第6回ルソー研究会



日時:2015年7月11日(土)15:00~
場所:立教大学ロイドホール5階人文研究センター
                  

         桑瀬章二郎
齋藤山人


『エミール』を読む(6)



L’aimable invention qu’un miroir !  Marivaux
 


「鏡はない…」Point de miroirs....第一篇が「誕生」をめぐる記述の無限の反復によってそれを記述することの不可能性を暗示していたように、第二篇は(きたるべき?)「主体」の置かれた「段階」stade(ヘーゲル的、カント的、ほとんどフロイト=ラカン的…)を重層的に記述することで、「段階」の単線的な理解を破壊していくかのようです。

そしてわれわれはいよいよ『エミール』に埋め込まれた数ある挿話の中でももっとも有名な挿話、一見もっとも明快でありながら、もっとも難解な挿話へと導かれます。ルソーはいつものように明示的でありながら読者を幻惑させずにはおかぬひと言を書きつけることからはじめています―所有(権)propriété。ルソーの「政治哲学」の根幹をなす語・概念であるわけですから(「革命」は「過去」のものではありません)、当然ながら無限の解釈可能性が広がります(バリバールに言及するスペクトール、ポーコックを参照するバコフェン…なにがあってももはやわれわれは驚きはしません、近いうち、ピケティを参照する論稿さえ書かれてしまうでのしょうか?)。おまけにルソーは直前で、ロック、ホッブズの名をあげるだけでなく、自らの記述を極限まで「政治化」したうえで、『社会契約論』をこれみよがしに参照していました…。挿話に続く記述(そもそもこれは「挿話」なのでしょうか?)は完全に自然法学派の用語です(バルベイラク経由のグロティウス、プーフェンドルフ)。

この挿話が長大な教養小説の一部をなしていることを忘れず、「あざとい」とでも形容したくなるようなさまざまな戦略が敷かれていた点に留意しながら、いまいちどこの挿話に立ち戻るなら、われわれの眼前にどのような光景が広がるのでしょうか。(桑瀬章二郎)

第一部 研究報告 桑原悠(立教大学修士課程) 「溢れる者としてのエミール」
  コメンテーター:安藤裕介(日本学術振興会特別研究員PD・東京大学)
第二部 読解

テクスト
 Rousseau, Émile ou l’éducation, (GF Flammarion, 2009) - 第6回目135頁~153頁まで。
ルソー『エミール』(上、中、下)岩波文庫(新版)


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