方法の問題
Philip Walsh, Arendt Contra Sociology: Theory, Society and its Science, Routledge, 2015,
フィリップ・ウォルシュ、『アーレント対社会学:理論、社会とその科学』、2015年。
権安理(立教大学コミュニティ福祉学部助教)
政治理論でも哲学でもない。社会学という文脈からアーレントを読むことはできるのだろうか。本書の目的は明確である。それはアーレントの思想を、社会に関する現代の学問――社会科学、社会理論、そして社会学――に“応用・接続”することである。
だが、このことは読者を、そしてアーレントを戸惑わせるだろう。アーレントは近代社会に批判的であり、そこから派生する社会科学や社会学を「嫌悪」すらしていたらからだ。アーレントの眼目は、社会とは峻別された政治を志向することにあり、彼女自身は、自らを政治理論家と位置づけている。したがって、この応用・接続の成否のみならず、そもそもなぜそれが可能なのかという点が問題となる。その根拠はどこにあるのか。
結論から言えば、それは、著者ウォルシュによるアーレントの“読解・解釈”の独自性にある。そして、この読解・解釈の一つの論拠になっているのが、ウォルシュが見出すアーレントの「方法」である。ウォルシュはその特徴を、複数の哲学的な術語――超越的ではなく超越論的、そして現象学的など――で特徴づけているが、それがハイデガーを意識した現象学的存在論(いわゆる「存在的/存在論的」区分の導入)となっているという指摘は興味深い。
通常アーレントの近代社会批判は、「社会的なるものの勃興」という時代診断に基づくと解されている。すなわち、古代ギリシア的区分――営為(=人が行うこと)の三区分(「労働/仕事/活動」)と、領域の二区分(「私的:家計・経済/公共的:政治」)――は、近代では無効化した。生命の必然=必要性(necessity)に由来する「労働」が、私的領域から解放されて全面化したのであり、ここには、自由と人間の複数性を前提とした相互行為である「活動」の余地はない。これが「社会的なるものの勃興」の意味することであり、したがって近代社会には政治の領域はなく、経済の原理が貫通している。
だが、ウォルシュはこの通説に意義を唱える。正確に言えば、そのような捉え方は「現象」のみに着目した「存在的」なものであると見なす。経済発展論的な歴史=物語は表層の出来事にすぎず、したがって隠された深層に着目しなければならない。「労働/仕事/活動」という区分は、顕在化する営為とそれが展開される領域の類型化=境界設定のみを意味する訳ではない。むしろ、個々人の営為を前提としつつも、それを背後から(常に既に)規定する「生活世界」に着目することが重要である。「労働/仕事/活動」区分は、人間の世界に対する根源的な関心・志向の有り様が三つ在ることをも意味する。
ウォルシュによると、この深層への「下降」こそが「存在論的」である。そして、ウォルシュはこの深層における三区分が、人間の「社会生活」の基底をなしている、つまり全ての社会に普遍的であると考えている。では、このような「存在論的」な視座――「社会の存在論」――は何をもたらすのか。
アーレントが言うように、確かに政治は「活動」の領域である。だが、人間の「活動」的な関心・志向は、政治的な領域に固有のものではない。それは例えば、「労働」的な関心・志向が、私的領域に限定されないのと同様である。「社会的なるものの勃興」とは、まさにこのことを意味していた。そうであるとするならば、「活動」もまた、政治の領域から解放され得ることになる。こうしてアーレントによる三区分は、領域区分に付随する「現象」というよりも、むしろ現代社会学や社会理論がテーマとする問題圏へと、アーレントの思想を応用・接続するための「存在論的」根拠を与えることになる。
それゆえに、本書は、アーレントの“政治”理論を、“哲学”的な方法に注目した読解・解釈によって、“社会学”に応用・接続しようと試みたテクスト――ウォルシュは、アーレントはこの試みを支持しない可能性を示唆しているが――となっている。またここで、この書評が冒頭で掲げたテーゼは脱構築されることにもなるだろう。興味深いテクストである。