表象のパスカル ― テクストの編纂と表象の試み


Alain Cantillon, Le-Pari-de-Pascal : Étude littéraire d'une série d'énonciations, Éditions de l'École des hautes études en sciences sociales : Librairie Philosophique J. Vrin , 2014 .
アラン・カンチオン『パスカル−の−賭け 言表行為の連なり』

野呂康(岡山大学・全学教育・学生支援機構 外国語教育部門准教授)

或る辞書の定義によると「学閥」という語は①学問上の党派,流派,②学校による党派,出身という意味である.すなわち学問上の流派を指す場合も,制度上の機関への所属を表す場合もあるのだろう.とはいえ所属機関が同じで流派が異なることもありうるし,学の流派が近いのに異なる所属機関に属していることもあるだろう.師から学風を受け継ぐとは限らないし,所属と流派がつながらない場合もある.同じことが学の対象についてもいえる.パスカルを対象としていても,文学,哲学,思想史など分野が異なればやはり学閥は異なることになるだろう.

パスカル学を志すと,どうしてもこの言葉に敏感になる.日本からフランスに留学する場合,どの先生に私淑するかあるいは制度上どの機関に登録するかで,ほぼ自動的に学閥への所属が決定されてしまう.一見したところ,それほど所属と学閥が密接に結びついているのがフランスのパスカル学の特徴である.不文律とはいえ,パスカルに関心を持ち,留学と指導教官を考えた瞬間に,フランスに厳然と存在する学閥を意識せざるをえないのである.

前置きが長くなったが,ここで取り上げるカンチオンの書の方法論や射程を理解する上で,そんな些細な情報がそれでも少しは役に立つ.ここ半世紀のパスカル学を振り返ると,大きく三つの学閥を想定できる.第一に戦前から戦後にかけて『パンセ』の厳密な校訂版を編纂しようとする流れがあり,中でもルイ・ラフュマ(実は在野の,つまり所属の無い研究者だった)による編集版とその問題意識を受け継いでいるのが現在のパリ第4大学(ソルボンヌ)を中心とした文学系統の学派である.とりわけ同大教授だったメナールとセリエにはフランス全土の大学に弟子がいる.第二にアンリ・グイエを中心とした哲学系統の学派があり,第三にグイエ系統ではあるが,哲学や文学が主に扱うテクストや概念に関心を抱いた思想家の系譜がある.ジャンセニスムを没落する法服貴族の世界観と結びつけ,その「悲劇的世界観」の現れの一つとして『パンセ』を分析し独自の社会学を構築したリュシアン・ゴルドマンや,以下に詳述するが,『ポール・ロワイアル論理学』に挿入された断片形式のテクストが担う自壊作用に着目したルイ・マランなどがこの系譜に分類される.以上の諸学派は問題関心と方法論を共有する流派と分野,そして所属機関がほぼ一致している.もちろんこれらとはほぼ無関係に存在する学派や孤高の研究者にも重要な仕事があるが,ここでは触れずにおこう.

本書の著者アラン・カンチオンは,1978年から社会科学高等研究院で教鞭をとっていたマランの弟子である.マランの仕事といえば表象分析,独自の記号論を駆使した美学・美術史の研究(王の肖像やニコラ・プサン,フィリップ・ド・シャンパニュ研究など)など枚挙にいとまがないが,カンチオン曰く,その思索の中心には常にパスカルとポール・ロワイアル研究があった (L.Marin, Pascal et Port-Royal, recueil établi par A. Cantillon, Presse Universitaire de France, 1997, col.< La Bibliothèque du Collège international de philosophie >, p.7).マランはパスカルについて頻繁に言及し,そのパスカル論には未だ色褪せない,瞠目すべき指摘がある.マランはパスカルのテクストの特徴の一つを自己言及性に求め,それを「批判的」(critique)であるという.語り手パスカルは自己の思想に反省的であり,自己の書くものを意識している.すなわちテクストを書くパスカルは,語られるべき内容を語ろうとするだけでなく,語り手としての語る自分とその行為を意識している.それがテクストに表れているというのだ.このテクスト特徴の上に,『パンセ』が成立しているとされる.それでは語る自分について語る語り手は,一体どこから語っているのか.マランは,メッセージを発する時の状況というものは,そのメッセージ内容を構成するともいう(メッセージ内容が状況を語っているのではない).敷衍して言えば,パスカルが『パンセ』を構成する断片形式で語ったのにはその必然性があり,その自己言及的な断片性は形式であると同時に内容である.これに対置されるのが「言説」という形式である.言説には自己言及性が欠如している.こうしてパスカルの断片形式のテクストが,言説形式をとる『ポール・ロワイアル論理学』に埋め込まれた結果,異化効果を発揮し自壊作用を促すことになる.これがマランの名著『言説批判』の一貫した主張である.


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『パンセ』の孕む問題については稿を改めるとして,ここでは『パンセ』が死後出版であり,生前パスカルの書き溜めた「断片」の寄せ集めであることを確認しておきたい.したがって著者が意図して書こうとした現代的な意味での書物ではないのだ.マランは上述のようなテクストの特徴と,パスカルの死後に編纂作業を経て生産された「書物」を合わせて考察する.ところで1670年に刊行された『パンセ』の初版いわゆる「ポール・ロワイアル版」には,パスカルの姉ジルベルトが書いた「パスカル氏の生涯」というテクストが挿入されていた.かつての『論理学』がそうであったように「生涯」は作家パスカルのテクストを,線的な一貫性をもった言説に変換する機能を担う.存在しないはずの断片の集成を,あたかも実在の書として提示する.これ以降現代に至るまで,編者が「生涯」から把握されたパスカルという作家像を前提に,不在の書を実体化し続ける.編纂作業を通して『パンセ』は構造的に歴史性,イデオロギー性を抹消され,言説として提示されることになる.「パスカルの編纂に取組むあらゆる編者の仕事とは,〔『ポール・ロワイアル版』以降―引用者による挿入〕書物の不在の現前性に読者を導くことであり,読者を読解に誘い,不在の現前性なるものが拒否されているその仕方について読者に知らせることである.断片的なテクストの不決定性そのものにより喚起され決定される喪の仕事である.」(« : du texte au livre » repris dans L.Marin, Pascal et Port-Royal, p.43.)

以上を確認した上でカンチオンの書に移ろう.『パスカル−の−賭け 言表行為の連なり』という題名には二つの仕掛けが組み込まれている.その一つが二つの異なる単語を結ぶ役割を果たす「−(トレ・デュニオン)」である.ところで『パンセ』のテクストの中でも,およそ賭けに関するものほどインクの費やされてきたものはないし,このテクストに限ってはこれまでにパスカルへの帰属が疑われたことはおそらくない.それならばなぜわざわざ作家への帰属を強調するような記号で結び,「パスカル−の−」とする必要があるのか.カンチオンは賭けを編纂する上で,編者あるいは編者を含む当該社会が,どのように「パスカル」という作家像(これをカンチオンは「位格(persona)」と名づける)を表象し,テクストの編纂作業と関連づけていったかという,いわば編纂という操作の歴史に関心を抱く.編纂とは行為であり,その作業には歴史性,イデオロギー性が纏いついている.編纂されたテクスト(賭けのテクスト)と編者の表象する作家像を切り離しては分析は不可能である.これが「賭け」と「パスカル」の一体化を具現する記号の意味である.

二つ目の仕掛けは「言表行為」という,日本語にすると消えてしまう「複数形」の語である.カンチオンは編集作業におけるテクストの扱い,すなわち編纂方針を「言表行為」(énonciation),編纂されたテクストを「言表」(énoncé)と呼ぶ.パスカルという位格を結びつけて編者によって生み出されるのが「言表」であり,その生産行為を「言表行為」とするのである.この前提の下,編纂されたテクストの歴史性イデオロギー性を三つの時期に分けて分析する.第一はポール・ロワイアル版とその刊行時の状況,第二は18世紀末のコンドルセによる編纂作業,第三はクーザンとフォジェール版である.賭けに限定してはいるが,それぞれの「言表行為」から,その社会思想とパスカルのテクストの表れの関連性を導き出そうというのである.そうした言表行為の連なり,いわばシリーズ(série)が歴史を形成していく.

かなり粗雑ではあるが,カンチオンの特異な用語と射程をまとめれば,マランの問題意識との類似性は一目瞭然である.ところで,『パンセ』の編纂作業とその結果としての諸版への関心はこれまでにも存在した.コンドルセやアヴェ,ブランシュヴィクによる編纂版(19世紀)を通して,編者の思想的傾向と時代を結びつけて版の評価を下すこともしばしばなされてきたところである.しかし諸版の特徴を社会の一般的な思潮らしきものや個人の解釈に還元するのではなく,パスカルのテクスト特性や編纂という作業の条件と制約あるいは存立構造,そしてテクストの歴史性とイデオロギー性を結びつけ,方法論的な検討を経て練り上げた用語を付与しながら編纂史を辿り記述したのは,紛れもなくカンチオンの功績である.

但しこの野心的な試みに対して,幾つかの疑問を投げかけることは容易である.その一つに,こうしたメタレベルの作業と指摘の不毛性をあげることができる.編纂作業の歴史性イデオロギー性は認めるとして,それでも編纂抜きにはテクストは存在しない.編纂が編者による取捨選択の結果であり一つの答えにすぎなくとも,読者に書物として提供しなければならないのだ.現代の編纂作業が一つの言表行為にすぎないとしても,だからといって編纂なしには『パンセ』は存在しない.それに作家が死んでしまっている以上,完成版などそもそもありえないではないか,と.

また,手続き上の不備を指摘することもできよう.一例のみ挙げるなら,かつてのマランが図像に関心を抱いたように,カンチオンはポール・ロワイアル版の編者や関係者のテクストを引用しながら,初版に組み込まれた装飾図の分析にかなりの頁を費やしている.ポール・ロワイアル版の特性を導き出すために用いられるその分析は,図像による具体的なイメージを付与する力と相俟って,確かにそれなりの説得力をもつ.しかしカンチオンの分析では同じ書肆から刊行された同時代の書籍に参照が促されるわけでも,また図像が網羅されているわけでもない.ポール・ロワイアル版に挿入された図像の解釈に終始するだけで,まさに歴史分析が欠如しているといえるだろう.

以上のような欠落にもかかわらず,従来の編纂作業と研究を念頭におき,時に現代思想が提供する難解な用語を用いながら,テクストを根源において捉え直そうとしているという意味で,カンチオンがパスカル研究に一石投じたのは間違いない.

最後に「学閥」の話に戻ろう.マランのパスカル論は,現代のパスカル学においてほとんど顧みられることがない.現代のパスカル学の主流を担う学派が,「パスカル」の思考に忠実な『パンセ』の編纂に心を砕くあまり,ゴルドマンやマランの思想研究からは遠ざかる傾向にある(そもそも,どの「パスカル」を問題としているのだろうか).学閥とは恐ろしいものである.パスカルのテクストの特徴,編者が「パスカル」を表象せざるを得ないという「あらゆる編者」の宿命,編集上の制約を刳り出したマランや,その問題意識を先鋭化させたカンチオンの仕事にはほとんど一瞥も与えることなく,編纂作業と作家研究が連綿と続けられているのが現状である.それこそ『パンセ』を言説と捉え,実在する一貫した書物として脱歴史化,脱イデオロギー化する作業ではないか.それは自己を省みない,最もパスカル的でない営みではなかろうか.未だ一つの学に身を投じきれない自分を省みて,その不甲斐なさを恥じつつ,位置決定の空しさと大切さを想う日々である.

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2016/04/17

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