「お人好しのニグロみたいなフランス語」~映画『ショコラ』を観る
『ショコラ~君がいて、僕がいる~』(2016)
スタッフ
監督:ロシュディ・ゼム
脚本:シリル・ジェリー
キャスト
オマール・シー:ショコラ(ラファエル・パディーヤ)
ジェームス・ティエレ:ジョルジュ・フティット
クロチルド・エム:マリー・グリマルディ
オリビエ・グルメ:ジョゼフ・オレール
フレデリック・ピエロ:デルヴォー
Chocolat (2016)
Réalisation :Roschdy Zem
Scénario: Cyril Gély
Acteurs principaux: Omar Sy, James Thierrée, Clotilde Hesme, Thibault de Montalembert, Alex Descas (Victor, le haïtien)
陣野俊史(批評家)
『ショコラ』という映画を観てきた。2016年の夏、フランス映画祭で上映されていたのだが、そのときは見逃した。評判は聞こえていた。ポイントが幾つかあると思うので、映画の感想以前にそれらについて書いておこう。
まず、テーマだが、黒人に対する差別。簡単すぎる書き方だが。映画は実話に基づいている。19世紀の終わり、パリで道化師になったキューバ生まれの若い奴隷の綽名が「ショコラ」で、彼とコンビを組んだ(白人の)道化師がジョージ・フティット(イギリス人だった)。映画の中でフティットを演じるのが、あのチャップリンの実孫、ジェームス・ティエレ。そしてなによりも、ショコラを熱演しているのが、オマール・シーである。オマール・シーはいまさら説明の必要もないくらい有名なのだが、出世作はやはり『最強のふたり』(2011年)か。その後も彼の出演作はどんどん続くのだが、あと二つだけ挙げれば、『ムード・インディゴ うたかたの日々』 (2013年)と『サンバ』(2014年)だろう。
なかでも『最強のふたり』と『サンバ』は同じ監督たち(エリック・トレダノとオリヴィエ・ナカシュ)が演出を担当していて、彼に対する評価を決定づけているとも思うのだが、同時に、彼への視線も固定化したようにも感じる。つまり、『最強のふたり』では、パリのど真ん中に住む超富裕層に属する、事故によって全身を麻痺させてしまった主人公(フランソワ・クリュゼ)に対し、貧困層を表象するかのような郊外の団地に住む、もう一人の主人公を演じ、また『サンバ』では、粗製乱造された偽造の滞在許可証を使って、なんとかフランスに居続けようとするセネガル出身の黒人青年を演じている。予告編こそユーモアを交えて作ってあるけれども、『サンバ』のほうに現実と深く結びついた深刻さが表れているのは事実で、たとえば学生に勧めてみると、『最強のふたり』との落差に、日本の若者は一驚さえするようなのだ。
そして『ショコラ』でも、またしてもオマール・シーである。またしても、というのは、差別され、抑圧される黒人の表象の代表として登録されてでもいるかのような使われ方だ、という意味である。オマール・シーもまた、19世紀末のショコラの如く、現代の黒人の代表的な俳優として遇され、どう見たって、ショコラとオマール・シーは重なって見える、と言えば言い過ぎだろうか……。
少し冗漫に書きすぎたので、整理すると、オマール・シーが担っている黒人俳優の類型性の問題が一つ。二つ目は、チャップリンの愛娘と「シルク・ヌーヴォー」の担い手の間に生まれた(この事実は凄いと思う)ジェームス・ティエレの演技。
このあたりに注目してみる人が多いと思うのだが、もう一つ。三つ目の注目点として、書いておきたいのは、この映画の監督だ。ロシュティ・ゼム。名前を目にしてピンとくる人がどれだけの数いるのか、さっぱりわからないが、フランスの俳優であり映画監督でもある。彼の監督作Mauvaise foi (2006年)は大好きな映画だが、ここでは彼が俳優として登場する『ゴー・ファースト 潜入捜査官』(2008年)を挙げておきたい。
この映画、普通に犯罪組織への潜入捜査をする警官たちの活躍を描いただけのものと思われるかもしれない。たしかにそうなのだ。映画の冒頭、クリシー・ス・ボワのHLM(団地)に捜査員たちは張り込みをしている。部屋に目張りをして明かりが漏れないようにして、向かい合わせに建っている団地の様子をのぞき見している。ロシュティ・ゼムはその潜入捜査の指揮をとっているのだが、彼は盗聴したアラブの言葉をフランス語に翻訳したりもするのだ。ここがとても面白い。彼は単に潜入捜査をしているだけではなく、悪人たち(!)の話す言語の理解者として、そしてそれを翻訳する立場として、捜査チームを率いている。別の言い方をすれば、悪人たちと同じ人種に属しながら、彼らを逮捕する側にいる。人種的な線引きが善悪の区分線になっていた時代が終わりを告げたのだ――もう、そんな時代はとうに終わっている、と思うなかれ。意外にサンプルとなる映画は少ないのである。『ゴー・ファースト 潜入捜査官』の話ばかりしていても仕方がないからこのあたりで切り上げるが、ロシュティ・ゼムは人種問題に大きな関心を寄せてきた映画人だということは言えるだろう。
さて、いよいよ『ショコラ』。オマール・シー、ジェームス・ティエレ、そしてロシュティ・ゼム。この三者への期待を胸に――。
映画の大雑把なストーリーを(http://chocolat-movie.jp/から)。
「フランス北部のさびれたサーカスに仕事を求めてやってきた白人芸人フティットは、そこで人食い族を演じる黒人の男に興味を示す。カナンガと名乗る男に、フティットは『相方を探している』と、“白人と黒人のコンビ”という前代未聞の組み合わせを提案する。
『コインと同じ、表裏一体だ。俺たちはふたりで一つだ』
カナンガは新たな芸名『ショコラ』となり、コンビ『フティット&ショコラ』はサーカスを連日満員大入りにするほど話題を呼ぶ。ふたりの噂はパリにまで及び、『フティット&ショコラ』は名門ヌーヴォー・シルクの専属となる。ふたりの芸は大勢の観客の笑いを誘い、ショコラとフティットはベル・エポック期のパリで一番の人気芸人となった。オーダーメイドの洋服や自動車など贅沢品を買いあさり、毎晩酒場で酔客たちを笑わせながら酒を飲みギャンブルにはまっていくショコラ。対照的に、舞台を下りたとたんに笑顔が消えるフティットは常にネタ作りにいそしんでいた。そんななかショコラは、美しい看護師マリーと出会う。「フティット&ショコラ」としてマリーの勤める病院に入院中の子どもたちへの慰問を続けるうち、惹かれあうショコラとマリー。
ところがある日、不法滞在の容疑でショコラが突然逮捕される。『見捨てないでくれ』と不安げなショコラに、『何とかする。俺に任せろ』と約束するフティット。連行された先で『身の程を知れ』とショコラは凄惨な拷問を受ける。数日後ヌーヴォー・シルクの座長のはからいで釈放されるが、ショコラの心の傷は癒えない。奴隷の子として生まれた彼は、その肌の色のために、白人の召使であった彼の父親同様、ずっと差別され続けてきたのだ。ショコラの逮捕によって休演していた『フティット&ショコラ』がヌーヴォー・シルクに帰ってきた。相変わらず大人気の彼らだったが、華やかな喝采の裏で、ショコラは以前にも増して酒とアヘンに溺れ、ギャンブルにのめりこんでいく――」。
以上がこの映画のHPにある「ストーリー」。少し言葉を足しておこう。右のストーリーだけでは、黒人奴隷から芸人に成り上がり、自分を忘れて身を持ち崩した男の話、ということになってしまう。間違いではないが、映画を監督しているのがロシュティ・ゼムであることをお忘れなく。
酒に溺れ、麻薬に手を出したショコラは幾度となく投獄されるのだが、あるとき、ハイチ出身のジャーナリストで政治犯として収監されている男と話をすることに。彼と話すうち、話題はシェイクスピアの演劇へと移行し、二人は意気投合する。そして『オセロ』を黒人として演じることをショコラは願い始める。
演技経験もないまま、『オセロ』の主役を望んだショコラに、ある小さな劇場は役を割り振る。そして、初日。惨憺たる出来。ショコラは、酷評の嵐に見舞われる。黒人が黒人の役を希望し、本人の希望通りに演じたが、不首尾に終わる、というあたりが、この映画の核ではないかと思う。このあとフティット&ショコラは、一座でのトップの座を奪われ、零落していく。そして最後、ショコラの死によって映画は幕を閉じる……。
この映画の原案を書いたのは、ジェラール・ノワリエルという歴史学者で(ただし、フランス情報では「原案」扱いになっていない模様……)、すでに邦訳も出ている。『ショコラ 歴史から消し去られたある黒人芸人の数奇な生涯』(舘葉月訳、集英社インターナショナル、2016年)というタイトル。ノワリエルは他に『フランスという坩堝 一九世紀から二〇世紀の移民史』という著作が邦訳されている。名著である。ノワリエルによれば、ショコラは自分の名前である「ラファエル」での出演を希望し、演目は『モイーズ』だった。『オセロ』ではなかったのだ! ただ一幕ものの芝居『モイーズ』と主演のショコラ、いやラファエルに対する批判はたしかに酷評に近かった。その一つ。「誰も笑わなかった。ただショコラ、善良なショコラだけが舞台上で笑っていた。しかし、笑いすぎだ。この陰鬱な笑いは哀しい、哀しい、哀しい」。劇評を読んでいる側が「哀し」くなってしまうじゃないか……。劇場はショコラのサーカス芸人としての名声を利用して芝居をやろうとしたが、失敗した。『モイーズ』は演目からはずされた……。
この出来事のあと、ショコラは反論している。「ムッシュー・ショコラの失望」と題されたショコラの反論記事はしかしそれを文字化したジャーナリスト(マックス・ヘレール)の悪意としか思えない「翻訳」によって次のように変換されている。
「作品は良かった。ムッシー、私も、私も良かった。そう、分かってる、分かってるよ。ショコラは自分の台詞を言えないって言われてることはね。長い台詞になると、ショコラは、えっと、えっと、混乱してしまうんだ。ムッシー・ジェミニが話したことはさ、優しくなかったよね、ムッシー・ジェミニは。ショコラにたくさんお金くれたけど、優しくなかった。だってそうでしょ、ムッシー、ショコラはお人好しニグロみたいなフランス語は話してないよね?」(邦訳書、533頁)
率直に言ってこれはひどい。「お人好しのニグロみたいなフランス語」を話す人物として確実に造型されている。おそらくショコラ、いやラファエルが闘ったのは、そうした意識に対してであったはずなのに――。ノワリエルはこのショコラの言葉を受けて、フランツ・ファノンの議論へ繋いでいく。
さて、最後に一言だけ。前述したが、ショコラが自分の黒人性に覚醒し、役者を目指すシーンは獄中で、ハイチ出身のジャーナリストに啓発されてのことだった。そのジャーナリストがどこかでみたような気がした。映画で彼を観た瞬間、私はなぜか小さくない既視感に捉われた。もしかして、この男性は、ダニー・ラフェリエールではないのか、と次第に広がっていく疑念(?)を抱えたまま、私は映画を観続けていた。そう、ハイチ出身の作家で、アカデミー・フランセーズの会員でもある、あのラフェリエール……。映画が終わる頃、私の中の疑念は確信へと変化していた。ラフェリエール、客演!
帰宅して、ダニー・ラフェリエールの写真を確認した。映画の中のハイチ人ジャーナリストの容姿とは似ても似つかない、まったくの別人であったことを小さな声で報告しておく。