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存在の顕れ、出現の呻き −− M. ナイト・シャマランの『スプリット』

Surgissement de l’être, mugissement du paraître
-- Split de M. Night Shyamalan.

M. Night Shyamalan, Split, 2017, Blinding Edge Pictures, 117 min.

橋本知子(京都女子大学非常勤講師)

「人間は病める動物である」と、かつてニーチェは言った(『道徳の系譜』、第3論文、13)。

M. ナイト・シャマラン監督の映画『スプリット』には、病める動物としての人間が登場する。

その輪郭をひとつ、またひとつと、たわめ、ゆがめ、くねらせ、やがてはあたり一面に響わたる吃音のごとき轟音とともに動物へと化す「獣物(けだもの)」として、また、ヒューマンからアニマルへの変貌が、虚構(フィクション)がもたらす超自然というよりはむしろ、病ゆえのごくごく自然な所作とされる、罹患者として。

病の名は、アメリカ精神医学会が言うところの「DID」(Dissociative Identity Disorder:「解離性同一障害」)。

動物の名は、«Beast(野獣)»。 

その人の名は、時に「バリー」、時に「デニス」、時に「ミセス・パトリシア」、時に「ヘドウィッグ」。

総じて24もの異なる人格が入れ変わりたち変わりするその身体を、ファンタジー(空想)ではなく社会的存在として支えている名は、 «Kevin Wendell Crumb»。

彼に対置される者は二人いる。

ひとりは、精神科医Dr.フレッチャー。まぶしいばかりの白髪の、しかし矍鑠(かくしゃく)としてDIDの社会的理解につとめ、木管楽器でも奏でるかのように柔らかな声をゆっくりと響かせながら、ことばを投げかけ、ことばを受け止め、病む者に対峙し、「家族の一員であるかのようにして」寄り添おうとする高齢の女性。

もうひとりは、監禁されるティーンエイジャー、渦中にあっても冷静さを失わず、けれどもその寡黙さの裏には過去のひみつが影を落としている −− 彼女の視線は現在ではなく過去という楔(くさび)に打ちつけられていて、いつもどこか別の場所を見つめている −− ケイシー。

この三極を行きつもどりつしながら、めくるめく名称の変化と、めくるめく人格の交代と、めくるめく叫び声の擾(みだ)れの中に、吐瀉物のごとき記憶が重なって、「動物としての病む者」についての物語がくりひろげられる。  


幕開け、あるいは(非)人間的存在によることばならざるもの 
l’ouverture, ou le non-dit (in)humain


現れ、消え、現れ、消え、また現れては、また消えてをくりかえし、文字のつらなりが出現と不在とを反復させる中、黒地に浮かび上がる白抜のことばが、縦に、横に、揺れつづけ、動揺と変容とをきたしながらタイトルロールに «Split» の文字を登場させる時、分離されたアイデンティティーという主題がスクリーンにイメージとして映しだされる。

ヒッチコック『サイコ』のタイトルロールの、水平運動と垂直運動とによって分断された銀幕の画面は、映画史上に名高いDIDとして記憶されるアンソニー・パーキンス演じる主人公ノーマン・ベイツの、血染めの手の動きを予告しているともいわれているが、そうした『サイコ』を模したかのような、ことばの刹那の不在とその後につづく確然とした表出によって幕を上げる『スプリット』の冒頭の、時として点描となるその輪郭を定かにしない文字の危うさは、映像の氾濫するピクセル時代のソール・バスとでもいえるだろうか。

背後に聞こえるのは、音楽でもなく、音でもなく、声でもなく、あるいはそのすべてを合成したもの、あるいは悲鳴、あるいは動物的号泣、あるいは喘ぎ、あるいは囁き、あるいは人間的存在の内側にやどる根源的な叫び、あるいは、少女たちの監禁される部屋の扉が閉ざされたままであることを予告するかのような、突破口をなくした閉鎖空間にくぐもる金属のこすれる音、あるいは冷たい重圧感の象徴、あるいはまた、ケヴィンの身体に現れる24番目の人格が、想像(イマジナリー)の彼岸にあるさまざまな動物の融合体(アマルガム)であるのと同様の、ひとりの「人間」としてではなく、ひとつの「物体」としてでもなく、識別不可能な「何か」としてしか形容できない「もの」としてのノイズ。

あるいは、絶えざる空気の出入りが苦痛の表出であるかのように聞こえる犬の呼吸「のような」、感情の物質化「のような」、獣性をおびた身体の、ひとつの吐息「のような」もの。それそのものとしては名づけられることはなく、比喩としてしか表せない、別のものに置きかえなければ示すことのできない、「何か」としか呼ばれえないもの。

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動物と人間、二項対立と漸進説
l’animal et l’humain, le dualisme et le gradualisme


映画はまた、あちこちにちりばめられた動物の明喩、隠喩、換喩によっても修飾されている。人間は動物に喩えられ、文彩(フィギュール)でしかなかったはずの比喩は現実世界を腐食し、喩えられるものとしての人間は、喩えとなるものとしての動物によって蝕まれ、やがて比喩はリアリティとなり、人間を形づくっている輪郭線は液化して、ヒューマンはアニマルへと転化する。

監禁者は誘拐した女性三人に「犬にやるかのように餌を与える」。

暗闇を横ぎってゆく人影は、コヨーテとしてその存在を認められる。

排泄によって汚されたスカートは、もう人間のまとう衣服ではない。

人間と動物という二項対立(dualisme)はいともたやすく崩されて、両者のあいだには、漠としたひとつづきの階調(gradation)、あるいは、動物から人間への移行においていかなる断絶をもみとめない漸進説(gradualisme)の言うような、ひとつづきの連続線が引かれることとなる。

動物をめぐる会話もまた、状態変化のダイナミズムを加速させている。

「虎には30本しか歯がない」と監禁する者がつぶやくと、「それは犬よりも12本少ない」と監禁される者はすかさず応える。阿吽の呼吸のこの会話は、囚える者と囚われる者、正常と異常、危害と被害、暴力と恐怖、欲望とその対象、という対立を保ちつつも、はりつめた拉致劇の中に小さな穴を穿ち、一瞬、ふわりとした空気を導いて、そこからまた別の論理、不可視の新たな方程式を入り込ませる。

突如として提示されるこの命題は、生物界のヒエラルキーがいともたやすく逆転しえることを暗示する、ひとつの道標(みちしるべ)、あるいは斑猫だ。強者とみえる者が弱者であるはずの者とすりかえられうるならば、犬は虎と交代し、虎はライオンと交代し、百獣の王は凡百の鳥獣どもと顛倒され、やがて人間とのボーダーラインさえもが危ういものとなって、内なる獣性を同じくする者たちのあいだに眷属としての親和力がはたらくことにより、ひとつ、またひとつ、と、人間は動物に、動物は野獣に、理性は理性あらざる者に、近づいてゆく。少女たちの服が、一枚、また一枚と、脱がされるように。

たとえば、監禁者の背後から椅子を打ちつけるという大立ち回りをやってのけ、一瞬の隙をついて脱走を試みてはみたものの、予定調和的に(あるいは物語の摂理として)見事に失敗したマルシアは、「埃だらけになったから」という理由のもと、服を脱がされる。

あるいは、木々のせせらぎと、風のそよぎと、落葉の触れあう音と、ざわめきの響きわたる蒼穹とに囲まれる中、「動物たちは服を着ていないから」という理由のもと、«Casy bear»(熊のケイシー)の愛称で呼ばれる子供は、服を脱がされる。

囚われの身となったいたいけな少女たちは、裸にされ、一匹の動物となる。それは銀幕に見入る者たちの好奇心をくすぐるために他ならない。驚くことはなにもない。ハリウッド映画が欲望の視線をなぞらえるようにして構築されてきたことは、もうずっと前に指摘されたことではなかったか。ここでもまた、籠の中の鳥となった少女たちは、翼をむしりとられるように服を脱がされ、責められ、なぶられ、いたぶられ、そうして彼女たちの白い肌の上に、銀幕のこちら側から、視姦が爪をたてる。

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病める動物、彷徨う人間
l’animal malade, l’homme nomade


「未知への扉が開かれる」とDr.フレッチャーは言う。

身体に化学物質の変化がもたらされ、DIDたちは進化をとげるのだ、と。常人にない力を有するDIDたちに「未知への扉が開かれて」、超自然がそこからやって来るのだ、と。

あらゆる動物の総体として現れる «beast» という名の新たな生命体が、こうしてケヴィンの身体に宿ることとなる。超自然の到来は、DIDの身体において実現する。

名づけられることのないその «beast» の出現によって、DIDは −− 魂と肉体という二分法がいまなお有効であるとするならば −− 動物としての魂と人間としての肉体とを有した、ひとりの(あるいは一匹の)獣人となる。

獣人は叫ぶ。「わたしは人間ではない」と。「栄光の下にある」と。

Dr.フレッチャーは言う。「DIDはわたしたち以上の存在である」と。「何かもっとすぐれた存在なのだ」と。

獣人としてのDIDは、現代における超人の象徴として示される。

そして超人は病んでいる。

獣人は叫ぶ、朗々として。「苦悶を通してのみ、栄光に達しえる」と。

苦しむ者は肯定され、苦しみなき者は否定され、苦悶をしらない「不純なる」者は、この世界に占める場所をもちえてはならない存在として、その臓物をむさぼられ、亡き者にされる。淋漓たる体液が、灰色の地下室を染め上げてゆく。

「救済をえるためには、苦しまなければならない」と、獣人はさらなる叫び声を上げる。

ケイシーに救済がもたらされるのは、たしかに、彼女が辛苦をあじわったという事実によってなのであり、死に追いやられた他の少女たちと、生への帰還を果たしえたケイシーとを分かつのは、まさしく、彼女の目に残像としていまなお残りつづけ、彼女の身体に否応なく刻み込まれている −− そしてまた、スクリーンに何度も映しだされて、映画を観る者の前に幾度となく晒される −− あの凌辱の記憶にほかならない。

ケイシーはまどろむ。

子供だったころの彼女自身の姿が、夢の中にふたたび見出される。記憶が甦ってくるのは、つかのまの眠りの時、地下室の片隅でしばしの休息をえる時、暗闇の褥(しとね)にふかぶかと身を沈める時 −− だから、スクリーンが物語時間の座標軸を移動させ、子供時代という過去から、いま・ここという現在へと時空間を変容させるとき、そこには彼女の寝顔がクロース・アップとなって映しだされる。

ケイシーは目をさます。

閉じられたケイシーの瞼がゆっくりと開かれ、上睫毛と下睫毛のあいだから、ほのかで、おだやかな光、凶事とはほど遠い、静謐さをたたえた光が導き入れられ、彼女の網膜上に現在時間の世界像がむすばれるとき、その片鱗をあらわにしたはずの過去は、すぐさま闇の奥底へと帰りゆき、代わりとして、カメラは灰色の地下室をあらためて捉えなおし、眠りの時間はおわり、白昼へともどり、かつての悪夢は息をひそめる −− のだけれども、ひとつの悪夢がおわるや否や、また別の悪夢がやってきて、夢の閾(しきい)がいともたやすくまたがれることにより、寝ても覚めても、獣性をおびた者が、彼女の下にやってくることになるのだ。苦悶の −− 獣人によれば「栄光ある」 −− 遍在性を現前させるかのようにして。


映画の臍(ほぞ)、あるいは悶える者の天使的なるもの  
l’ombilic du film, ou l’angélique de l’angoissée 


映画は終盤、ある謎めいた徴とともに急展開をとげる。

ケイシーの腹部がクロース・アップで映され、«Beast» と化したケヴィンの視線がその上を滑りゆくとき、鉄格子をいともたやすく飴の柔(やわ)さでねじ曲げてみせた、その修羅の形相 −− 歯茎からは血が滲み、息吹は荒々しく、玉の汗に覆われた顔には幾つもの皺が刻み込まれている −− にもかかわらず、背後から聞こえてくる音、映画の冒頭で聞こえてきた、あの吐息「のような」、喘ぎの「ような」音は、いつしか、ある晴れやかな音、安堵でもあり、歓喜の念を模したかのような、上昇し、下降し、また上昇しては、浮遊しつづける軽やかな反復音へと転調をきたし、と同時に、いまやもうケヴィンではなく、超人および獣人という、完全に別のものと化した «Beast» は、それまで滑らせていた視線を、刹那のあいだ、ケイシーの臍窩(さいか)の上に落とす。

彼は言う、ほほえみをたたえて。「あなたのこころは清らかだ」と。「あなたは他の人々と異なる」と。

それまでの血塗られた追跡劇は、ここで一転し、解決への一条の光が照らしだされ、追う者と追われる者、獲らえる者と獲らわれる者とは、つかの間、向き合ったまま佇むことになる −− ほんの一瞬、いくつもの赤く細い線がケイシーの臍窩に刻まれているのを、クロース・アップで映しだしながら。

この傷跡はどこからきたものなのだろうか?追跡劇のさなかに刻まれたものなのか、それとも、幼いころ受けた虐待の名残りなのか?Dr.フレッチャーでさえ鎮めることのできなかった «Beast» の獣性 −− 精神科医は病める者を救うことができない −− であるのに対して、いともたやすく殺戮劇に終止符を打つに至らしめたこの傷跡は、何ものなのだろうか?獣人の目は、ケイシーの白い皮膚の向こうに、清廉なる臓腑を透かし見たのだろう −− 僥倖の顕現であるかのような臍(ほぞ)を通して −− けれども、苦悶を賛歌するあまり、虐殺をもいとわない獣人の行為は、ニーチェのまた別のことば −− 「わたしを殺さないものは、わたしをいっそう強くする」(『偶像の黄昏』) −− と矛盾するものであり、殺されないことによって(あるいは殺されそうなほどの苦しみを経ることによって)生きのびようとする生への意志を肯定しつつも、殺される運命を課そうとする、二律背反を叫ぶこの獣人の目は、ケイシーの臍窩を前にして、そもそも何かを捉ええたのだろうか?

スクリーン上にクロース・アップで現れるケイシーの臍は、フロイトが夢の臍と名づけたもの −− どうしてもそこだけ明かされることのない細部、不可解で、突出していて、夢を解くための鍵がおそらくは隠されているのだろうけれども、分析家のあらゆる解釈をすりぬけて、謎が謎としてそこにとどまりつづけていくもの −− のように、映画の中で宙吊りにされている。そうして、ただただ、観る者に残像として残されるのは、苦悶の代償としてえられた、獣人の言う「清らかなこころ」 −− あるいは、灰色の地下室から現れ、先ほどまでの逃走と反撃とのため荒々しい呼吸で熱っぽくなった柔肌にしかと浮かび上がる、苦しみの果てにえられた、潔白で、澄みきった、純粋さの結晶としての、ケイシーの臍 −− 天使的な。


2017/04/26

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