第2回ルソー研究会



日時:2014年11月29日(土)15:00~
場所:立教大学ロイドホール5階第1会議室


                           
桑瀬章二郎
齋藤山人


『エミール』を読む(2)



Etre moi, c’est, par-delà toute individuation qu’on peut tenir d’un système de références, avoir l’identité comme contenu. Le moi, ce n’est pas un être qui reste toujours le même, mais l’être dont l’exister consiste à s’identifier, à retrouver son identité à travers tout ce qui lui arrive. Il est l’identité par excellence, l’oeuvre originelle de l’identification.     Emmanuel Lévinas
 


moi...(自我)?この恐るべき問いにルソーは(より本格的に)向かい始めます。徹底的に哲学的に。極限まで政治的に。どこまでも文学的に。生まれ始めた、あるいはいまだ顕在化していない欲求・必要besoins – 悟性entendement – 感覚sensations – 表象représentation (sensations représentatives ?) – 記憶mémoire – 想像力imagination – 言語langues – langage – 声voix (涙pleurs)について、ルソーは、先行者や同時代の哲学者と問題(認識体系?)を(表面上)共有しつつ、議論を展開していきます。あたかも読者を欺き、読者自身にそのイデオロギー的立場を明示することを迫るかのように。ホッブズ(méchanceté)、ロック(entendement)、ビュッフォン、コンディヤック(un homme fait)といった道標を立てつつ…。

それにしても何という奇妙な記述でしょうか。ルソーは「母」Mère(s)-「父」Pères(s), 「教師」Gouverneurについて詳述した後にあえて、乳母nourrice-乳児nourriçon(nourrisson)-食物nourritures/乳lait-授乳allaiterのテーマ系の決定的重要性を強調することから始めるのです。革命期のルソー受容を考えるうえで見逃すことのできない産衣の主題も再び前景化します。あまりにも複雑なこのテクストをわれわれはどのように読むことが可能なのでしょうか?(桑瀬章二郎)

第一部研究報告 齋藤山人:「『エミール』第一篇における産衣の機能 : 血と鎖のメタファー」
第二部読解

テクスト
 Rousseau, Émile ou l’éducation, (GF Flammarion, 2009) - 第2回目101頁(第一篇最後)まで。
ルソー『エミール』(上、中、下)岩波文庫(新版)


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