ルソーの夢みた幸福——彷徨と揺らぎの果てに


Guilhem Farrugia, Bonheur et fiction chez Rousseau, Classiques Garnier, 2012, 361p.
ギレム・ファルジア『ルソーにおける幸福とフィクション』、クラシック・ガルニエ、361ページ

安田百合絵(東京大学人文社会系研究科博士課程、日本学術振興会特別研究員DC)

ルソーは生涯をかけて幸福を追求しつづけた。彼の多くの作品のなかで、「幸福」が「徳」や「愛」などと並んで決定的な位置を占めていることは否みがたい。本書は その「幸福」というテーマを軸に据えてルソーのテクストを読解しようとする試みであり、2009年に提出された著者の博士論文を原型としている(指導にあたり、博士論文審査の主査をつとめたミシェル・ドゥロンが序文を寄せている)。

ルソーにおける幸福という主題を扱った論考や著作は、これまでにも数多くある。T・トドロフの『はかない幸福:ルソー』(1985)は短いながら忘れがたいし 、A・フィロネンコのように、不幸という側面からルソーにおける幸福を照射するアプローチもある。そして多くの人は、R・モージの大著『十八世紀における幸福の概念』(初版1960)を思い浮かべることであろう。この大著でルソーは決定的に重要な役割を果たしていた。

本書はこれらの著作によって作られてきた研究史を踏まえつつ、ルソーが幸福について論じている文章を徹底的に渉猟・検討し、「虚構」と「空間」という二つの概念を鍵として、ルソーの幸福という問題系を再構築しようとするものである。モージの労作が十八世紀のあらゆる幸福についての言説を対象とするものだったとすると、本書はコーパスをルソーのテクスト(しかし書簡にわたるまで全て)に限定したうえで、それに勝るとも劣らない試みを行っているものという印象を受ける。それほどまでに、網羅的にルソーのテクストが扱われ、幸福と関係するあらゆる概念が分析されている。

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以下で簡単に内容を要約・概観したい。全体で二部構成になっており、第一部「幸福の母胎としてのフィクション」には三章が 、第二部「幸福の空間、虚構のための空間」には二章が費やされる。

第一部第一章「幸福の諸形式」では、ルソーにとって幸福がどのような形で享受されたのかが示される。この章で注目されるのは「彷徨」「夢想」「エクリチュール」である。

「散歩」がいつしか「彷徨」となったときだけ、ルソーは甘美な幸福を味わう。あてどなく歩きまわるなかで、彼は同時に精神世界をさまよい、自由に夢見ることができるからである。またパリという大都市での陰鬱な思索を中断してくれるのも散歩である。考えるためにも、考えないためにも、散策が要請される、ということが指摘される。

そのようにして「彷徨」のなかで行われた「夢想」は重要な役割を果たす。周知のように、「夢想(rêverie)」という語に眠りの夢や虚しい空想とは別の意味を与え、瞑想との対応関係を確立したのはルソーであった。この「夢想」は「自らの魂との対話」であり、それゆえに、傷つけられ、悲しみに打ちひしがれているときこそ、彼の哲学的思索は豊かに花ひらく。重要なのはある種の脱人格化(dépersonnalisation)が「夢想」において実現するという点だと著者は述べている。通常把握されている人格とは別の、ある種の非人称的な世界に入り込むことによって、逆説的に透明な自己把握が可能になる。その自己把握が自己疎外の不幸から彼を回復させる、というのである。

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さらに、「はかない幸福」を固定するものとして、「エクリチュール」が要請される。「エクリチュール」は「幸福の時期」とも「不幸の時期」とも異なる、「エクリチュールによる幸福の時間」を現出させると述べられる。「夢想」が不幸を通じて幸福を探求するものであったとすると、「エクリチュール」はそれを永続化する。かくして、書かれた幸福と書くことの快楽とが生まれ、書くときにルソーが味わう法悦も、「エクリチュール」それ自体に作用することになる。

続く第二章「幸福な生の虚構的側面」では、虚構そして想像力の問題が扱われる。従来、現実にある実体をなぞることしかできず、模倣的なものでしかないとされていた想像力は、ルソーによって新たに創造の力を付与される。「想像」は神の特権であった「創造」を可能にして、ルソーを神のごとき存在にするのである。

しかし著者によると、ルソーにとって想像力は両義性を孕み持っており、想像は虚構の世界の幸福を与えるだけでなく、時には不吉な未来の光景を現出させて想像する者を不幸にすることもできる。さらに「逆説家ルソー」は、あらたなパラドクスを展開してみせる。仮想がたとえ偽りであったとしても、仮想がもたらす幸福は、現実に体験されたものであり、したがって真なるものだ、というのである。

この章では、「虚構の諸形態」として、さまざまな虚構のあり方が検討される。「哲学的・人間学的虚構」、「教育的虚構」、「ロマネスクな虚構」、の三つが詳細に論じられているが、おそらく著者がもっとも力点を置きたいのは、それら三つに通底する軸が存在するということであろう。たとえば『不平等起源論』では人間の普遍的な性質を、『夢想』ではひとりの人間の特殊性を探究の対象としているものの、そのいずれも、想像力を自由に働かせた哲学的夢想という方法論においては共通する、ということが示されている。

「ロマネスクな虚構」について論じている箇所には「虚構という概念から、幸福の再構築を行わなくてはならない」という一文が記されている。この主張こそが、この著作全体をつらぬく主要な命題であるだろう。たしかにルソーは現実の世界においては幸福を失ったが、それによって彼は「虚構的幸福」という新たな幸福の概念を結晶化させることが可能となった。それゆえに、著者はルソーにおける幸福の概念を論じるにあたって、虚構の概念をも特権的にとりあげるのである。

第三章「経験された虚構の幸福」では、この虚構の幸福が、とりわけ強度や質といった観点からより詳細に記述し直される。いくつか要点だけを取り出しておきたい。

自然との融合という主題が、この章では大きな役割を果たしている。夢想に浸って「存在の感情」を味わうことは、自然のさまざまな事物を感覚するのを妨げるものではなく、ルソーの夢想においては自然と融合しながら自己のうちに沈潜してゆくという不思議な事態が起こるのである。拡散と収斂が同時並行する、否むしろ、自然との融合を伴ってこそ内的な沈潜が完成する、というところに著者の主張の眼目がある。

さらに、幸福の虚構的な側面は、感覚的なものを帯びる。サン=ピエール島での夢想においてそうだったように、 ある種の甘美な官能性が夢想には必要なのであり、「感覚の開かれ」はルソーにとって夢想を可能にする条件である、と著者は述べる。感覚的瞑想とでも言うべきものが生じ、現実と虚構の境界はあいまいになる。

本書でもうひとつ重要とされるのは、アリストテレス的な、抑制と均衡(つまり中庸の徳)の理論である。夢想は、目覚めと眠り、外部と内部、現前と不在の中間にあるというまさにその位置によって理想的なものとなる。内的な宇宙と外的な宇宙、この二つを調和させ、結びつけるところに夢想がある。したがって、真/偽(vrai/faux)の区別はもはや意味をなさず、鍵となるのは真実性(vérace)の概念である、ということが強調されている。

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第二部では、「空間」という観点から幸福の検討が行われる。とはいえ、そこで空間と名指されているものは、現実の延長を持つ空間ではなく、時間性も含みこんだ広義の抽象的な時空間である。また、「空間」といっても、空間によって可能になる往還・揺れ動き(oscillation)が議論の焦点となっている。

第二部第一章「幸福の空間における揺らぎ」では、ルソー思想が持つこの揺らぎ、二つの極の往還に焦点があてられ、そこから幸福の問題が検討される。ルソーの自伝的テクストを少しでも読むと、彼の人生が言動や性格上のさまざまな矛盾に彩られていたことがよく分かるが、それらの矛盾を生きていることに、彼は誰よりも自覚的であった、ということが、この章を読むと改めて実感される。

まず幸福は、「私」と「宇宙全体」という、二つの存在様態の揺れ動きのうちにある、とされる。たとえば第二と第五の散歩では、同じ「存在の幸福」を描きながらも、前者が極限状態における外部性の恍惚であるのにたいして、後者では夢想による内的な恍惚がうつしとられている。さらに、自然のスペクタクルへの賛嘆と、夢想による内的・心的な光景への没入はつねに対になっている。

とはいえ、いずれにしても、揺らぎが(ここが重要なところであろうが、弁証法的にではなく、溶解fusionというかたちで)回収されていく点に注目すべきだろう。たとえば、幸福の概念には時間性が大きな役割を果たしており、ルソーははかない快楽(plaisir)に、永続的な幸福(bonheur)を対置している、と著者は言うのだが、それと同時に、幸福のなかでは、時間は理性的な把握を超えて感覚されるということも示される。「瞬間が永遠に続く」ことのうちに幸福がある、とルソーは度々書いていたのだった。そうである以上、瞬間的な快楽/永遠の幸福という対立はもはや意味をなさなくなる。ルソーが快楽と幸福を対置しているという確認にとどまらず、幸福な時間においては永遠と瞬間が溶けてしまうということまで明らかにしている点が、本書の興味深いところである。

著者によると、こうした溶解のモチーフはストア派の伝統を汲んでいる。第二の散歩で感じられたような脱人格化は他性の消滅であり、デカルト的な主客の断絶にかわって宇宙への統合が行われることで、ストア派の伝統と接続される。

最終章「社交性の諸形態の揺らぎ」においては、前章で取り上げられた揺らぎのテーマが、社交性の問題から検討される。ルソーは孤独を求めながら他者との親密さを希求するという矛盾に引き裂かれつづけ、この問題に最後まで取り憑かれた。著者は、ルソーの幸福の概念に「自足(autosuffisance)」が決定的な役割を果たしていることを思い起こさせたうえで、「社会的孤独(solitude sociale)」という概念を提示する。つまりルソーの孤独は、社会からの絶対的な断絶ではなく、可能な限り他者との(依存)関係を縮減するものだというのである。

さらに、この孤独には、休息(repos)の問題が関わってくる。著者によると、休息の幸福は、まさに休息/運動の対立が乗り越えられた地点にある。この休息は、身体の休止というよりも、知的精神と情念の放棄、受動性のうちに宿るものであり、その意味で自己制御の放棄である。

しかし、絶対的な無は嗜眠と倦怠を生む。嗜眠ではなく休息が実現するには、情動的な能力が目覚めている必要がある。散歩の魅力はまさにこの点にある、と著者は述べる。風や葉のそよぎ、波といった、外部世界の節度ある揺らぎの運動によって、存在の感情にかすかなさざ波が立つことで、完全な停滞が食い止められるのである。

最後に、孤独と対をなす友愛の情が検討される。『不平等起源論』の憐憫の情とも密接な関わりを持つ友愛は、自己の外に存在を拡張する新たな方法であり、幸福はその自己の拡張にかかっている。孤独が存在の感情によって幸福をもたらすとしたら、友情は共通の存在感情(他者のうちに自己を見出す)という別種の幸福をもたらす。自分ひとりで存在するのとは別のしかたで存在することを可能にするのが、友情なのだとされる。

   
これだけの規模と細密さで、ルソーの幸福の問題を検討し尽くしたことは大きな成果であろう。また、虚構の重要性を(改めて)強調した点にも注目したい。さらに、ルソーのテクストから浮かびあがる揺らぎを、単純な構図にして矮小化してしまうのではなく、あくまでそれを忠実に捉えようとした誠実さも、評価に値しよう。

とはいえ、手放しで賞賛できるかというと、疑問が残らないわけでもない。揺らぎを「忠実に」捉えることは、ルソーの生きた逆説をむき出しに提示することでもある。

340ページにわたる本文全体には、一度もルソー作品(やほかのルソー研究書)に対する批判意識が見られない。したがって、整理されてはいるのだがそれゆえにいっそう目立つ、ルソーが提示するさまざまな論点についての数多くの矛盾の解決を読者は期待しえない。疑問や問題が提示され、それがあざやかに解決される様を味わうという喜びは、本書においては皆無といってよい。

また、「幸福」と「虚構」に的を絞ったテマティックな論考ゆえの半ば不可避的な瑕疵でもあろうが、 本文がほとんど冗長なまでに反復的に見える。 構成の仕方によっては、もっと刺激的な論になりうる可能性を秘めているのではないか。たとえば、 「虚構」と「空間」というやや曖昧な概念で第一部と第二部を分けるかわりに、第一部第一章において幸福の諸形式としてとりあげられていた「彷徨」「夢想」「エクリチュール」という区分を本論全体に適用すれば、論の輪郭がもう少しはっきりしてくるのではないか。

とはいえ、テクストの精密な読解で著者が明らかにした、ルソーの「幸福」概念の骨組みの姿は壮観だ。ルソーの幸福について考えることは、ルソーの思想全体を射程におさめて考えることでもある、ということを、実感をもって納得させられる一冊である。


2016/05/16

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