権威は疑わなければならない!

Œuvres / Sade ; édition établie par Michel Delon, Bibliothèque de la Pléiade, tome III, 1998.
サド『全集』:ミシェル・ドロン編、プレイヤッド叢書、1998年。

関谷一彦(関西学院大学法学部教授)

フランス文学を研究する者にとって、どの版のテクストを選択するかは重要な問題である。ましてや翻訳の場合、底本をどれにするかは、翻訳のもっとも重要な問題と言っても過言ではない。サドのLa Philosophie dans le boudoirの翻訳は、拙訳(『閨房哲学』人文書院、2014)以前にすでに五つあるが、その多くは抄訳である。その理由の一つが、90年代までは文学作品に対しても検閲が厳しかったために、性に関する表現には注意が必要だったからだ。また、発禁本であるがゆえに、テクストの入手も困難であった。したがって、底本にする選択肢は限られ、比較する版もほとんどなかったことから、テクスト・クリティックは難しかった。しかし、現在はEnfer(発禁本)でさえ、インターネットを通じて入手できる環境にあるのだから、どの版を底本にするかは訳者の責任である。また、なぜその版を使うのかも明示する必要があり、それも訳者の責任であろう。

翻訳にあたり、まず考えたのがその基本方針である。その方針とは、18世紀のテクストを忠実に再現しようとすることだ。フランス国立図書館所蔵のEnfer 535および536が、われわれが手にすることができるもっとも古い版で、初版本と考えられている。まずは、それを再現すること、その理由は18世紀のテクスト、原典へのこだわりである。プレイヤッド版もこの考えを基にしているが、厳密に言うと改変が加えられている。また、その他の版では大幅な変更が加えられてもいる。

こうした改変のなかで一番やっかいなのは、句読法が異なっている点だ。ここで言う句読法とは、「コンマ」la virgule, 「ピリオド」le point, 「中断符」le point de suspension, 「疑問符」le point d’interrogation, 「感嘆符」le point d’exclamationなどである。また、句読法だけでなく、改行や単語そのものが版によっては改変されている。専門外の者にはあまり面白くないかもしれないが、どのように違うのかを簡単に見ておこう。

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プレイヤッド版は、句読点が若干異なる点を除いて、Enfer 535と536を可能な限り再現しようとしている。翻訳にあたっては、それ以外にジルベール・レリが監修したCLP版(OEuvres complètes du marquis de Sade, Cercle du livre précieux, t. III, 1963)、イヴォン・ベラヴァル版(La Philosophie dans le boudoir, présentation par Yvon Belaval, Editions Gallimard, 1976)ジャン=クリストフ・アブラモヴィシ版(La Philosophie dans le boudoir, présentation par Jean-Christophe Abramovici, Editions Flammarion, 2007)を参考にした。ベラヴァル版はCLP版を踏襲し、アブラモヴィシ版はプレイヤッド版とCLP版を参照している。CLP版は句読法を全面的に変更し、自らの解釈によって語彙さえも変更している。拙訳の原則は、初版本と考えられるEnfer 535と536を忠実に再現することにあるので、CLP版の句読法やテクストの修正には従うことはできない。CLP版の修正の一例をあげると、« il est clair que vous leur donneriez sur vous, tous les avantage qu’ils vous refusent »「あなたは彼らに対してありとあらゆる利益を与えるのに、彼らの方はあなたに与えるのを拒絶するのは間違いない」(Enfer 536, p. 29, 強調引用者. Pléiade, p. 94. CLP, p. 462. 拙訳, p. 135)という箇所の下線部の人称代名詞 « vous »が、CLP版では « nous »に変更されている。これ以外にも、初版本やプレイヤッド版では « nous »が用いられているにもかかわらず、CLP版とアブラモヴィシ版では« vous »に変更されている箇所もある(Pléiade, p. 156. CLP, p. 527. Abramovici, p. 180. 拙訳, p. 223)。

また、プレイヤッド版はEnfer 535と536を再現しようとしているにもかかわらず、しかも綴り字や過去分詞の性数一致の誤りを修正しているにもかかわらず、コンマ、ピリオド、感嘆符、疑問符などの句読法に初版本との違いがみられる(読者にはEnfer 536のp. 11, p. 12, p. 13とプレイヤッド版のp. 86, p.87を比較していただきたい)。また、改行が異なっている箇所もある(Enfer 536のp. 72 とプレイヤッド版のp. 111を比較していただきたい)。こうした点は、翻訳者泣かせであり、翻訳の際の大きな障害となっている。

さらに付け加えると、プレイヤッド版の一番の誤りは、挿絵が間違った頁に挿入されている点である。プレイヤッド版の45頁に挿入されている挿絵は、初版本の第二巻であるEnfer 536では口絵として使われている。その挿絵には、左上に « p. 53 »と印字されていることから、本来は53頁に挿入されるべきものである。ところが、第二巻の53頁に挿入すべきものが、誤って第一巻の53頁に挿入されてしまったために、この挿絵は物語とは関係のない箇所に挿入されている。プレイヤッド版には、口絵を含めて六葉の挿絵があるが、Enfer 535と536には五葉しかない。プレイヤッド版105頁にある挿絵は、初版本には存在しないものである。しかもこの挿絵は、素人が見ても他の五葉とは明らかに違うもので、作者が異なっていると考えられる。面白いことに、間違ってプレイヤッド版45頁に挿入された挿絵は、後から挿入された素人目にも異質な一葉に代わって、本来105頁に挿入されるべきものである。その他の挿絵が物語の筋と関連した頁に配置されていることを考えると、プレイヤッド版45頁の挿絵は105頁に挿入され、105頁に入っている挿絵は、他の版に入っているにしろ明らかに異なるものであるので、入れるべきではなかったと言えるだろう。拙訳では、物語に沿うように、本来あるべき位置に戻した。以上、少々煩瑣な問題に立ち入ったが、問題の核心はプレイヤッド版でさえ疑わなければならないという点だ。

フランスでは、プレイヤッド版は作者や作品による違いはあるものの、やはりもっとも信頼できるテクストと見なされている。サドに関しても同様で、主要な作品がプレイヤッド版全3巻に収録されている。『閨房哲学』を翻訳するに際しては、プレイヤッド版におけるジャン・ドゥプランの詳細な注に助けられることも多かったが、注のなかには誤りが見られるし、参照箇所の頁なども誤っていることがしばしばある。重要なのは、それらを参考にしながらも、自分でそれを検証する姿勢である。上記の挿絵の問題は、2015年2月にジュネーブ大学で開かれた「サドの言語」という国際学会でミッシェル・ドロンに会った際に指摘したが、「Enfer 536の53頁に挿入すべきところを、Enfer 535の53頁に誤って挿入した可能性はある」とのことだった。彼はサドのプレイヤッド版の監修者だが、おそらくこの誤りには気づいていなかったものと思われる。

したがって、プレイヤッド版ということで信頼せずに、本文や注で指摘されている箇所は必ず参照箇所にもう一度戻ることだ。その作業は煩わしいかもしれないが、面倒でも原典に戻るという姿勢が研究には必要であり、それがわれわれを成長させる。「権威は疑わなければならない」、おそらく『閨房哲学』の翻訳から学んだ一番重要な点は、この言葉にこそある。それは「人物」にも当てはまり、権威の上に胡坐をかいている人物こそ、われわれは疑わなければならないのである。



2016/04/17

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