ルソーとともに現代の諸問題を考える

動物と動物性、セクシャリティー、環境をめぐる研究の人間学的展望

ジャン=リュック・ギシェ

坂倉裕治(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)抄訳






*本稿は、2015年12月11日に立教大学で行われた講演の原稿を、およそ半分の量に圧縮した抄訳である。


現代社会で論争の的となっていることがらと、過去の著述家を結びつけることには、なにがしか懐古的な幻想があるかもしれません。研究者が恣意的に特定の著述家をもちあげることもありえますから、簡単に信じるわけにはいきません。けれども、著述家を再評価することが正当であるばあいもあります。たとえば、スピノザを現代の神経学と結びつける論があります。いきすぎたやりかたで過去の著述家を現代に生かそうとしたり、現代と過去の著述家との間の相違や断絶を消し去ったりしてはなりません。むしろ、私たちが慣れ親しんでいる規範やものの見方とかけはなれているからこそ、私たちが自分自身について距離をおいて見てみたり、私たち自身の世界をより深く理解したりすることを可能にしてくれるような著述家もいるのです。この点で、古代ギリシアの著述家、そしてルソーには豊かな実りが期待できます。特にルソーをとりあげる理由をいくつか述べてみましょう。

第一に、ルソーの作品は、批判的な性格を強くもっています。特定の領域に閉じこもることがないという意味で、ルソーは体系的ではありません。しかし、ある種の一貫性をもっているという意味では、一般に考えられている以上に体系的です。自身で述べているように、ルソーは読者にすべてを説明するのではありません。むしろ、読者に刺激を与えて、テクストの先にあるものを読者が追い続けるように誘っているようなところがあるのです。

第二に、ルソーが好んでとりあげるテーマを通じて、時代を先取りしてルソーが論じた問題の多くが、今日、私たち自身にとって大きな問題となっています。ルソーが活躍した18世紀を通じて、アンシャン・レジームと呼ばれる古い体制がひっくりかえり、まさに新しい時代がはじまりました。

第三に、ルソーの人間学に焦点をあてる理由は、同時代のほかの著述家たち以上に、ルソーにとって、さまざまな問題が直接的間接的に、人間を問い直すことにつながっていたからです。この点に、ルソーの時代にうまれた、近代性を見ることができます。

もちろん、ルソーを不適切なやりかたで現代に生かそうとしてしまう可能性もあるので、注意しなければなりません。これから、個別の問題をとりあげることで、どのような範囲であれば、ルソーを現代に生かすことが正当であるのかを考えていきたいと思います。

ダーウィンの進化論、遺伝学のような科学の飛躍的な進歩や、現代にいたる歴史的変化について、何も知らない著述家に、私たちはどのようにして信頼を置くことができるのでしょうか。ルソーを現代に生かす適切な範囲を見定めるという作業は、二つの評価基準の微妙なバランスを問題とすることです。一つめは、ルソーの思想を忠実にしっかりと理解するということです。二つめは、18世紀という過去に生きた人の思想を私たちの世界にあてはめたときに、実り豊かな思考ができるかどうかということです。この二つの評価基準は、必ずしも対立するわけではありません。これまで私自身が研究してきた、動物と動物性、セクシャリティー、環境という三つの問題について、考えてみましょう。私が選んだ三つの問題はすべて、人間との関係で論じられています。すでに述べたように、私自身がルソーにもっとも関心を寄せるのは、この著述家が人間について語っている点なのです。



はじめにとりあげるのは、動物と動物性をめぐる問題です。ルソーを中心に、18世紀を通じてこの問題がどのように扱われたのかということが、私の博士論文のテーマでした。動物をめぐる問題は、この時代の流行りテーマともいえるもので、自然学者、哲学者、小説家、神学者、そしてシャルダンのような芸術家が、折にふれて言及していますし、時には激しい論争を引き起こしました。デカルトの動物機械論いらい、マルブランシュやヤンセン主義者たちを経て、動物をめぐる議論は、もっとも激しい論点の一つとなったのです。論争にかかわった人たちのなかには、生気論者、機械論者、神による世界の創造を支持する人々、唯物論者、二元論者と、人間について異なった理解をする人たちがいました。動物をめぐる問題は、啓蒙時代と呼ばれる18世紀を通じて、爆弾のようなものになっていて、それについて語ることにはリスクがついてまわりました。

動物をめぐる問題と人間をめぐる問題との関係に注目しながら、ルソーにたちかえりましょう。動物をすかしてみたとき、つぎのような問いが出されます。人間は、自然にかなった被造物、つまり、偶然に組み合わせられた物質からなりたっている、ある種の動物、自然の階梯のなかで、ほんの少しだけ発達した動物にすぎないのでしょうか。あるいは、形而上学的にみて、人間はほかの被造物とは区別されるもので、ほかの運命をめざすように定められたものなのでしょうか。いうまでもなく、唯物論者であれば、人間はある種の動物だという、キリスト教とは対立する立場に立つでしょう。神学者やデカルト主義者であれば、人間には他の動物とは異なって、尊厳と自由があるのだと主張するでしょう。ルソーは、人間に、自由意思と、完成へと向けて自分を改善する能力を認めています。ところが、このような人間の特殊性は、必ずしも人間と動物との間に断絶を設けることなく主張されているのです。実際、ルソーは経験論者にならって、人間は、自己愛を基盤として苦痛を避け、快楽を求めて行動する存在だと考えます。またルソーは、ライプニッツにならって、人間に認められるものは動物にも認められる、しかし、完成へと向けて自分を改善する能力は人間にだけ備わっていると考えます。純粋な自然状態に生きる人間は、動物よりも低い水準にあるけれども、この完成へと向けて自分を改善する能力を用いることで、動物の上位に立つことができるのだと主張します(このような考え方は、ラ・メトリにもみられます)。たとえば、憐憫の情は、苦しんでいる人の立場にたって、その苦しみを我が身のこととして感じる想像力と、自己愛という動物的な感情とが組合わさったものです。このように、ルソーにとって、人間と動物の関係は、同時に連続性と断絶とをあわせ持つものなのです。道徳は人間だけにかかわるもので、動物が良心を持つことは、はっきりと否定していますし、自然状態における憐憫の情には道徳的な価値が与えられていません。その一方で、人間が動物に対して払うべき道徳的義務について、ルソーが『人間不平等起源論』の序文で言及している点は、強調しておきたいと思います。「動物はものを感じ取ることができるということによっていくらか私たちの本性とつながりをもっているのだから、動物が自然法(ドロワ・ナチュレル)にかかわりをもつにちがいないと判断できようし、人間は動物にたいして何らかの義務を負っているにちがいないと判断できよう。」

動物が自然法とかかわることを示す一方で、『ダランベールへの手紙』では、次のように断言しています。「動物は心と情念を持つ。しかし、誠実さや美しさといった厳粛なイメージが入り込むのは、断じてもっぱら人間の心だけである。」

現代では人間と動物の間の差異を完全に否定するような極端な論もありますが、ルソーの思想を参照することで、私たちは現代について、どのようなことを考えることができるでしょうか。一般に動物は、他の存在について配慮しないものですが、人間が動物に対して道徳的な配慮をするさいには、人間の側が、人間と動物とが本質的に同一であると感じて、動物に起こったことに対して無関心ではいられなくなることが必要です。ここに人間に特有の道徳がみられますし、このような自己の意識こそが、人間の良心を働くようにさせるのです。人間と動物の間に決定的な相違があることを否定することはできません。それでも、洗練されてはいないとはいえ、動物にも原初的な形で憐憫の情があることを、ルソーは認めています。動物の場合は、偶然にまかせてはたらく、ほかのものが苦しむことへの嫌悪感でしかありませんが、人間の場合は、想像力によってその働きが強められ、自分を意識することで働く範囲が広げられ、完成へと向けて自分を改善する能力のおかげで、道徳的で普遍的な水準へと自らを高めていくことができるという違いがあります。このような違いがあるとはいえ、動物にも憐憫の情があることを知ることによって、私たちが動物たちに対していだく憐憫の情はいっそう深まるのですし、人間と動物はいっそう近しい存在となるのです。ルソーの立場が興味深いのは、現代にあっては、相いれないものとなっている二つの対立する立場のあいだでバランスをとっていることです。つまり、人間と動物との相違を完全に否定する立場と、動物に対して道徳的な関心を持つことじたいを許否する立場です。

pug-690566_960_720.jpg



セクシャリティーの問題についても、同じような立ち位置を認めることができます。この問題は、ルソーが生きた啓蒙の時代には、はっきりと外にあらわれたものでした。ところが、現代ではこの問題は、私たちの時代に新たに獲得されたものとみなされています。たとえば、フロイトをはじめとした精神分析学がもたらした知見があります。道徳的政治的な観点からは、とりわけ、女性、同性愛者、障害をもった人たち、高齢者たちなどをめぐって、セクシャリティーへの権利が論じられています。18世紀においては、なによりも、キリスト教教会と教会が掲げる道徳を自然に反するものと考え、戦いをいどんだ、ルネサンス以来のリベルタンの伝統をひきついだ、唯物論者たちの論が注目されます。この論争のなかでは、セクシャリティーの重要性は過度に誇張されていました。たとえば、ラ・メトリ、ディドロ、ビュフォン、エルヴェシウスの主張です。社会的な抑圧から解き放たれた、その意味で「自然にかなった」とみなされる、性の楽園のテーマについては、旅行家のブーガンヴィルが描いたタヒチの神話が有名ですし、この神話をディドロはふくらませました。さらにルソーの後には、サドが現れます。このような当時支配的だった立場とは異なって、ルソーは人間のセクシャリティーを、自然と文化の両面から論じました。動物についての議論についても認められたことですが、ルソーの思想の興味深い点は、自然と文化を異なる水準にあるものとして区別することです。純粋な自然のただなかにあって、動物たちにとってセクシャリティーは、それほど強いものではありません。こんにち、セクシャリティーがもっている重要な意味は社会がもたらしたもので、自然にあるものではありません。そこには、社会の中で生じるものが結びついています。想像力、競争、利己愛のために、他人の目を気にかけることで陥ってしまった自己疎外です。愛する人を獲得することそれ自体よりも、相手を獲得することで満足させられる虚栄心が、いっそう重要なものとなってしまったのです。そのうえ、度を越えてセクシャリティーを重んじることは、主に上流階級にみられることで、性を解放することとはほど遠いものでした。この点については、サドがたくさんの例を示してくれています。さらに、この文脈での愛には、感情はかかわっていませんでした。ビュフォンから引用します。「愛によいことがあるとすれば、肉体についてだけで、精神にはなんの価値もない。」ルソーは、同時代の多くの著述家たちと正反対の主張をしています。ほんものの愛と崇高なセクシャリティーは、小説『新エロイーズ』ぜんたいのライトモチーフになっています。セクシャリティーそれ自体がもっともはっきりと論じられているのは、『人間不平等起源論』の第一部です。自然にかなった欲求は、それがみたされるとたちまちに消え去ってしまいます。

このように、精神的要素を取り除いてしまうと、愛をめぐって人々が争うに値するようなものは、肉体についてはなにもないのだとルソーは主張します。ビュフォンの主張をひっくりかえした格好です。さらに興味深いことは、だからといって、ルソーがセクシャリティーを過度に低く評価したわけではないということです。同時代の多くの思想家たちが、この問題を狭く快楽の問題に閉じ込めてしまっていたのとは異なって、ルソーはセクシャリティーをそのありとあらゆる広がりのなかで考え、その重要性を意識していました。自伝の『告白』では、自らのパーソナリティーの形成に決定的な役割を果たしたことが記されています。また、『人間不平等起源論』では、純粋な自然状態のなかでほとんど動物と区別できない存在だった人間が、現在のように社会のなかで生きる存在となるまでの変化を描くとき、大きな役割を演ずるのは、単なるセクシャリティーが愛に代わり、夫婦の間に強い絆が結ばれることです。「先駆者という幻想」に陥ることには気をつけないといけませんが、社会が形成されるきっかけをセクシャリティーにみるルソーは、フロイトや現代の社会学者、人類学者をとびこえて、強い性的衝動について分析したミシェル・フーコーを思わせるものがあります。


第三の問題、環境についてみてみましょう。18世紀には、たんに、自分たちをとりまいている身近な自然のことが問題とされていたのでして、こんにちのように、地球全体の自然環境を問題にしていたわけではありません。この身近な自然という意味での環境をめぐって、18世紀に思想の転換がみられました。とくに、モンテスキューが展開した環境にめぐる議論が、当時さかんであったさまざまな議論を取り込む形で、決定的な役割を演じたのです。人間にとって環境が決定的に重要であることを再認識することは、もはや形而上学によって天上界へと登っていくことではなくなり、現にある地上の問題となったのです。現代とは異なる意味ですが、18世紀における環境決定論について語ることができますし、それは時代錯誤ではありません。

しかし、18世紀における環境決定論は、人間の自由を極端に狭めるものだったので、激しい反論を招きました。その矛先は、とりわけ、モンテスキューによって修正を加えられた風土決定論に向けられました。その先頭にたったのは、エルヴェシウスとヴォルネーでした。ヴォルネーは、『法の精神』の記述に、きびしい疑問を投げかけました。『エジプト、シリア旅行』という作品から引用します。「暑い国とは何を意味するのか? どこに寒い国との境界線を引くのか? それをモンテスキューに教えてもらいたいものだ。そうすれば、どのくらいの気温があれば、とある国民の活力を決定することができるのかがわかるようになるであろう。寒暖計が何度をさせば、とある国民が自由を渇望するのか、あるいは隷属を渇望するのか、認識できるようになるだろう。」

しかし、風土決定論に反対する人たちでさえ、外界が人間に及ぼす力を認めざるを得ませんでした。風土はそうした外界の影響の一部にほかならないというだけのことです。エルヴェシウスにとっては、より重要な影響力を及ぼすのは、社会と教育でした。

この点で、ルソーは風土の影響を認めていました。それがきわめてはっきりとみてとれるのは、「文明に及ぼす風土の影響」と題された断片です。けれども、ルソーは風土の影響を過度に評価することはなく、むしろ、人間の自由に決定的な役割を与えました。というのも、ルソーによれば、外界の状況は、完成へと向けて自分を改善する能力に含まれている力を、強めたり弱めたりすることはできますが、力そのものを作り出すことはできないからです。そのうえ、外界が及ぼす影響力は、人間や社会が及ぼす影響力によって、相殺されます。ルソーはさらにすすんで、決定論をそれまでにない形で用いることによって、新境地を開こうとします。ルソーが「賢者の唯物論」とか「感覚的道徳」という名を与えて構想していた作品です。これについて、自伝『告白』から引用します。「よく知られていること〔環境決定論〕を証明するために本を書くつもりはない。私のねらいは、もっと新しく、もっと重要なことにある。それは、この振動〔主体が弱いために自我が定まらないこと〕の原因を探求することであり、私たちが自分で自由にできる振動と一体となることである。そうすれば、自分をより善良なものとし、もっと自信をもつことができるようにするためには、私たちは、どのように振動を自分自身で方向づけたらよいものかを示すことができるただろう。」

ルソーはこの計画に真剣にとりくんでいましたが、作品が完成されることはありませんでした。もし、私たちをとりまく事物、感覚、気温といった環境が、ほんとうに私たちのありようを決定づけているというのであれば、諦めたり絶望したりするのではなく、環境を前にした主体の弱さを逆手にとって、環境に働きかけることを通じて、各人が自分に働きかけ、自分をよい方向に向けて、道徳的能力を強めようとするものでした。この計画の最善の例は、小説『新エロイーズ』で描かれる、エリゼと名づけられたジュリの庭です。クラランにあって、ここに立ち入ることを許されるのは、きわめて限られた人たちだけです。そこに集められた木々は、まったく自然のままであるかのように見えながら、実は魂に及ぼす影響にいたるまで、すべてが計算しつくされ、人為的に配置されたものです。金網もないのに、鳥たちはこの庭にとどまっています。

もちろん、ルソーの関心の焦点は、自然それじたいよりも自分にむけられています。それは、自然を守るために私たちがかかえている今日的な懸念とはかけはなれたものに見えます。地球規模での自然破壊は、産業革命以後の問題で、ルソーの時代には存在しませんでした。ダーウィンの進化論と結びついて、19世紀の後半になってあらわれた政治的な環境保護論を期待するべきでもありません。ルソーの環境保護論は地球全体ではなく、身近な地域に限定されていて、科学的というよりも実践的なものでした。

こんにち見られるような、完成された環境保護論がルソーに認められないということは重要ではありません。現代の科学的で客観的な環境保護論も、自然に主観的な関心を向けるという基盤なしには、成立しえなかったからです。自然環境に対して人間がもつ感受性、自然の美しさに対する芸術的感情、風景、野生動物、海などの自然と自分とをつなぐ主観的な感情といったものが、その基盤となっているのです。自然の美しさにはまったく無関心で、すべてが人工的にあつらえられたなかで生きることを選ぶような人類というものを仮説的に想像してみれば、このような主観的な感情なしには、自然破壊が自分自身にふりかかってくることを痛感することができないことがわかるでしょう。美しい自然や、自然界に存在するさまざまな存在の調和ある関係を描くことでルソーが私たちにかきたてるものは、自然を守るために必要不可欠な、心理的な基盤となりうるものです。

動物やセクシャリティーの問題をめぐっても認められたことですが、ルソーにとって人間は、ほかのものと切り離された存在ではなく、身体、情念、自然と深く結びついて生きているのです。


ここまでお話をすすめて参りますと、冒頭で立てた問いに答えることができるように思います。ルソーの思想をもちいて現代の問題を考えることが、適正で実り豊かであるためには、次の三つの条件が必要です。第一に、ルソーの思想を精密に読み解くにあたって方法論的に必要なすべてのことを守るということです。第二に、ルソーの思想を直接に現代の問題に当てはめるのではなくて、あえて、回り道をするということです。間接的なやり方のほうが実り豊かであることを、私がお示しした例によってご理解いただけましたら幸いです。第三に、ルソーから示唆を受けるにしても、読者の自由な解釈の余地が残されている必要があります。ルソーのような豊かな思想家を一部の専門的な研究者のサークルのなかに閉じ込めてはならないでしょう。たしかに、私たちにとって大きな意味をもっている、学問や技術の進歩、歴史的事実、人口問題や環境問題について、ルソーは知るべくもありませんでした。それにもかかわらず、ルソーは、私たちが生きる現代の世界の根っこにある基盤の選び方について、光をあててくれます。ですから、ルソーの思想を参照することで、私たちの世界の基盤の選び方に、疑問を投げかけることもできます。たとえば、環境問題についても、自然を破壊しているのが人間の意思であることを、『エミール』の冒頭で次のようにはっきりと述べています。「ものごとの作り手の手をはなれるときには、すべては善いものである。人間の手に落ちると、すべてが損なわれてしまう。(…)人間はすべてをひっくりかえし、すべてを歪める。人間は奇形や怪物を好む。なにも自然がつくったままにはしておかない。人間についても同じことである。」しかしまた、ルソーは「賢者の唯物論」によって、自然に賢く働きかける可能性もあると考えていました。問題に対する根源的な問いかけと、問題に対して示しうるさまざまな回答の間の均衡をとるバランス感覚とが、同じ一つの思想のなかに結合しているのは、そうそう見られるものではありません。ですから、ルソーの思想を今日の問題に慎重にあてはめてみるならば、私たち自身と、私たちの世界について、しっかりと反省することもできるのです。もちろん、すべての問題にルソーが有効だなどと主張するつもりはありません。ただ、単にルソーについて考えるのではなく、ルソーとともに考える方がよりよいのだと申し上げたいのです。


〔訳者解説〕ジャン=リュック・ギシェ (Jean-Luc Guichet) 氏は、1957年生まれ。パリ第10(ナンテール)大学で哲学士(1978年)、文学士(1979年)、法哲学修士(1979年)、パリ第4(ソルボンヌ)大学で哲学博士(2000年)の学位を取得。アグレジェ教授としてリセ(高校)の最終学年の生徒たちに哲学を講じるかたわら、2003-2004年セルジー=ポントワーズ大学で法哲学の非常勤講師、2004-2010年国際哲学コレージュでプログラム・ディレクターもあわせてつとめ、2011年、ボーヴェ教職大学院准教授(教育哲学)に就任。同校は後に高等教育機関の統合によりピカルディー、ジュール・ベルヌ大学に付設となっている。2014年、アミアン大学区の共通基幹科目群の運営責任者 (Directeur du département Tronc commun) に就任。同科目群は、科目を担当する大学教員にくわえて、頻繁に視学官や実務経験者などをゲストに招いて、同大学区内にある3校の教職大学院と各大学にまたがって多彩な学科横断的な科目を展開し、将来教職をめざす学生に基礎教養を授けようとするもので、大学改革によって新たに導入されたばかりの教育領域である。主な著書に、『コンディヤック「動物論」』(Ellipes, 2004 学生向け解説本)、『ルソー、動物と人間』(Cerf, 2006博士論文の出版本)、『動物をめぐる問題』(PUF, 2011) がある。この他6件の国際シンポジウムを組織運営し、報告書を監修している (最新の成果に、『性をめぐる問題、ルソーの著作と思想における性の問題を問う』Classiques Garnier, 2012) がある。



2016/04/17

このページのURL:

管理:立教大学文学部 桑瀬章二郎
本ホームページの記事、写真、イラストなどの著作権は立教大学文学部桑瀬章二郎または、その情報提供者に帰属します。無断転載、再配信等は一切お断りします。