シャラクによるルソー論の新たな視点と問題点
André Charrak, Rousseau: De l'empirisme à l'expérience, Paris, Vrin, 2013, 221p.
アンドレ・シャラク、『ルソー:経験論から体験へ』、パリ、ヴラン書店、2013年、221頁
馬場朗(東京女子大学現代教養学部教授)
気鋭の哲学史研究者シャラクによるルソー論である。二百頁超ほどの小著に盛り込まれる哲学史的情報ゆえの読みづらそうな最初の印象とは逆に、全体的主張と論旨は極めて明快である。
本著作の枢要な論点は以下の五点に纏めうると思われる。第一に、ルソー思想をその力動的進展を軸に捉える立場を明確にしている。特に1760年代前半の『エミール』そして最晩年の『夢想』の決定的重要性およびこれら著作間の発展的差異を指摘する。この点で、1750年代中頃の『不平等論』を基盤にルソー思想の全体像に迫るゴルドシュミットによる静態的・構造的読解は露骨なまで意図的に退けられる。第二に、シャラクが最も丹念・執拗に示す論点だが、(ロック以上に)友人コンディヤックらの経験論を中心とする同時代的「方法」がルソーに与えた影響が(余りにも正当だが)改めて強調される。その意味で、ロックやコンディヤックだけでなくダランベールやビュフォン、モーペルチュイやエルヴェシウスそしてディドロ等の関連する同時代の議論とのルソー思想の関連性も良く触れられる。無論、従来(グイエやブレイエそしてドラテ等により)指摘されてきたルソーのデカルト・マルブランシュ主義という反経験論的側面が必ずしも蔑ろにされる訳ではない(特にデカルトとの繋がりは結論部に至るまで常に強調されるが、デカルトの(「夢想」の語を使っているとは言え)エリザベート宛書簡や『情念論』との積極的連関付けなど評者には些かやり過ぎと感じられる)。むしろ同時代の経験論的文脈が必ず検証され、それ故例えばこの文脈を介してのルソーを含めた同時代人達(リニャックそしてコンディヤックも)へのマルブランシュ受容が慎重に考慮されもする(但し従来の研究者が指摘するルソーのマルブランシュ主義には過大評価として否定的でもある)。ここから、第三の論点として、ルソー哲学の反経験論的側面が、単純にデカルトやマルブランシュに回帰した結果ではなく、経験論的方法をルソーが徹底させその限界を露呈させた帰結、つまり経験論自体からの内在的超克として示される。これは本著第二章最初の分析が証そうとする、『ジュネーヴ草稿』から『社会契約論』への改変・修正にも認めうる。しかし、特に重要なのは『不平等論』以上にその前半部での経験論的方法が顕著な『エミール』である。既にフラマリオンから詳細な解説と註を付した文庫版『エミール』(2009年)を公にもしたシャラクは、本著でも『エミール』の分析に全体の三分の二程の頁を費やす。実際、シャラクは『ルソー、ジャン=ジャックを裁く』の「第三対話」の発言をも根拠にしつつ、『不平等論』を凌ぐ『エミール』のルソー哲学における枢要性を強調する。しかし、ルソー思想の全体像が『不平等論』にかわり『エミール』で提示されるという話では全くない。これが次の論点に直結する。第一の論点で触れた様に、『エミール』でルソー哲学が完成するのではない。確かに、『エミール』第四篇「信仰告白」(エルヴェシウス批判と連動する「判断力」の議論と『ヴォルテールへの手紙』以来の「来世の幸福」に関る弁神論)において経験論的方法からの内在的離脱は不可避となるが、その徹底化は『夢想』でしかなされない、これが第四の論点である。経験論的「方法」を冒頭(「第一」と「第二の散歩」)で言及した上で明確に遠ざけ、「第二の散歩」で報告されるメニルモンタンでの「(臨死)体験(expérience)」を「第五の散歩」の「存在感情」のそれへと組み込みつつ言語・思想化したルソーの絶筆『夢想』こそ、ルソー哲学の最終形態に他ならない。最後に第五の論点として、シャラクが『不平等論』以来の「自己愛」概念をこの著作全体の分析上の基本概念としていることである。第一章では『不平等論』での「憐れみ」と「自己愛」の並列的関係が、特に『エミール』において後者の根源性の徹底へと変容する意義が示される(『言語起源論』の有名な起草史問題とも絡むが、ともかくもシャラクは『不平等論』をルソー哲学の基軸にはできぬと言いたいのだろう)。第二章でも、経験論からの内的離脱の原動力は、「判断力」を巡るエルヴェシウスと唯物論批判の背後にある「死後の幸福」を予見させる神的な「秩序(ordre)」を求める「自己愛」である。最後の第三章では、(モンテーニュ『エセー』の臨死体験の場合とは決定的に異なり迫害者達の側から事後的に示される)「(擬似的にしろ)死」の淵で「自然の秩序」の「幸福」な「体験」を可能にするのも「自己愛」という根源的「情動」である。つまり「自己愛」は、経験論の発生論的手法に親近性がある以上に、「来世」を希求する、あるいはむしろ「死」によって常に浸透的に隣接・裏打ちされる「生」の「幸福」の顕現でもあろう。それは、認識の発生・展開に限定された経験論を超え出ていく問題圏へと(弁神論の単純な思弁的考察とは別なかたちで)繋がる「生きた体験」の「真理」の根底をなすものに他ならない。
しかし、以上のシャラクの鮮やかな分析に関して、評者に幾つかの重大な疑問が残らないわけではない。三点のみ指摘する。第一に、ルソーの反経験論的立場を専ら『エミール』第四篇とその周辺及び後の『夢想』で顕現する図式に固執しすぎである。特に『不平等論』の位置付けには注意がより必要だと思う。確かに、(シャラクは言及しないが)『不平等論』が同時代人達に、むしろ経験論・唯物論的な著作と捉えられてもいた事実は想起すべきであろう(例えばカステル神父による1756年の『身体的人間に抗する精神的人間』)。しかしながら、以前(『経験論と形而上学』、ヴラン書店、2003年)『不平等論』からの言語起源に関するコンディヤック批判を丁寧に分析したシャラクであればこそ、自然と社会との断絶(経験論が前提する漸次的連続への留保)を強調する『不平等論』第一部は、第二部と同じ様な経験論・発生論的分析に簡単に還元できぬのではないか。この意味で、彼の言う様には、ゴルドシュミットの古典的業績も安易に退けるべきとも思われない。第二に、シャラクが『エミール』で主に分析するのは前半の四篇、それも第四篇前半の「信仰告白」までに過ぎない。第四篇後半と第五篇で本格的に展開される「愛の精神的なもの」を巡る社交・女性論そして恋愛論が、ヴァルガスの言う様に(『ルソー:性の謎』、フランス大学出版、1998年)「信仰告白」を含め『エミール』全体に決定的意味を持つのをシャラクが知らぬ筈はない。たとえシャラクが『人間認識起源論』第二部冒頭(「大洪水」後の二人の子供の男女)のうちに潜在するコミュニケーション的契機の重要性を強調したいにせよ、コンディヤックでは性(差)の齎す独自な他者性の問題圏は(『感覚論』で典型的に見られる様に)最終的に退けられる。『感覚論』から多くを借用しつつも既に前半部から随所で(エミールの思春期以後の)後半部の議論を意識させる『エミール』のコンディヤックへの批判的立場は明らかである。この意味でも、シャラクは第四篇後半以後を全く論じぬ理由をやはり何らかのかたちにせよ丁寧に説明すべきだろう。第三に、第三章での『夢想』の時期に関る(とシャラクの想定する)音楽論の解釈である。1767年公刊(執筆開始は既に『不平等論』直後であり、ある意味でこの著作の強い影響下で執筆が始まったとも言える訳で、評者はここも気になる)の『音楽辞典』の諸項目(「協和音」「和声」「リズム」等)を、シャラクは『エミール』第四篇での「判断力」を巡るエルヴェシウス批判で重要であった「(理知的)比較」が特に『夢想』の時期ではその有効性を失うという主張に繋げる。成る程「第五の散歩」へと導くだろう「リズム」を重視するルソー音楽論を巡る解釈は興味深い。そもそも、シャラクの指摘とは別に、リズムとその構造の修得・知覚は、知的比較に安易に収束せぬ身体・感性記憶(=習慣)そしてこれと不可分な(殆ど無意識化された)共同性に基づくだろう。更には、『言語起源論』を中心とするルソー音楽論が着目する様に、原初の音楽的言語の韻律性は正にこのリズムが音声言語のうちに内包化された証しでもある(リズムの打楽器的起源を余りに特権化する議論ではこの点は見え難くなる)。このリズム重視が、シャラク自身が意識する様な『不平等論』直後の『ラモーの二原理の検証』だけでなく、『旋律の原理』とその発展型たる『言語起源論』でも(シャラクは誤解しているが原初言語の韻律性と絡み)既に示される点で、ルソー音楽言語論の重要な側面であるのは疑いがない。しかし、評者がどうしても腑に落ちないのは、項目「協和音」での(『百科全書』同項目以上に強化された)デカルト・ディドロ的「(知的)比較」へのエステーヴを介しての批判が、更に項目「和声」での「sensation comparée」という表現を巡る解釈(感覚は既に比較・判断を内包する)により補強されるとするところである。エステーヴ音楽論の批評校定版(ピエール・エステーヴ、『和声原理の新発見』、フォントネー・サンクルー高等師範校出版、1997年)で一躍名を馳せた彼が今回の新著以前から(「ルソーと音楽:快における受動性と能動性」、『哲学論叢(Archives de philosophie)』、2001年(第64巻(第2号)))ずっと拘る読解だが、『音楽辞典』の起草時期に関するより繊細な考察の欠如とも併せ、評者にはシャラクにしては非常に乱暴な議論に思えて仕方がない。また、彼の解釈で更なる問題と思えるのは、『音楽辞典』と起草的にも関係の深い『言語起源論』がその第九章で『エミール』と同じく(「憐れみ」そして他者への「精神的」感情が発生する文脈で「想像力」ともあわせて)「反省」と「比較」の重要性を強調する事実である。シャラクとは異なり評者は、これが同じく『言語起源論』後半第一六章の特に(絵画との対比での)音楽のある種「動的な関係性」の議論とも関連する可能性が高いと考える。(この「反省」と「比較」が単なる「理知的判断力」だけでなく(先に「リズム」に関して評者が述べた)より感性的・身体的に習慣化された「精神的なもの(le moral)」に関る可能性も含めて)ルソー音楽論およびこの時代の音楽理論史を専門とされる研究者のご意見を伺いたいところでもある。
とは言え、同時代の哲学・思想史的文脈を丁寧に拾いながらルソーの哲学思想を再構築しようとするシャラクの姿勢自体には強く共感する他ない。また。評者が一二年ほど前彼のおそらく二つ目の著作を書評した際に感じた(書評:アンドレ・シャラク、『古典主義時代における音楽と哲学』(1998年)、『日本18世紀学会年報』、2004年(19号)所収)、(音楽理論史の豊富な知識も含めての)哲学史家としての力量と議論の見事なまでの立体感についての鮮明な印象は今回も変わらない。本著が多くのルソー研究者に興味深い情報と解釈を与えてくれるのは間違いがないものと思う。