつめたい風を吹かせている。
―過去を、現在の耽美的な手つきが捌く。肩に手をかけている守護天使とその肩の私とが、彼岸の距離を跨いで、一つの名前(ケイスケヨシダ)のもとに結ばれる究極の儀式。手触りを奪われた記憶が、一歩一歩、伝説的に歩き出し、目の前にあるその感触は、文学よりも文学である(服は服でないことによって、より服であるのだろうか)。とはいえ、少年少女から教師にチャプレンまで、古さの感触や演劇性を放つ者はひとりもなく、たとえば少年は成熟し、コスチュームは美意識に拡張され、そうして矛盾に揺らいでいるように、あくまで彼らは新しい存在、より正確には、時間的空間的にニュートラルな、どこかつめたい肌(はだえ)の、あまりにうつくしい存在である。彼岸と此岸のあわいに生み出され、それぞれ不可解な力に導かれて、ぞろぞろと、次第に列を成していく。彼らもまた、この仕組まれた儀式のために、新たに仕組まれた参列者である。
ふとあって、風がストンと垂直に落ちて広がったような服を纏い、大人たちが歩いてくる(胸部と袖の襞、その遥かへ向けられた扇状の拡がり)。淑やかな者、自信に満ちた者、力強く涼しいがどこか寂しい者。彼らに紛れて、剥き出しの恐怖もまた、平然と歩いてくる。それは黒く、おそらく教師だが、あたかも壁のようで、垂直に交わる腰元の正しいベルトがいっそうの恐れを煽る。生の裏側から表側へと、現れてはいけないものが現れ、表情をつけ、現実的なものを身に纏って、闊歩している、彼は人間の形をとった無である。こうして、かくも多くの感情を孕んで、服は畏れと美のあいだで揺らぐ。それでも、たとえばベルトで締めつけてもなお、孤独や恐怖のただ中を、長い袖やカフス、フレアライクのパンツ、艶によって強調されたドレープなど、あらゆる部位から、シルエットや素材感を通して、緩やかに、澄ました風が流れ落ちる。そのように、ときにはゆうゆうとさえして、けっきょく優雅がこぼれ落ちてしまう(垂れ落ちる運動だけでいえば、当のベルトでさえ地面に届くものがある)。孤独や恐怖に深く沈んだところから立ち上がる優雅は、確かな感触とともにその実質を備える。宇宙の孤独は饒舌ではなく、風の佇まいで語るしかないのだろう、無論、彼の場合はしっとりとした風であるが。ある人々にとっては、美とは道徳や社会的な事柄に勝るものであり、翻って、それが真のモラルと社会性でさえある。
―反抗、威厳、孤独、潤う風、静淑で優雅な薔薇。香気や風格として外に表れるこれらのイメージは、彼らの奥深くから発散されているが、さらにその奥に、すべてのイメージが収斂する北極星のごとき一点が、ちいさなひかりがみえてくる。彼ら、すなわちモデルと服の融合する特殊な有機体、あるいは幻惑のテクスチュアの表面を眺めているうちに、次第しだいに内へと滑り込んでいく、そうした夢の奥行の、果てにある一点の光である。無論、それは全ルックに共通し、たとえばつめたい淑女やチャプレンであっても、節度ある控えめな様子ではあるが、確かに、どこかあたたかい光は伝わってくる。とはいえ、それは、人当たりの柔らかさとは無縁である。それよりはおそらく、現れの善悪を超えて作品の偉大さを保証する情念の健康、ないし打ちひしがれた自己の救済から到達される、人間全体への最後の信頼、そうした類のより高度なあたたかみを、かかる光は湛えている(実物と出会えば、つめたいが奥深い抱擁力、そうしたしづけさ、あるいはエレガンスに終始する母性のようなものが感じられるだろう)。おそらくこの光は、デザイナー自身が内へ深まったときにいつも現れる、中心の星のようなものであり、それは社会や世界、あるいは宇宙の透ける不安のさなかで冷厳に保たれた眼、それでいて、その眼を光らせていたのは根にあるあたたかみの火である、というような独特なメカニズムを持った、彼自身の星の光だと想像する。彼がつくりあげた、どこか他所を歩く少年の眼光もまた、デザイナー自身の星と同じき光なのだろう(攻撃の構えか防御の構えか、あるいは傷めつけられるうちに自然と備えたのか。いずれにせよ、瞳の後ろにつめたい宇宙を控えている少年の眼光)。彼の星が彼の声質を決定し、服はそれを全面的に帯びる(それは創造過程において、意識的な作業ではあり得ないだろう)。総じて、彼の服はこの世ならざるつめたい表情で、それでもどこかに人の住むあたたかみ、それも深いあたたかみの奥行がある。
―そうした服や眼、あるいは服の眼から放たれるちいさなひかりは、着る者と服とがどんなに分かち難くとも、そして着る者の世界観が最も重要なことの一つであるとしても、この場合、あくまでまずは、服に多くを負うていることはいうまでもないだろう。つまり、シルエットや素材の選択ないし組み合わせ、あるいは新たな創造、要するにデザイナーの手つきを経て、形を獲得し何かを宿した服こそが、見る者に与える印象の、温度や光の大部を調整しているのであり、逆にいえば、服という現れにこそ彼の真実が浮かび上がり、それどころか、そこにこそ彼の真実は存在するわけで、その総量の大きさからして、彼の服が容易く着勝ちされることなどありえないのである。
―だから、服を着るということがいかに根源的な行為であるか、そのことを感じなければならない。たとえそれが自分の声を聴き分けたすぐれた格好であれ、否であれ、理想の投影であれ、その否定であれ、幾らかの、あるいは無数の眼に囲まれて強迫的に選択された装いであれ、その暴力的な否定であれ、あるいはそれらの間のグラデーションであれ、そうしたこと以前に大切なことがある、彼はそのことを教えてくれる。第一に、服とは、人間が世界と、現実の一点において触れ合う大切な場所であり、世界と私が交わる、そのあわいの媒体でありながら、それ自体も独自に存在しているものであり、「世界と私」という織物をさらに覆い、それらを包み込んで一体化していく魔術的な織物である。さらに服とは、現実から出発し、夢を通りながら現実へとそれを収斂させる、現実へと夢を、裁縫なら刺し込みニットなら編み込む[1] 、そうして仕上がる現実的物体であり、夢のリアルな肌である。要するに、水平的な関係に属するより以上に、あるいは以前に、服は垂直的に存在する。したがって、服を着るとは、それがショーという独特な時空の最中になくとも、現実の一点に立つひとりの人間が、詩のように、宇宙に耳を傾け口を開くことであり、世界を知覚ないし獲得する仕方を決める入り口、あるいはそれを呼び込む声の出口でもある、という幻惑的物体を纏うことであり、そうして個人を内部の中心から―表面より以上に―つくりなおす、重要かつ本質的な行為である、彼はそのことを教えてくれる。そのうえで、服だけでなく、服とそれを着る者の共謀から、ある印象の光と温度が発されていると、あえていうこともできるだろう。
―それゆえに、彼の作品を纏うとは、何よりもまず、彼の世界と結婚することであり、その一致をそのままにして、つまり彼の特別な色や質、深い香りを身につけ、身とし、あるいは既存でありながら新しい、そうした身体を持つに至った状態で、現実と契りを交わしていくことを意味する。彼の世界を捉える者、あるいは精神の貴族にとって、それはどれほど幸せなことだろうか……。

おそらく人間である、優雅な幽霊たち。彼らは演劇よりも早く、また速く、われわれを夢へ誘う演者、否、もはや本当の参列者である(裏で誰かの生死がなかったなど、もはや想像できない)。そのシルエットにおいて、過激な横幅を取らず控えめで、奇抜な暴力を抑えながら、そこに至るまでの間で、つめたく柔らかい素材のドレープや譲れない丈の長さによって、彼の服は風を広大に織り込み、新たに、しっとりとした風をつくりなおす(もはや世界のエレメントは彼によってつくられる)。そうして服に端正なメリハリが生まれ、恐怖、孤独、徹底された耽美主義を含み込んでのち、しづかに、死が匂うほどの品が与えられる。また、デザイナーの閉じられた瞼のうしろにある、内へ向かって深い瞳―青年から幼少へ遡り、ともするとそれより先へ進み、いずれにしても、彼の「わたし」の、遥かな光源にまで届く視力の瞳―と、そのヴィジョンに連結した彼の手つきとによって、しづかなあたたかみが、服の見えない中心に据えられもしている(宇宙に住む孤児たちの声、そのうたの灯火)。
薔薇の香気や、雪に音もなく屹立する、黒い大理石柱の端正さ、すべてがエッセンスとなり、あらゆる形で、黒に白に赤に紫、あらゆる色に発露する。

悲しい、しあわせな孤独。美神の髪のようにしっとりとした、奥ゆかしい現し身の装い。死に値する品性の横顔。総じて、彼は服の詩人である。そんな名称も必要ないから、真のデザイナーであるとだけ、身の丈を越えて、囁いておく。




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[1] https://www.youtube.com/watch?v=USKjlxQ76ps

2024/05/26

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