六発の弾を込めた刀

タンギー・ラミノ(元フランス国立学術研究センター上席研究員)
河野美奈子(立教大学ランゲージセンター教育講師)訳

 ハラキリとは、長めの短刀を腹部に刺し入れることを言うが、すぐに死なない場合はその短刀をできるだけ腹部に刺して引き上げる。クロード・ファレールは介錯する友人の助けによって同時に首をはねられることが望ましいと強調している。しかし、浅はかな法制度のせいで、それを諦めざるを得ないだろう。
 日本式のヤタガン〔訳注:帯刀して用いられる携帯用の小刀を指す〕が好んで用いられるが、ない場合には大型の包丁が用いられる。コロンブ氏はこのテーマについて色々主張したが、傘状のものは用いられない。

ジャン・ブリュレルまたの名はヴェルコール、『非業な死のための実践的な21の指導書』

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侍は西洋人をまず驚かせ、困惑させ、恐れを抱かせた。貿易と国交に対する日本の開国後数十年間、西洋人が侍と接触したことについての報告書はその恐怖と驚きを伝えている。日本に乗り込んだ男性にとっても女性にとっても、エグゾテイスムはセガレンによって描かれた美的喜びからはかけ離れていた。とくにそれは、自分たちと全く違う二本の刀をさした侍と初めて遭遇したとき顕著だった。詩人のジョゼ=マリア・ド・エレディア[1]によって描かれる人形である以前に、侍は西洋とのある種の関係を具体化する危険な現実であった。

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1872年、ボーヴォワール伯は『世界周遊記』を出版した。ペリー総督によって日本の港が開かれた約二十年後、侍との初めての接触についていくつかのエピソードをその本のなかで報告している。神奈川と川崎の間〔訳注:宿場である神奈川宿と川崎宿のことで、二つの宿場の間には生麦村があった〕に宿泊したとき、彼は四年前に起こった事件のことを思い出した。この近くで、大名行列とレノックス・リチャードソンを先頭とするヨーロッパ人の集団が鉢合わせしたのだ。

「大名の前では道をあけなければならないという習慣を知らなかった西洋人たちは、すぐに退かなかったと言われている。しかし、西洋人の苛立ちと大君を困らせようとした彼らの考えが、七百人と千四百本の刀を備えた行列のなかにいた何人かの家来たちを突き動かしたということの方がむしろありうるだろう。ヨーロッパ人は襲われ、二人が逃げ出し、女性のうちの一人は結い髪を刀で切られ、レノックス・リチャードソンは致命傷を負った。先ほど別れを告げたばかりであり、いつも生き生きとして朗らかさに満ち溢れた彼と顔を合わせていた『ベルエスパニョール』の家に、リチャードソンは息も絶え絶えに辿り着いた。致命傷を負った人間特有のひどい喉の渇きにかられた彼は、彼女が持ってきた水を飲んだ。彼女が傷の手当てをしていたとき、薩摩の刺客が引き返してきて、彼女を乱暴に押しのけ、瀕死の男を路上に引きずり出し、そこで止めを刺した。そして、憤怒のあまり罵詈雑言を浴びせながら、死体を隣の田んぼの水路に投げ捨てた[2]。」


男であろうと女であろうと、侍の刀は区別しなかった。そして「ベルエスパニョール」は――その日本人女性は横浜のフランス人居留者によって、美貌のためにそう名付けられた、と作家は説明している――リチャードソンと共にいた件の結い髪を切られた女性よりも無下に扱われた。

しかしながら、女性たちはこのような粗暴な兵たちと常に関わり合っていたのではない。若きアメリカ人クララ・ホイットニーが1875年に日本に降り立ったとき、彼女は14歳だった。彼女は日本初の商業学校設立のために日本政府からの招待に応じた父についてやってきた。そして何とも風変わりな風習を目の当たりにして、その出会いと驚きを回想し、日記に書きつけている。いまだ不安定で、「維新派」と穏健派との戦いに遭遇する時代だった。1875年11月26日の日付でクララ・ホイットニーは次のように書いている。

「木曜の午後、感謝祭の日、わたしたちは勝氏、大鳥氏、箕作氏そして杉田氏と一緒にいました。 [中略]勝氏は非常に品格のある提督で、彼は日中家の外に出て危険に身をさらすことは決してありませんでした――夜は密かに武装していました――というのは彼の命は血に飢えたものたちから常に狙われていたのです。彼がやってきたとき、刀を携えていましたが、親愛の証として客間に入る際に刀をはずし、テーブルの上に置きました。人々が食事を終えて一服するために食堂に行ったあと、わたしは刀を観察しました。木製の鞘は金の漆塗りが施されていました。刃は諸刃〔訳注:引用されたクララ・ホイットニーの記憶違いか〕で非常に尖っており、幾人かの人物と龍が金で装飾されていた。日本人は口をそろえてこの刀はきわめて高価なものだと言いました。帰るとき、彼は再び刀を腰の帯に差し込みました[3]。」


この武器は、ここでは好奇心旺盛な子供の眼差しによって、友好的で飼いならされたかのようにおとなしくしており、大人たちが話し合っているかたわらで子供が殺傷能力を持ったその刃を覗き込む様も十分想像できる。それでも、この若い娘の語りに現れる夜間の争いや、日本の高官を取り巻く脅威をめぐる回想のなかで刀はその殺傷能力を保ち続けている。刀は待機しているのだ。「友愛の印」として机の上に置かれた刀は戦いのオーラを保ちながら、レノックス・リチャードソンを襲った者たちや、新政権を脅かす者たちの刃と瞬時に交わることができるのである。

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同じく女性によって書かれた別の日記には、二本の刀を携えた男たちとの遭遇が記されている。しかしそれはイギリスでのことである。日本政府は西洋世界の実力を見定めるために、アメリカやヨーロッパに大使を派遣した。『螺鈿七宝集』と『ミイラ物語』の作者の娘であるジュディット・ゴーティエは、彼女がまとめた文学的回想録のなかで、同じ時期彼女がロンドンで目にしたことを以下のように綴っている。

「ある日わたしは町で忘れることのできない印象を受ける出会いをしました。[中略]それは自国の衣装に身を包んだ二人の日本人でした。彼らは野次馬の人だかりを気にもとめないようしていましたが、野次馬が彼らをじろじろと見ていました。というのも彼らは格調高いお店に入って行ったからなのです。その店は象牙製やべっ甲製などのあらゆる種類の洗面用品を売っていました。ショーウィンドーのまわりには人だかりができていましたが、わたしたちは我慢できず、その店に入っていきました。

わたしは魅せられていたのです。それが極東との、初めての出会いでした。その瞬間からわたしは極東にすっかり魅了されてしまったのです。

一人の日本人は背が高く、絹製の彼の着物には、しなやかな長いいくつもの折り目がついていました。彼の顔色は青白く、(あとになってそれと知ったのですが)最も高貴な形である尖ったわし鼻をしており、尊大で、物憂げな気品があり、穏やかだが軽蔑が混ざった独特の表情をしていました。彼は帽子を被り、帽子は盾のような形をし、白い絹製の紐で支えられており、その紐は頬を伝って結ばれていました。彼の腰を締めている金糸の刺繍が施された帯から飛び出た、繊細な彫刻が施された二本の刀の柄が胸の上のあたりで交差していました。帯から扇子が顔を出していました。それを頻繁に手に取り、一振りで開きました。

もう一人の日本人の顔色は深い黄金色をしていて、顔には天然痘の痕が見てとれました。痕はときに多少痛んだ古いブロンズのような外見を彼に与えていた。彼もまたビロードの帯に豪華な柄のついた二本の刀を携えていました[4]。」


自国の外で侍は美術品という側面を持ち、二本の刀はその危険で好戦的な性質を失ってしまったようだ。だがジュディット・ゴーティエの話はまだ続く。数年後に上記の文章を書いているとき、並外れた二人の男たちは、「彼らの国の政治の世界で、当時から今に至るまで重要な役割を担っている伊藤俊輔と井上多問だったのではないか」と彼女は自問自答している。日本に対する関心が彼女を日本の歴史に精通させ、その美しい二人の侍がその繊細な象牙製の商品に細い指で触れる場面で、「恐ろしい蜂起が――その知らせはまだヨーロッパにまでは届かず――日本を血で染めていた」と彼女は言葉にせずにはいられなかった。ジュディット・ゴーティエは日本を舞台にした小説『愛の姫君たち』においてこの争いをテーマにしている。この小説は吉原の遊女たちに捧げられている。

東洋と西洋の出会いを彼女の手法で展開させた小説のなかには「真珠」と呼ばれる花魁が登場する。彼女の名は東京の隅々にまで知れ渡っており、西洋と西洋に付き従う進歩的な人々を憎んでいることで知られている。しかし、ある日彼女は一人の西洋人男性をもてなすことを強いられた。彼女がいくら抗っても、赤毛の野蛮人への憎しみを口にしても無駄で、彼女は屈辱から逃れることはできなかった。

「真珠はお辞儀をし、服従するしかなかった。彼女は異国人を受け入れることに同意した旨を伝えた。その男は豪華な宴を開くよう命じた。有名な役者たちが呼び寄せられ、彼らは楽器がひととおり揃った楽団を伴い、演じ、歌った。真珠は身動きせず、一言も話さず、出された食事に一切手をつけず、何も見ていなかった。一度も異国人に対して眼差しを向けなかった。 彼女は頑なに視線を落とし、幽霊のように青白く、冷淡で恐ろしい佇まいをしていた。宴が終わり、彼女は立ち上がってあたかも着替えにいくかのように自室に入った。お付きの者はすぐさま彼女を追いかけたが、入り口のところでその場にいる全ての者を震えあがらせるような叫び声をあげた。真珠が血だまりのなかで横たわっていたのだった。彼女は将軍である大公様が所有していた古い刀で喉をかき切ったのだ!…… [5]。」


この物語がいかに小説的であろうと、物語には象徴的な価値があり、様々な意味でわたしたちを引きつける。彼女はこの時代の(おそらく現代でもなおそうであろう)西洋人に対する日本人の態度の最も代表的な一面を示そうとしている。つまり、権利主張としての、そして屈服への拒絶を示す自害である[6]。例えば1884年、ギヨーム・デピンは日本についての彼の著書のなかで、一章全てをハラキリの方法に費やしている。彼はハラキリを「日出る帝国独自の、野蛮で残酷な習慣であるが、非常に幸運にも今日ではもはや存在していない」と紹介している[7]。しかしながら、彼は女性の自害については、刀でどう自害するかについてもいっさい言及していない。

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故にジュディット・ゴーティエの作品はわれわれに糸口を与えるという利点を持ち、本稿の主題でもあるエキゾチックで鋭利な武器が登場する、また別の女性についての作品と対をなしている。

1919年にフェデール作の『女郎蜘蛛』でタニト・ゼルガ役を演じた、映画監督ジャン・ルノワールの妻で女優であるマリー=ルイーズ・イリべは、1920年代の終わりに、アンリ・ドゥバンとともに『ハラキリ』と題された映画を撮影した。『ハラキリ』はルノワールの影響を残していると批評された。「ある種の人たちにとっては脅威的といえるほど大衆がトーキー映画に惹かれていくせいで、それに似たシネマ・ナラティフは発展のただなかにあった。この映画はむしろシネマ・ナラティフと、「前衛」である知的映画との合流地点にある。」ベルナール・トレメージュは『ラヴァン=セーヌ・シネマ』405号に掲載されたこの映画への紹介文でこう記している。この映画は非常に現代的な作風で、当時としては驚くべき画面構成とおそらくそのテーマゆえの簡素さを備えている。さらに彼は次のようにも書いている。「このほぼネオリアリズモ的フィルム・ノワールは、冷徹かつ理性的であるがゆえに残酷な別離で始まり、同じように冷静かつ理性的自害によって結末を迎える。しかしながらその自害を差し向けるのは情念なのである[8]。」

実際に映画は夫婦の別れから始まる。妻ニコル・ダオミをマリー=ルイーズ・イリベが演じ、その夫ダオミ=サムラをコンスタン=レミが演じている。妻は、叙勲式で出会い恋に落ちた男と逢引をしようとしている。その男皇子フジワラ・ヤエサトはリャオ・シー・ジェンが演じている。フジワラ・ヤエサトは将軍の息子であることが明らかにされる。将軍は映画の筋立ての必要性に応じて蘇らされたのだろう。というのもストーリーは映画が撮られた時期と見たところ同時代のものだからである。物語はヨーロッパ、おそらくフランスのアルプス地方と思われる、山に囲まれた地域で展開する。ニコルは車に乗せられて恋人と逢引をした。それは誘拐であると同時に逃避行である。というのも「日出ずる帝国の大使」――とタイトル・カード〔訳注:映像のなかに挿入される印字された文章を撮影したコマ〕には書かれていた――は皇子の失踪を心配し、捜査に乗り出していたのだ。シナリオでは恋人たちが人知れずホテルに到着し、彼らの到着に居合わせた刑事が興味にかられ、ニコルに対して不躾で乱暴に声をかけ、彼女のことを高級娼婦と取り違えたことが書かれている。そのような場面もあったが――このシーンは当時の習俗や男性社会への女性社会の服従を説明してはいるが――恋人たちは滞在を利用して二人のガイドを伴い山へ散策に出かけている。

ここから物語は込み入ってくる。皇子がクレバスに落ちて死んでしまうのである。映画はこの死が日本にもたらす影響を描き、日本人の反応、特に将軍の反応を観客に見せる。実に扇情的で、東と西がどの点で異なっているかをフランスの観客が知るためにいかにも東洋趣味的な言い回しで、「将軍であり、野蛮人に対する帝国軍の指揮官である余は以下のことを決めた」と将軍は発する。死んだ息子に対して、彼の亡くなった場所で神道の教えにのっとり葬式が行われることを将軍は決める。将軍の意向はフランスの日本大使に伝えられ、彼はその任務をニコルの夫であるダオミ=サムラ教授に任せた。

われわれが見ているのは軽喜劇ではなく悲劇なので、不貞を働かれた夫と妻の対面は緊迫したものである。映画はこのときから日本人と西洋人の間の態度の違いをさらに強調してみせる。日本で展開されるシーンは、将軍を取り巻く儀典を見せることで、役人たちの封建的な姿勢を事前にはっきりと示していた。そのシーンはいまや、教授が日本人の父と西洋人の母の間から生まれた混血であり、彼自身もまた西洋人の女性と結婚したという事実により強固なものになっている。だが彼の儀式への理解、アカデミックな知識、式を完遂するための取り決めは彼を日本へと完全に結びつけている。ニコルがそこにいるだけでスキャンダラスだという口実で、ホテルから出て、立ち去るように彼が妻に命令したのは、彼の公的立場からである。彼女の絶望と自害への望みを意識した彼が、妻に対しての判断を下したのもまた日本人的観点からである。そして「あなたはわたしたちの魂を何も知らない。西洋の女性だから。あなたは最も敬意を払うべきものを無意識にもてあそんでいるんです…… 」と言い、妻が日本の小刀を手につかんだことに彼は気がつき、「あなたはわたしの国の女性なら触れるだけで震え上がるような刃物をまるで工芸品かのように扱っている!」と言い放った。そして彼女にこの刃物の性質を示した。「これは名誉ある武器『九寸五分』を鍛造した祐定の刻印、これを持つ人間は名誉のためにしか使わない…… 」と言葉を放ち、教授は妻をひとり残し、式を終えるために立ち去った。

そのとき彼女は夫によって書かれた本、ダオミ=サムラ教授著『日出る帝国の風習としきたり』を手にしていた。その本のなかで先ほど発せられた奇妙な言葉の説明を見つけた。「九寸五分…… 字義通りには九プース〔訳注:フランスの古い長さの単位で、1プース=12分の1ピエ=27.07mm〕と半分。ハラキリによって自害するために考え出された短刀を指す意味として使われる。九寸五分は前方に置かれた小さな祭壇のたぐいや三宝の上に置かれる……」と書いてあった。そのとき画面が拡大され、タンスの上にある絹の布の上に置かれた、使われるのを待っているかのような短刀が映し出される。別のクローズアップでは、観客がニコルとともに「女性の場合は刃物の先端を上に向けて持ち、前のめりに倒れ、喉を切断するような方法を取らねばならない。男性は反対に…… 」と書かれた本を読むことを可能にする。映画はいままさに本に書かれている儀式を行おうとするニコルの戸惑いと決意を映し出している。本に自害を行う女性の作法が書かれていることで、ニコルが行為を行うのを可能にしている。白い絹製のガウンを着た彼女は「名誉ある」死を、そして夫への反論を準備しようとしている。

「ニコルに焦点が当てられ、彼女は起き上がり、鏡を見る。不意に本を手に取り、力強く本をめくると、一枚のページを破り取り、ローテーブルの上に置いた。そしてそのページで刃を包んだ。彼女はゆっくりと短刀に近づき、天を仰ぎ、目を閉じる。ニコルは短刀を首にあて、頭を上へと伸ばした。そして頭を下げながらゆっくり短刀を近づけ、最後に考えるためかのように頭を上げ直した。

ニコルは短刀をずっと手にしている。しっかりと集中し最後の動作に移すべく、彼女は瞳を閉じる。

タイトル・カード: 「……微笑みかけながら名誉の死に、近づく……。」

彼女は目を開け、笑い始める。一瞬彼女の顔は輝き、喜びで体が満たされる。時は来たと感じた。ニコルは瞳を閉じ、ふっと後ろに仰け反った。素早く前のめりになり凶器を突き刺した。

俯瞰のクロースアップ。ニコルは白目を向いているようである。彼女は短刀の上に一気に崩れ落ちた。

正面からの密着した画面。ニコルの力を失った手から短刀が離れ、地面に落ちる。

ニコルは頭を再び上げ、眼差しは疲れ果てていたが目は大きく見開いていた。彼女は口に手を当て、右から左へと頭を揺らしながら身をかがめている。彼女は力を抜いたが、視線は固まっていた[9]。」


ニコルはハラキリに失敗してしまった。しかし彼女は自害に失敗したのではない。というのもすぐあとで、彼女の死体が夫によって発見されたのである。ピストルを持った彼女の手がクローズアップされ、彼女が自身の存在を終わらせるために、日本の刀ではなく、より西洋風のやり方を選んだことを示している。

『ハラキリ』は諸文化の融合と同時にその無理解を描いた映画なのである。彼の欧亜混血的出自から二つの世界の境界線に位置付けられるダオミ教授によってその融合は具現化される。それは恋人たちの融合、そしてまた混血の夫を持ちながら、アジア人の皇子を愛したニコルの融合によっても具現化されている。彼女は、熟知し、かつ尊重している二つの世界で生きたが、これらの世界に同化するまでには至らなかった。そして自害方法の融合は、この映画に驚くべき強度を与えている。だが最終的にこの融合はアジア世界とヨーロッパ世界の無理解に行き着くしかなかった。その融合は人間の間にあるコミュニケーションの不可能性により表され、また二つの文化の社会的要求に彼らが従わねばならないだけいっそうドラマティチックになる、彼らの孤独が表現されている。皇子、教授とその妻は日本の礼儀作法、儀式、将軍による決定に従っている。ニコルは女性であるため警察の横暴さに打ちのめされ、西洋と同じく東洋の抑圧された社会行動に従っている。彼らは不安のなかで抗い、死はおそらく解放なのである。死は、切腹という儀式に従うなら、境界を通り越し、西洋社会の不完全さをおそらく補うための方法となるのだ。

われわれはルイ・マルの『鬼火』のアランの孤独と近いところにいるだろう。この魅惑的な映画は、自死の物語であると同時に、究極の孤独の物語でもある。アランはニコルよりもいっそう世のなかにおいてよそ者であったが、彼は自らの不幸に終止符を打つやり方についてニコルほど迷ったりはしなかった。彼は、カバンからルガーを取り出した。「リボルバーの銃身を口元へと向け、『人生はあまりに緩慢である、だからわたしは人生を速め、それを正す』と彼は引用でも発するかのように呟く[10]。」ルイ・マルは、脚本の原作であるピエール・ドリュ=ラ=ロシェルの『ゆらめく炎』の文章を移し替えた。ドリュはこう書いている。「人生はあまりに緩慢で、わたしはそれを速めねばならない。その進展が衰えていて、わたしはそれを直さねばならない。わたしは人間だ。わたしは自身の命の主である、それを証明しよう。」

男あるいは女、六発の弾を込めた刀あるいは六枚の刃を備えたリボルバー、それはこれらの映画や人生のなかで欠けている対立ではない。今こそ、比類なき決断の時なのだ。

*掲載された画像はイメージであり、本文とは関係ありません

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[1] 『侍』

男は二振りの刀を携えていた。

気もそぞろな指で琵琶を奏で
細い木舞状に編まれた竹越しに
彼女は見る、静かで幻想的な浜の向こうから
彼女の愛が夢見ていた勝利者が近づいてくるのを。

彼だ。傍に刀を差し、一品の陣扇を持ち、彼がくる。
赤い紐と緋色の房が
仄暗い甲冑を横切っている。肩の上には、
肥前と徳川の家紋が輝く。

その美しい勝利者が身につけるのは、刀と諸々の板、
その板は青銅でできており、さらに絹織物や輝く漆塗り、
彼は黒く巨大で、さらに朱色の甲殻類のように見える。

男は彼女を見た。仮面のヒゲから笑みが見える。
彼が歩みを速めたことで、
兜に合わせて揺れる二本の金の鍬形は日の光できらきらと光る。

[2] ボーヴォワール伯『世界周遊記』、パリ、プロン=ヌリ社、1902年、183-184頁。(Comte de Beauvoir, Pékin, Yeddo, San Francisco. Voyage autour du monde, Paris, Plon-Nourrit, 1902, p. 183-184.)
[3] クララ・ホイットニー『クララの明治日記』、パリ、フランス=アンピール社、1986年、49頁。(Clara Whitney, Journal de Clara. Une petite Américaine au Japon Meiji, Paris, Editions France-Empire, 1986, p. 49.)〔訳注:以下の邦訳を参照した。クララ・ホイットニー『クララの明治日記』〈上〉〈下〉、一又民子訳、東京、講談社、1976年。〕
[4] ジュディット・ゴーティエ『二番目の首飾り、文学的回想』、パリ、アルマッタン社、1999年、132-133頁。(Judith Gautier, Le second rang du collier. Souvenirs littéraires, Paris, L’Harmattan, 1999, p. 132-133.)
[5] ジュディット ・ゴーティエ『愛の姫たち(日本の遊女たち)』、パリ、文学・芸術出版協会、1900年、117-118頁。(Judith Gautier, Les Princesses d’amour (Courtisanes japonaises) , Paris, Société d’éditions littéraires et artistiques, 1900, p. 117-118.)
[6] アンヌ・ド・ブルターニュの「汚れるよりは死のう」というスローガンのもととなったオコジョの例をわれわれは想起できるだろう。だが日本の切腹は自分たち固有の文化圏を忘れさせてくれるという点において、日本を発見した者たちを魅了したのである。
[7] ギョーム・デピン『日本』、パリ、フルヌ書店、1884年、124頁。(Guillaume Depping, Le Japon, Paris, Librairie Furne, 1884, p. 124.)
[8] ベルナール・トレメージュ「ハラキリ、マリー=ルイーズ・イリベの映画」、『ラヴァン=セーヌ・シネマ』、405号、1991年10月、2頁。(Bernard Trémège, « Hara-Kiri. Un film de Marie-Louise Iribe », L’Avant-scène cinéma, 405, octobre 1991, p. 2.)
[9] 『ラヴァン=セーヌ・シネマ』、60頁。(L’Avant-scène cinéma, p. 60.)
[10] ルイ・マル「鬼火」、『ラヴァン=セーヌ・シネマ』、30号、1963年10月15日、19頁。(Louis Malle, « Le feu follet », L’Avant-scène cinéma, 30, 15 octobre 1963, p. 19.)


2019/04/27

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