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不確実性の人類学のために


Appadurai, Arjun 2016 Banking on Words: The Failure of Language in the Age of Derivative Finance, The University of Chicago Press.
アルジュン・アパドゥライ、『言葉を頼りに:デリバティブ金融の時代における言語の失敗』、シカゴ大学出版局、2016年、180ページ

中川 理(立教大学異文化コミュニケーション学部准教授)

1. アパドゥライのたくらみ

アルジュン・アパドゥライは、文化人類学の立場からグローバル・スタディーズを先導してきた。『さまよえる近代 (Modernity at Large)』(原著1996)では、人やメディアや資本やテクノロジーや観念といったものがそれぞれバラバラに国境を越えて移動し、特定の場所で出会うことによって生まれる文化現象に注目するアプローチを提案し、グローバリゼーションのとらえ方に大きな影響を与えた。『グローバリゼーションと暴力 (Fear of Small Numbers) 』(原著2006)では、グローバルな流れが加速する時代にマイノリティーに対する暴力が激しくなるメカニズムについて分析した。『文化的事実としての未来 (The Future as Cultural Fact)』(2013)では、スラムの生活改善のような住民運動のトランスナショナルな連携が生み出す「草の根のグローバリゼーション」の可能性を追求した。これらの著作に一貫してあらわれているのは、トランスナショナルな流れと出会いが生み出す「新しい想像力」に対する関心である。

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このような経歴から考えると、アパドゥライがデリバティブ金融を新著の主題に選んだのはさほど奇妙ではない。彼は最初から資本の流れが文化現象に与える影響力を重視しており(「ファイナンスケープ」)、国民国家によってコントロールされる国民経済という想像力を金融資本主義が揺るがしている状況について考えようとしてきたからだ。

しかし、本書で彼がこの主題を扱うやり方は、他の人類学者たちとは大きく異なっている。ここ20年間ほどのあいだ、人類学者は数多くの金融市場のエスノグラフィを生産してきた[1]。それらの研究は、人々がどのような社会関係のなかで何を考えながら金融商品を取引しているのかを描写してきた。あるいは、具体的にどのような場所で、どのような装置を利用していて、それがどのように取引に影響を与えているのかを理解しようとしてきた。理論的なモデルではなく具体的な記述から出発して理論を導こうとするこのような方法は、社会学や人文地理学による研究とともに「金融の社会的研究(Social Studies of Finance)」という研究領域をかたちづくってきた。

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しかし、この流れに連なるエスノグラフィを本書に求めると、大きく期待を裏切られることになる。アパドゥライは、本書のためにフィールドワークは行っていない。デリバティブに関して彼が用いる情報は、他の人類学者の研究や当事者による書物に大きく依拠している。彼がそれらを使ってやろうとしているのは、「概念のエクササイズ、パラダイム転換、既存の知の再構成」(Appadurai 2016:15-16)である。一見すると関係なさそうな人類学/社会学の古典的議論(ヴェーバー、デュルケーム、人格論など)と対照させながら、本書で彼は金融資本主義の中心に躍り出たデリバティブのもつ思想的意味を浮かび上がらせようとする。

2. 金融の社会的研究を考え直す

デリバティブは、現代金融における技術革新として次々と新しい商品(先物、オプション、スワップなど)を生み出しながら規模を拡大してきた。2007~2008年のサブプライム危機によって、その複雑な進化に注目が集まるようになった。しかし、アパドゥライは本書でその原理を出来るだけシンプルに取り出している。彼によると、デリバティブは、不確かな未来について約束するという言語行為である。

例えば先物では、ある商品そのものではなくて、その商品を未来のある期限においてある値段で売り買いするという契約(=約束)が取引の対象となる。期限が来た時に商品のじっさいの値段が約束の値段より高ければ買う約束をした人は得をするし、低ければ損をする。だから、商品の未来の値段の予測に合わせて、契約そのものの値段も上ったり下がったりする。未来は不確かだ。なので、値段が上がる方に賭ける人は契約を買うだろうし、逆に下がる方に賭ける人は契約を売るだろう。この取引の結果として、一方がお金を儲けて他方が損をすることになる。デリバティブは、未来についての約束の結果勝ち負けが生まれるという性格をもつ、「競覇的約束(agonistic promise)」(Appadurai 2016:13)なのである[2]

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では、このように特徴づけられるデリバティブを、どのような角度からとらえればよいのだろうか?アパドゥライは、金融の社会的研究における従来のアプローチの再検討を通して、自分のやり方を示している。

近年の金融の社会的研究には二つの流れがあるとアパドゥライは考える。装置を重視する流れとエートス[3]を重視する流れだ。一方で、ミシェル・カロン(Callon 1998)にはじまる流れでは、装置がかたちづくる計算可能性が強調されてきた。金利指標や相場表示機や専門的概念(例えば「インプライド・ボラティリティ」)といった装置が作り出され、物理的に配置されることによって、市場のアクターは状況を認知して合理的に計算できるようになる[4]。科学技術研究に影響を受けたこのような考え方は、金融の社会的研究において支配的になっている。

しかし他方で、宗教や倫理やイデオロギーと金融のかかわりをとらえようとする多様な研究もある。オカルト・エコノミー、つまり魔術的な手段によって富を獲得するという想像力の拡大と金融資本主義の関係についてのコマロフ夫妻の研究はその一例である(Comaroff and Comaroff 2000)。アパドゥライは、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の再検討を通して、これら二つの流れを一つの視野に収めようと試みている。

アパドゥライがヴェーバーの再検討を通して明らかにするのは、エートスと装置のズレの可能性である。ヴェーバーの分析によると、資本主義はカルヴァン派の信仰から生まれた。誰が救済されるかは神によってあらかじめ決められていて、人は神の決定を知ることも決定に影響を与えることもできない。この信仰がもたらす孤独のなかで、人はせめて神の栄光をたたえる禁欲的な生き方をしようとする。それは、救済が不確実な状況において「まるで救済されているかのように振る舞う」という賭けである。このような「世俗内禁欲」の結果として、人は快楽のために散財することなく獲得した富を再び投資して資本を拡大するようになる。

しかし、このような禁欲的なエートスは、いったん資本主義が確立されると必要なくなる。複式簿記や資本会計といった装置が作られて合理化が進めば、資本主義は「自己推進的なマシン(self-propelling machine)」(Appadurai 2016:43)となり、アクターがどのような精神を持っているかは関係なくなる。ここから言えるのは、「どのような資本主義のエートスやハビトゥスの背後にある精神も、装置そのものの配置や形態から演繹できない」(Appadurai 2016:30)ということだ。精神と装置の一致は、装置を重視する研究が想定するようには必然的ではない。

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この視点から見ると、同じことが現代の金融の世界についても言えることが分かる。モデル化や予測のための洗練された装置(例えばブラック・ショールズ方程式)が作り出す計算可能性がデリバティブの特徴をなしているとしても、トレーダーたちが几帳面に計算にしたがって行動するとは限らない。「マーケットは効率化のためのものであるにしても、金融のアクターたちはそうではない」(Appadurai 2016:47)のである。

じっさい、近年の金融業界のスターたちは冒険的なカリスマであった。その典型的な人物像は、「装置懐疑論者(device skeptics)」(Appadurai 2016:47)であり、タイミングよく市場の下げに賭けて空売りで大きく儲ける逆張り主義者である。彼らは装置に動かされるのではなく、装置をうまく活用して不確実性に賭けるという「不確実性の想像力」を備えている。今日の金融の世界はだから、「きわめてカリスマ的なリーダーときわめて秩序だった装置のあいだの乖離が最大化している時」(Appadurai 2016:53)と理解できる。

このように、エートスは制度的な支えからは独立して存在しうる。したがって、装置の配置に分析を集中するアプローチでは十分でないとアパドゥライは主張する。現代の金融を考えるとき、それを成り立たせている装置とエートスとしての「不確実性の想像力」のズレをとらえなくてはならないのだ[5]

3. 遡行的に全体を作り出す賭け

それでは、エートスに注目したとき、不確実性への賭けを通して金融のアクターたちは何を実現しているといえるだろうか?アパドゥライは、取引を通して彼らは市場を作り出しているのだととらえる。金融市場があるから取引があるのではない。取引が実現されることで、遡行的に市場をずっとそこにあるかのように見せるのである。この点について論じるために、アパドゥライはヴェーバーと並ぶ人類学/社会学の始祖であるエミール・デュルケームの議論に立ち返る。

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アパドゥライの読みによると、『宗教生活の基本形態』でデュルケームは、社会を遡行的につくりだす仕掛けとして儀礼をとらえている。ジュディス・バトラーを援用して、アパドゥライはこの働きを遡行的パフォーマティヴィティ(retro-performativity)と呼んでいる(Appadurai 2016:76)。例えば、姻族のあいだで行われるある贈与儀礼は、じっさいには贈与を通して贈り手と受け手を姻族として結びつける。姻族関係は贈与の原因ではなく結果なのに、原因としてそこにあったように見える。これが遡行的パフォーマティヴィティである。デュルケームが分析しているオーストラリア・アボリジニの儀礼も同じだ。彼らはふだん小さな集団で遠くバラバラに住んでいて、より大きな社会に自分たちが属しているかどうかは不確かだ。ところが、たまに集まって行う大規模な儀礼のおかげで、自分たちがそのような社会に属していることを人々は再発見できる。だから、決まりきった手続きの確実な繰り返しというイメージを私たちは儀礼に対して持ちがちだが、じつはそれは自分たちのコスモロジーの不確実性を一時的にであれ確実性へと変容させようとして繰り返される実践なのである。

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アパドゥライは、「社会」が「市場」に代わっているだけで、同じことが金融の世界についても言えると主張している。彼は(金融市場のエスノグラフィではなく)フランスのデリバティブ・トレーダーにして異端的な社会思想家であるエリー・アヤーシュの議論(Ayache 2010)を利用して、この点を論じている。アヤーシュは、デリバティブの価格はオプション理論が考えるように確率論的モデルによって算出できるものではなく、前後の脈絡とは関係なく取引の行為そのものによって生み出される「きわめて偶発的な出来事(radical contingent events)」(Appadurai 2016:84)であるととらえる。トレーダーたちが要求しあう価格がたまたま同意に至ったときに取引は成立するのであり、「こうして、先行する出来事にもとづく確率論的モデルによる予測や推定をつねに超えていく市場を作り出すのである」(Appadurai 2016:90)。

このように考えると、デリバティブ取引における真のリスクは、計算可能なリスクではない。そうではなく、果たしてある価格において同意できる取引相手を見つけられるだろうか、という根本的な不確実性である。だから、それぞれの取引は、決まりきった官僚的ルーチンではなくて、この不確実性を乗り越えるカリスマ的な出来事なのである。そして、至高の存在としての市場の連続性は、出来事としての取引の後で遡行的に見出される。デリバティブの取引は、この観点からは、アボリジニの儀礼と同じように、不確実な状況において全体性を遡行的に作り出そうとする賭けと見ることができる。

4. 二つの分人主義

アパドゥライは、このようにまとめられるデリバティブの論理が、「本質的に不公平で悪であるとは考えない」(Apadurai 2016:127)という立場を取っている。大事なのはむしろ、計算可能性を超えた「不確実性の想像力」がそこにあらわれていると把握することだ。それに対して、金融化以前の世界へと戻ろうとするのは、非現実的だし望ましくもないとアパドゥライは考える。本文で明確には述べられていないが、ここで彼が想定しているのは、国民の生活のリスク全般に対して国家が安全を保障する「国民社会国家(l'Etat national social) 」(カステル 2012)のような体制だろう。ポスト国民国家の理論家らしく、アパドゥライは失われた安全へと戻ろうとするのではなく、むしろ、デリバティブの論理に対抗するようなもう一つの「不確実性の想像力」を構想しようとする。

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そのためにアパドゥライは、またしても遠く離れた人類学理論を参照する。その理論は、「分人(dividual)」についての議論である。長年、人類学は西洋的な「個人(individual)」の概念を相対化しようと試みてきた。とくに、南アジア社会に関しては、それぞれが独立した個人がいて互いに結び付くのではなくて、さまざまなサブスタンス(精液、食物、贈物の豚など)のやり取りが結果として互いに関係づけられた人々の人格を作り出すという考え方があるとされた。

この議論の口火を切ったマッキム・マリオットは、この考え方において人は不可分な個人ではなく複数の関係性の結節点として存在しており分割可能だとして、このような人格概念を「分人」と呼んだ。この概念は、批判を受けながらも、別の地域や対象を分析するための道具として近年の人類学で使われている[6]。アパドゥライもまた、「分人」を利用してデリバティブを概念化しようとする。

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アパドゥライによると、デリバティブは「捕食性分人主義(predatory dividualism)」である。ここでは、分割可能なのはトレーダーたち自身ではなくて、その餌食となる債務者たちだ。サブプライム問題では、貧困層のための住宅ローンをまとめては切り刻むという手続きを何重にも重ねてリスクの高い金融商品(住宅ローンからMBS、MBSからCDO、CDOからCDOのCDO)を作って投機の対象とした。さらに、これらの金融商品が債務不履行になる方に賭けるためのデリバティブ(CDS)までがあらわれた。この過程で、債務者はまとまりを持った人格ではなく、切り分けられて数値化された一連のデータになる。トレーダーたちは、それらのデータを使って不確実性に賭けたのだ。だから、デリバティブは「少数の人々の(利益獲得を通した)個人化のための、大多数の人々の分人化」(Appadurai 2016:112)である。

だとすると、問題は「不確実性の想像力」そのものではなくて、それが一部の人たちの豊かさのために独占されていることだ。そして、このような「捕食性分人主義」は、欧米で支配的になるだけでなく、インドのような「南」の諸国にも広がっていこうとしている。では、そうではなくて「私たちみんな」(Appadurai 2016:119)が不確実性への賭けから生み出される豊かさを共有できる状況を考えることは可能だろうか?言い換えれば、贈与という賭けを通して再帰的に全体性(親族、姻族、敵といった関係性の束)を作り出していく「分人」のあり方に似たものを、現在において取り出すことができるだろうか?そのような「進歩的分人主義(progressive dividualism)」は可能だとして、アパドゥライはムンバイのスラムの住民運動の例を取り上げている[7]。そこでは、カーストや民族や宗教の違いを超えて、排泄のような生活上の問題を改善するための具体的な実践を人々が試み、それを通してコミュニティの連帯という肯定的な価値を生み出している。それは、西洋の個人主義とも古典的なヒンドゥーの分人主義とも異なる、進歩的な「分人」の政治なのだとアパドゥライは主張する。彼によると、そこにこそ、グローバル金融から古い考え方(国民国家)を守ろうとするのではなく、それと似た論理を用いながらそれを打ち倒そうとするという「私たちの社会思想のラディカルな転換」(Appadurai 2016:118)の可能性があるのだ。

5. どう使うのか?

アパドゥライの議論に対して、経験的な批判をすることはたやすい。彼は金融の世界を分かっていない、じっさいのトレーダーは不確実性に賭けるような人ばかりだけではない、というように。しかし、そのような批判は的を射ていない。例えばアヤーシュのデリバティブのとらえ方が異端的であることは、彼自身も重々承知している。しかし、彼が強調しているように、重要なのはそこから世界についてのこれまでと異なった見方を引き出せるということだ。その意味で、じつはこの本はデリバティブについての本でさえなく、それを通して見えてくる「不確実性の想像力」や「捕食性分人主義」や「進歩的分人主義」といった概念についての本である。これまでもアパドゥライは、(例えば、ファイナンスケープを含む五つのスケープのあいだの乖離構造(disjuncture)のような)新しい研究を生み出す道具としての概念の提案によって知られてきた。今回も、彼が提案するとらえ方が生産的であるかどうかで評価されるべきだろう。

この本の理論的構図は、これまでのアパドゥライの議論の延長線上にある。彼はこれまで、国民国家の想像力とポストナショナルな想像力の葛藤として全体をとらえてきた。本書でも、計算可能なリスクの管理と結び付けられる国民国家と、それを乗り越えようとする「不確実性の想像力」は対立的に理解されている。そして、「不確実性の想像力」にも「捕食性分人主義」と「進歩的分人主義」の両面があるとみなされる。

この見方は、中枢と末梢をもつ脊椎型組織(国民国家)と、分裂しながら中心のないネットワークをつくる細胞型組織を対立的にとらえたうえで、さらに破壊的な細胞型組織(テロ組織や金融資本)とユートピア的な細胞型組織(トランスナショナルな住民運動)の対立を考える『グローバリゼーションと暴力』の構図を、さらに洗練させたものである。彼が提案しているのは、このような三分法的な構図を用いて不確実性を理解するやり方だといえるだろう。

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はたして、この構図はさまざまな事例を理解するのに有用だろうか?うまくいかないところがあるとすれば、どのように修正するべきだろうか?そこから、どのような「不確実性の人類学」を発展させていくことができるだろうか?もしアパドゥライの構想をあまりにも大げさで使えないと無視するのでないならば(その選択もありうるし、筆者自身読書の過程で何度かそう判断しそうになったのだが)、そうして試しに使ってみるなかで、この本の意義と課題は遡行的に見出されていくことになるだろう。

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[1] 人類学者が金融市場を含む市場に研究対象として関心を持つようになった経緯については拙論(中川 2014)を参照のこと。また、ビル・マウラー(Maurer 2012)は金融を対象とした近年の人類学的研究を概観している。
[2] 現代のデリバティブの複雑性は、このような約束が何階層にもわたって繰り返されること(約束についての約束についての約束…)から生じている。そして、その危険性もそこから生じているとアパドゥライは考える。金融システムの危機は、多くの約束が作る連鎖が長くなりすぎた結果、全体として約束を守り切れなくなるという「言語の失敗(failure of language)」(Appadurai 2016:1)として特徴づけられる。
[3] この本のなかでアパドゥライは、エートス、精神、ハビトゥス、倫理、性向といった用語をある程度互換的なものとして使っている。
[4] マッケンジーによる概説書(マッケンジー 2013)は、この種の研究の全体像を手際よく提示している。
[5] 筆者もまた、市場の人類学についての論文で、「市場の装置」と「市場の文化」のズレに注目する必要について言及している(中川 2014)。筆者の論点はアパドゥライのそれと非常に近い。
[6] とくに、マリリン・ストラザーンによるメラネシア研究や生殖医療研究への活用は大きな影響力を持った。人類学における「分人」概念の展開については、中空と田口による簡潔なまとめ(中空&田口 2016)を参照のこと。
[7] 『文化的事実としての未来』(2013)で、アパドゥライはこの事例をより詳しく描写し分析している。

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参考文献

アパデュライ、アルジュン 2004 『さまよえる近代:グローバル化の文化研究』、門田健一(訳)、平凡社
アパドゥライ、アルジュン 2010 『グローバリゼーションと暴力:マイノリティーの恐怖』、藤倉達郎(訳)、世界思想社
Appadurai, Arjun 2013 The Future as Cultural Fact: Essays on the Global Condition, Verso
Ayache, Elie 2010 The Black Swan: The End of Probability, Wiley
Callon, Michel 1998 Introduction: The Embeddedness of Economic Market in Economics, in Callon, Michel (ed.) The Laws of the Markets, pp.1-57, Blackwell
カステル、ロベール 2012 『社会問題の変容:賃金労働の年代記』、 前川真行(訳)、ナカニシヤ出版
Comaroff, Jean and John L. Comaroff 2000 Millennial Capitalism: First Thoughts on a Second Coming, Public Culture 12(2):291-343
マッケンジー、ドナルド 2013 『金融市場の社会学』、岡本紀明(訳)、流通経済大学出版会
Maurer, Bill 2012 Finance 2.0. A Handbook of Economic Anthropology (Second Edition) , James Carrier (ed.), pp.183-201, Edward Elgar Publishers
中川理 2014 「市場:モデルと現実のあいだ」、『現代社会を学ぶ:社会の再想像=再創造のために』、内海博文(編)、pp.167-189、ミネルヴァ書房
中空萌、田口陽子 2016 「人類学における『分人』概念の展開:比較の様式と概念生成の過程をめぐって」、『文化人類学』 81(1):80-92


2017/03/01

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