「フランス法」への導き(2)〜辞書・辞典
馬場 圭太(関西大学法学部教授)
学生—— 先生、お久しぶりです。私のこと覚えていらっしゃいますか? 春学期にフランス法の勉強方法について質問した者です。
教授—— ヤァ、ずいぶん久しぶりじゃないか。元気だったかい?
学生—— 「元気だったかい?」じゃないですよ。次の日に個人研究室で指導してくださるとおっしゃっていたのに研究室にはおられないし、あちこち探したんですけれど先生を見つけることができませんでした。一体どこにおられたんですか?
教授—— それは悪いことをしましたね。昨今はいろいろと多忙で…。外で仕事をしていることが多いけれど、研究室にいたとしても居留守を使ったりしていますしね。
ところで、その後大学院の受験はどうなりましたか?
学生—— はい! 無事、希望する研究室に合格することができました。進学するまで時間があるので、フランス語文献をじっくり読み進めようと思っています。
教授—— それは立派な心がけですね。フランス語の文献を読み進めるのもよいけれど、今の時期に、フランス語以外の言語、とくにドイツ語やラテン語の基礎をひと通り勉強しておくことをお勧めしておきます。
学生—— ドイツ語、ラテン語ですか…。
教授—— 法学の研究をするのであればいずれ必要になる時が来るし、これから先は忙しくなる一方ですからね。今が一番余裕のある時期だと思いますよ。
学生—— …分かりました。ところで、今日は、フランス語文献を読むためのアドバイスをいただけますか?
教授—— 分かりました。それでは、辞書と辞典の話しをしましょう。
− 一般の仏和辞典
現在は、様々なフランス語の辞書が出版されています。それぞれに特徴があり、バリエーションに富んでいます。辞書は、自分の使いやすいものを選ぶのが第一です。ですから、辞書について語ることほど野暮なことはないかもしれません。ですが、今日はあえてその領域に一歩足を踏み入れてみましょう。
法律用語の訳語を選択するときに信頼するに足る辞書を選ぼうとするならば、どれを選ぶべきでしょうか。編集協力にフランス法の専門家が参加しているか否かが一つの目安となるでしょう。
この観点から、第一に挙げられる辞書は、
鈴木信太郎ほか編『新スタンダード仏和辞典』(大修館書店、1987年)
です。この辞書の編集には、稲本洋之助先生、大野實雄先生のお二人の法学者が参加されています。一時は、法学研究を志すのであればこの辞書を、という雰囲気がありましたが、その後法律用語辞典(後掲)が登場したこともあり、時代的使命を終えた感もあります。私が長年使ってきたのがこの辞書で、ボロボロになったので今は使っていませんが、棄てることができず研究室の片隅に置いたままになっています。
もう一つ、一般用の辞書として挙げるべきものがあります。それが、
小学館ロベール仏和大辞典編集委員会編『ロベール仏和大辞典』(小学館、1988年)
です。この辞書には稲本洋之助先生と新倉修先生が参加されており、法律用語の訳の正確さは一般的な仏和辞典の中では頭一つ二つ抜けています。最近は、電子辞書やスマートフォンのアプリにも採用されて、使い勝手が向上しました。書籍版は3万円を越えますので高額ですが、電子辞書やアプリは価格が抑えられています。専門家を目指すのであればいずれ必要になりますので、早めに入手しておくとよいと思います。
− 法律用語辞典
フランスの法律文献には特殊な言い回しが多く現れますので、その翻訳は、初学者にとってハードルの高い作業でした。そのことは、今も変わりはないでしょう。
ですが現在は、次に掲げるようなフランス法辞典が刊行されています。これらの書籍は、フランス法を理解するためだけでなく、仏文を翻訳する際にも大変役に立ちます。
中村紘一・新倉修・今関源成監訳、Termes juridiques研究会訳『フランス法律用語辞典』(三省堂、1996年〔初版〕、2002年〔第2版〕、2012年〔第3版〕)
この辞典は、ダローズ社から刊行され、現在も版を重ね続けている定評のあるLexique des termes juridiquesを翻訳したものです。原著がコンパクトですので、訳書も入手しやすい価格に抑えられています。
もうひとつの辞典が、
山口俊夫編『フランス法辞典』(東京大学出版会、2002年)
です。この辞典は、原著の翻訳ではなく、独自に編纂されたものですが、やはり評判の高い法律学辞典であるGérard Cornu(sous la dir.de), Association Henri Capitant Vocabulaire juridique, PUFを基本文献として利用したとされています(「はしがき」を参照)。価格は高めですが、入手できるうちに手に入れておくべき書籍の一つです。
− 法律用語の選択
学生—— 先生、質問があります。同じ言葉なのに、二つの辞典でそれぞれ別の訳をあてています。
教授—— どの言葉ですか。
学生—— 例えば、« procureur de la République »です。片方の辞典には、「共和国検事」と書かれていて、もう片方の辞典には、「大審裁判所検事正」と書かれています。どちらが正しいのでしょうか?
教授—— どちらも正しいと思います。
学生—— !? 先生のおっしゃることの意味がよくわかりません。
教授—— 一般用の辞典ではそのようなことはまずありませんから、無理もありませんね。少し説明しましょう。
« procureur de la République »は、大審裁判所(日本の地方裁判所に相当)に配置される検察の長です。日本における検察官の職階に照らし合わせると、「検事正」(地方検察庁の長)に相当すると考えることができます。
さて、訳語を選択する際に、日本の制度に引き寄せる方針をとるならば、「大審裁判所検事正」という訳語をあてることができるでしょう。一方、原語に忠実な訳語をあてるという方針もありえます。そのような方針をとるならば、「共和国検事」という訳語をあてることができるでしょう。
これら二つの訳は、いずれかが正しくいずれかが誤っているというわけではありません。それぞれに長所と短所があり、いずれも選択すべき理由があるからです。「大審裁判所検事正」という訳語は、フランスの制度を知らない人でも、訳語を見ただけでそれが何を意味するかをおおよそ理解することができます。ですが、フランスと日本のあいだに存在する細かな制度の違いに目をつぶることで、読者に誤解を与える余地もあります。これに対して「共和国検事」という訳語は、フランスの制度を知らない人にとっては、一見してそれが何を意味するか分かりません。ですが、先に指摘したような誤解を避けることはできるでしょう。
学生—— なるほど、おっしゃることが少し理解できたような気がします。そうだとしても、結局どちらの方針を選んだらよいのでしょうか。訳語を併記するわけにもいかないですし…。
教授—— それは、あなたの考え方しだいです。私も状況に応じて方針を使い分けていますが、使い分けの判断は容易ではありません。法律用語の中にも、定訳がほぼ固まっているものもありますし、かなりばらつきのあるものもあります。極端な例になるかもしれませんが、行政系統の最高裁判所である« Conseil d'État »は、いずれの辞典でも「コンセイユ・デタ」と訳されていますね。ですが、「国務院」という訳語も有力で、多くの人が用いています。このようなケースもあるのです。
法律用語辞典が刊行されたことで、翻訳者が正しい訳語に接近しやすくなったことは確かです。ですが、研究者として翻訳をする場合には、これらの辞典に書かれていることを鵜呑みにするようではいけません。訳語選択の判断は、それ自体、研究者としての態度決定を外部に表明することに他ならないからです。その決断をするのは、あなた自身なのです。
学生—— はぁ〜、一つの言葉を訳すことにそれほど深刻な葛藤があったのですね。翻訳するのが少し怖くなってきました…
教授—— やや大げさだったかもしれないけれど、そのような覚悟をもって大学院での研究を進めて欲しいと思います。
学生—— はい、ご指導有り難うございました!
(続く)