ケ・ブランリ美術館――人類学、ミュゼオロジー、名称について

アレクサンドル・マンジャン(立教大学文学部助教)
池端光訳(立教大学文学研究科前期課程2年)

2006年6月20日、シラク大統領[1995年から2007年まで共和国大統領]の主導のもとで開館したケ・ブランリ美術館は、人類博物館[1]と国立アフリカ・オセアニア美術館[2]の充実したコレクション[3]を統合することで、記念碑的建造物を生み出そうとする指導者たちの大規模な政治プロジェクトの系譜に、新たなページを加えた。アラブ世界研究所(1987年)[4]、ルーヴル美術館のピラミッド(1989年)、オペラ・バスティーユ(1989年)、ラ・デファンスの新凱旋門(1989年)、新国立図書館(1996年)といった数々のプロジェクトを実現したファラオのごとき存在、フランソワ・ミッテラン[1981年から1995年まで共和国大統領]の後で、ジャック・シラクは自らの存在を、記念碑的建築によって空間の中に、さらに知の象徴となるものによって時間の中にも刻み付ける必要があったわけだ。こうした背景から計画されたのが、パリのレ・アール市場改修(2005~2016年)と、ケ・ブランリ美術館であった。この二つのプロジェクトが選ばれた意味は決して小さくはない。恐らく長時間にわたる議論の末に選択されたものであった。

それでは、ケ・ブランリ美術館とは一体何なのだろうか。名称は何に由来するのか。それは私たちに何を伝えようとしているのか。どのような思潮や傾向から生まれたものだろうか。設計にジャン・ヌーヴェルが選ばれたことは何を示しているのか。その独自性はどのように表れているのか。つまり、一言で言うならば、そのミュゼオグラフィ(形式)と企図(内容)は、今あるがままのかたちで受容可能な意味を有しているのか、あるいは私たちに新たな解釈の枠組みを要求するものなのだろうか。

これらの問いに答えるため、(1.)この美術館の持つ意味と、(2.)その意味の解読に有効と思われるミュゼオグラフィの二つの側面から考察してみることにしよう。

1. ケ・ブランリ美術館の有する意味
この美術館についてはあまりに多くの問いと検討を必要とするため、本章では(A)名称の問題と(B)支援についての二点に絞って考察する。

A/名称の問題
あらゆる美術館の名称は、1)固有名詞(最も多いケースで、例えばオルセー美術館)と、2)扱う分野(例えば19世紀美術館)から成り立っている。それでは、この美術館の場合はどうだろうか。

1)名無しの美術館

01face.JPG

まず頭に浮かぶのは、固有の名称もアカデミックな対象も持たない美術館という印象である。この施設は、エドゥアール・ブランリ(写真参照。リヨンの技術高等学校は彼にちなんで名づけられた)[5]に捧げられた「ブランリ美術館」ではなく、「ケ・ブランリ美術館le Musée du Quai Branly」なのだと理解しよう。これは河岸quaiの美術館であり、創設者(例えばギメ美術館le Musée Guimet)によっても、扱う対象(例えばリヨン美術館le Musée des Beaux Arts de Lyon)によっても定義されておらず、美術館自体の立地である河岸をその名に冠しているのだ。パリには川が一つしかないため、この名前から、土地勘のない者でも容易に美術館を見つけることができる。と同時にケ・ブランリ美術館は、この名称を持つことで、中世からルイ13世を経て、とりわけオスマン以降に顕著になった、パリを西欧のシンボルとする都市計画の中に組み込まれている。フランソワ・ミッテランは、革命以来計画されていた首都パリの巨大な軸線(とくにシャンゼリゼからラ・デファンス間)に気を配りつつ、秘教的・フリーメイソン的な象徴に熱中し、それらを自らのプロジェクトに大いに盛り込んだ人物であるが、当時パリの博物館化の最中で、その切り回しにそれほど余裕のなかったジャック・シラクにとって、偉大なモデルとなった。

2qb.JPG

美術館はその立地により、自由さ、つまりアクセスの容易さと、象徴性という二つのアドバンテージを獲得できている。というのも、セーヌ川に沿うように長く比較的幅の狭い(あるいはそう見せかけている)建物の構造によって、この施設は川の一部となり、まったく異なる数々の文化を一本の流動的な流れに結びつけるという象徴性を獲得しているからだ(写真参照[6])。

ただし、2016年6月20日に「ジャック・シラク美術館」[7]と改名されたことで、名称の曖昧さは修正された。通常、創立者の名前というのは死後の称号として施設に与えられるのが習わしだが、今回は珍しくその存命中に行われている。

2)不明確な機能
パリを訪れる外国人は驚くかもしれないが、ケ・ブランリ美術館は、展示品について言葉で説明して驚かすような演出は控えている。訪れる人々が素朴に発する言葉で解説するよりも、むしろ写真に語らせようとしているのだ。それでは、この美術館は一体何を扱う施設であろうとしているのか。公式の説明によれば、シラク大統領がこのプロジェクトを開始した当時、美術館に「原初のアートdes Arts premiers」という別称をつけるかどうかが問題になっていた。もしこれが採用されていれば、シラク思想の「時系列」的傾向を裏付けるものとなっていただろう。シラクは、地理(アフリカやオセアニアの文化など)や民族誌学(いわゆる「原始」文化民族誌博物館や部族工芸美術館)よりも、むしろ私たちの文化に先んじて生まれた数々の文化について語りたいようである。今日、民族誌学というものは植民地主義的なコノテーションを含み、その刻印を押されていると考えられているが、このことについて真実なのはごく一部分のみで、フランスの民族誌学者、民族学者、人類学者の研究のほぼ全てが、植民地主義を支持していない。

最終的に採用されたのは「アフリカ・アジア・オセアニア・アメリカ文明美術館Musée des arts et civilisations d’Afrique, d’Asie, d’Océanie et des Amériques」という呼称だが、これは必ずしもあらゆるところに使われているわけではない――まずは公式サイトで使い始めるべきだろう――。一方、「文化が語らう場所Là où dialoguent les cultures」というスローガンは、サイトのみならずあらゆる文書に掲載されることになる。この語句は、一体どのような文化について語るのか、という逆説的な問いを提起するが、この点については後ほど改めて検証する。クロード・レヴィ=ストロースが見てきたような、グローバリズム的西欧資本主義の絶え間ない打撃によって消えていった数々の文化なのだろうか、あるいは今日のグローバルな文化なのだろうか。複数の文化同士が語らうために必要なのは、(これは明らかだが)まず文化、そして、一つに融合するのではなく、(力よりも)権利の面で平等に語り合いたいという欲求であろう。

B/支援について
公式サイト上に見られる協賛者一覧も、問題を明確に示している。メセナやスポンサーが、貢献の度合いによって複数のカテゴリに分けられているのだ。大きく分けてメセナと寄贈者の二つのカテゴリがあるが、ここでは寄贈者については割愛する。メセナというものは、さらに六つのカテゴリに分類される。

1. 創設に関わった人物あるいはグループによるメセナ(ペルノ・リカール、アクサ、シュナイダー・エレクトリック、フランスガス公社、EDF、イクシス―CIB―ケス・デパーニュ・グループ)
2. 企業メセナ(ユーロRSCG、ソニー・フランス、イッセイ・ミヤケ、ヴェオリア・エンヴァイロメント、LVMH、トータル、ネスレ等)
3. 企業のクラブによるメセナ(タレス、ブイグ建設・イル=ド=フランス、富士フイルム・フランス、HSBCフランス等)
4. パートナー企業(メルセデス・ベンツ、ソフィテル、ルノー、エリオル等)
5. ケ・ブランリ美術館友の会
6. 個人によるメセナ

個人によるメセナと友の会についても割愛する。協賛者として名を連ねているHSBC(誠実かどうかは疑わしい)や、トータル、ネスレ(環境破壊に加え、土地資源や貧困国の労働力を搾取してきた)は、きわめて資本主義かつグローバリズム的な企業であり、繊細な文化の保護者という存在からはかけ離れているため、私たちは疑問を抱かずにはいられない。イデオロギーに関する問いについては、後ほどもう少し詳しく見ていくことにする。

2. 美術館の意味解読のためのミュゼオグラフィ
本章では、(A)設計者の選択と、(B)美術館がいかに利用され、いかに利用されうるかという点について検討する。

A/ジャン・ヌーヴェルとミュゼオグラフィの舞台美術
1)美術館と舞台芸術
1999年、この革新的なプロジェクトの指揮に選ばれたのは、リヨンオペラ座の改修(1993年)というよりも再構築で知られるジャン・ヌーヴェル[8]であった。現代建築にとくに関心のある方はご存知かもしれないが、念のためここで、彼の設計によるオペラ座とケ・ブランリ美術館との並置から連想される思考の道筋を記しておこう。まず衝撃的なのは、内装の大部分に使用された黒である。オペラ座では、この黒色が受付ロビーを「第二の部屋」に変え、俗界と幻想界の境界を少し曖昧にしている。これは、1996~1997年のストラスブール国立劇場附属演劇学校(内部を黒く塗った兵舎[ストラスブールの旧軍事学校の兵舎]を一時期校舎としていた)や、リヨン国立高等演劇技術学校[9](客席入り口に二重扉の真っ暗な空間があり、幻想世界と明るい舞台とをつなぐ)における演出と同様の意図に基づいている。

同じく驚かされるのが、トンネルのように天井の低い空間で、これは二つの世界の分離la disjonctionではなく結合la jonctionをさらに強化している。オペラ座の階段の黒く滑らかな表面がもたらす印象は、生物の内臓を連想させ、美術館の「まがりくねったスロープ la rampe sinueuse」[10]の「ネガ・バージョン」と言えそうだ。このスロープは、美術館の中庭と常設展示室をつなぐ、またもや螺旋状の腸のたぐいである。「蛇行した道のつぎに狭く暗い通路を通っていただくことで、明るい都市世界から、開拓すべき神秘の空間へと容易に移行できるでしょう。これらはすべて、設計者ジャン・ヌーヴェルが皆さまをもう一つの世界へお連れするために考案したものです。」[11]この記述は、アーノルド・ヴァン・ジュネップが理論化したような通過儀礼の中心的段階に対応している[12]

常設展示室(「コレクション・プレート」)は細長い形をしていて、その上に張り出した企画展示室につながっており、左右に土壁を模した高い壁のある通路がこの空間を横切っている。この背骨のような通路は、側面にある切れ目から様々なセクションにつながっているが、そのひとつひとつは部屋と呼べるような区切られたスペースではない。

最後に、改装された、もしくは最近建てられた「大」美術館によくみられる細かい点として、上着やリュックサックを預けるクロークでは若い従業員が対応してくれるが、彼らはあらゆる点において、劇場で客の「応対」やチケットもぎりをする学生を思わせる。

演劇や演劇学校の世界についていくらか経験のある筆者には、この美術館が自らを、文化のチェス盤[13]のひと駒として位置付けていることは明らかである。私たちを茫漠とした夢の世界へ連れて行くために、装飾やオブジェを用いたバロック様式に則ってプレイしているわけだ。ケ・ブランリ美術館は、ただの保管倉庫や純粋な大学用ツールではない。この美術館――そもそも、物事を明らかにし、意味を付与することを目的とした施設――が与える、あらゆる指標を曖昧にしようとしているような印象は、その否定しがたい魅力とは反対に、私たちを少なくとも当惑させるものである。

2)美術館とその深層の意味
日本にまつわる収蔵品は少ないが――日本のコレクションはギメ美術館に集まっているからだ――ケ・ブランリ美術館が理想を実現するためには、それらも展示する必要があった。その理想とは、書かれたもの、口承のもの、また大衆的なもの、エリート的なものを問わず、できる限り多くの文化を、ひとつの同じ図面上に描き出すということである。シラク大統領が述べている通り、「ケ・ブランリ美術館は、人民におけるヒエラルキーと同じく、芸術におけるあらゆるヒエラルキーを拒絶する。」[14]ここでは、唯一ヨーロッパ文明だけが、「暗黙の」定義上排除されている。この美術館のイデオロギーの考案者にとって、ここはヨーロッパ文化を除くすべての文化の集まる場所でなければならなかったのだ。

民族誌学を語ることは、人類学を語ることであり、きわめて個別的な物事を一般に移し替えるということである。民族学者と人類学者は、国家や国民の利益といった話題についてひたすら沈黙を貫き通すことで、自らが政治的に道を踏み外さないということを示していたのに対し、クロード・レヴィ=ストロースはしばしば、ほとんど偶然に、自分が限度を越えそうになっていることに気付いた(もっとも、私たちを怒らせるためではなかったらしいが)。ここで明らかなのは、あらゆる境界線の除去、つまりある集団の「私たち」とその他の人々の間のあらゆる相違を消し去ろうと望むことが、パティキュラリズムに対抗するイデオロギー、つまりグローバリズム思想の中に身を置くことを意味する、という事実である。この思想は、多様な民族をひとつのメルティング・ポットに溶かし込むことを推奨しているが、このポットは機能しないだけでなく、運命の皮肉か、意義や希望、秩序を持ったグローバリズム思想の伝統の大部分から切り離された、「民族の上澄みすくいla décantation ethnique」と呼ばれるものに成り果てていることがわかっている。レヴィ=ストロースが見てきたブラジルの部族は、筋の通った独創的かつ美しいさまざまな世界観の破壊をほとんど執拗に推し進めた政府や多国籍企業、サレジオ会宣教師たちの経済活動により、大衆文化を押し付けられ、かじり取られていった[15]。これらの部族が(消滅したと言わないまでも)すっかり変わってしまったのは、現在の西ヨーロッパにおける政治的・文化的エリートたちの思想(反人種差別、強制混血など)の源流となっている、西欧世界において支配的な公式のイデオロギーのせいである [16]

「植民地主義者」や「人種主義者」のレッテルを貼られることへの恐怖心は、ヨーロッパ中の博物館館長、助成を受けた研究プロジェクトのリーダーなどのあらゆる行動に染み込んでいる。こうした恐怖によって麻痺してしまった彼らは、薄氷を踏む代わりに沈黙を守り、学問が古文書にまみれた過去の古聖所へ飛び去っていくのを、黙って見ているのである。

私たちの扱うテーマに戻ろう。そもそも、発展性のある主題を取り上げる(あるいはむしろ、助成システムに支えられた)「政治的に正しい」民族誌学研究に比べ、民族学・人類学の名にふさわしい研究を行うということは途方もないことであったため、ケ・ブランリ美術館が選んだのは、展示品のすべてを、美術品だけでなく、何らかの目的に用いられるもの(道具や祭具など)、そして美術館の別称(「原初のアート」)の元となる、ただひたすら芸術的な作品で構成することであった。すべては、モノの「芸術的な」次元に還元される[17]。織物はアートであり、呪いの人形はアートであり、ランプはアートである。こうして展示品の美しさにオマージュを捧げることで(実際その多くは非常に美しい)、この美術館では、第三世界の賛美という(偽善的な?)義務が果たされたと考えられている[18]。ただし、スポンサーたちの根底にあるものは、まさにアフリカを依存状態に、むしろほぼ永久的な幼児状態に留め置いている二重構造の体制である[19]。ここで、以下のような明らかな矛盾に行き当たる。公式的な反人種差別体制が多国籍企業による植民地化を支持しているのに対し、(昔風に言えば)民族学者や人類学者、民族差異化主義者たちは植民地主義の敵対者であるということだ。しかし、こうしたことはすべて事実であり、検証も可能なのである。

それでは、美術館の来館者がどのようなものか見ていこう。

B/美術館の利用
この美術館は実際、さまざまな基準から作品を鑑賞できるよう、実によく考えられている。ここではまず手短に美術館の設備を概観したのち、研究者による利用についてまとめる。

1)丁寧に整備され「完全に開かれた」美術館
一般に、ミュージアムショップの重要性が強調されることはあまりない。ケ・ブランリ美術館のショップはこの点かなりよくつくられており、テーマごとに分けられたわずかなスペースに、きわめて多種多様な文献や商品が並ぶ。また、この細長い美術館のテーマ別のセクションにおいて、鑑賞環境は、入手可能な情報量と同等に重要なものと考えられている。オーディオガイド、幼い鑑賞者や観光客向けのテーマ別のアニメーションといったサービスは、この美術館をいわゆる大美術館の水準に引き上げている。さらに、レストランの併設は、このような文化的施設を、来館者、つまり心地よいひとときを求めてやってくる好奇心旺盛な住民や観光客にとって快適な場所にするという傾向を裏付けている。最後に、解説ビデオには非常にシンプルなものもあるが、中には研究者の関心を引く複雑なものもあり、ケ・ブランリ美術館におけるサービスの展望を完成させていると言えよう。

2)研究者による利用
メディアの公式発表ではきわめて慎重であるにもかかわらず(控えめすぎるとさえ言えるかもしれない)、この美術館は、情報を探しさえすれば必ず見つけられる場所である。ここには、2000年代以降西ヨーロッパの知的文化施設にみられる二元性、つまり、一方で「政治的に正しい」言説、もう一方で、研究者にはさらに簡単にアクセスできる、より現実に即した情報が存在するという二重性が存在する。実際、二つの博物館のコレクションが一箇所に集まったことで、研究者にとっては、その場でより容易に調査ができるようになった。また、遠方の研究者向けのサービスとして、公式サイトではデジタル化されたコレクションの大部分が無料で公開されている [20]

加えて、「博士論文賞」が毎年授与される[21]。もちろん、若手研究者へのこうした支援には、敬意を表すべきだろう[22]

最後に、この美術館の信頼性をより高めているのは、研究団体の受け入れである[23]。これにより、教育プロジェクトや、美術館と提携した研究プロジェクトなどの立ち上げも可能になっている [24]

しかしながら、美術館の原則を尊重するためにも、ひとつ残念な点を挙げておきたい(苦情の原因は料金の差ではない)。チケット売り場でのことだが、筆者の提示した日本の教員・研究者カードは、国外のカードが認められていないからという理由で拒否されてしまったのだ[25]。これが従業員のミスでないとすれば、複数の文化の語らいに価値を与えるという美術館としては、かなり矛盾した事態ではないだろうか[26]

結論:これは真の美術館か

この美術館がもはや時代遅れとなったイデオロギーに基づいて始動したことに、疑いの余地はない。しかし、そのような状態でも――「それにもかかわらず」と言ってしまいそうだが――、ケ・ブランリ美術館の展示は、国際基準からしても類稀な充実ぶりを見せており[27]、研究者や学生にとってすばらしいツールとなっている。

国内外の人々から愛されるこの美術館は、もし入館口がこれほど厳重に警備されていなければ、さほど努力せずとも、パリジャンにとっての「生活の場」となることを望むことさえできただろう。首都パリの中心ではかなり珍しい緑の庭園は、もっと知られるに値する内在的価値をすでに有している。現在フランスが経験している「大苦難」は今後数十年にわたって続く恐れがあるが、苦境を乗り越えた暁には、この建物を囲む庭が、一般に無料で開かれることが望ましいだろう。この庭は、市民の憩いの場、さらには瞑想の場ともなり得るかもしれない。ケ・ブランリ美術館のような突然変異的施設は、ジャンルや空間、機能をミックスする現代の世界的な傾向をよく表している[28]。私たちの世界とその体制は、諸民族の合意を得ずして、ブラジルと同様の図式に基づいて形成されつつあるのだろうか。これまで見てきたような社会的・イデオロギー的・ミュゼオグラフィ的現況は、いまだかつてないほど、私たちにこのような問いをつきつけている。

***********************



[1] 人類博物館(別名・国立自然史博物館)は、1882年創立のトロカデロ民族誌学博物館を引き継ぐかたちで、1937年に創設された。現在も開館しており、古文書学、先史学、生物・文化人類学の資料の充実に尽力している。
[2] こちらは既に閉館している。建物(ポルト・ドレ宮)自体は移民史博物館となっているが、こうした変化は政治的決定をよく表していると言える。
[3] 30万点の収蔵品のうち、3,500点が展示されている(出典:Stéphane MARTIN, Avant-propos du Guide du musée, p. 8, Paris, Musée du Quai Branly, 2008.)。ウィキペディアとケ・ブランリ美術館公式サイトには上記と異なる数字が記載されているが、おそらく2008年の上記ガイドよりも最近のデータを基にしているのだろう。
[4] アラブ世界研究所――元々はジルカール=デスタン大統領の主導によるものだった――は、ケ・ブランリ美術館と同じく、ジャン・ヌーヴェルとアーシテクチュール・ステュディオ事務所によって設計された。
[5] Edouard Branly(1844-1940年):ラジオコンダクションと無線遠隔通信の原理を発見した物理学者、医師。無線電信分野における先駆者の一人。
[6] 写真:© William Crochot / Wikimedia Commons / CC-BY-SA-4.0.
[7] http://www.lefigaro.fr/arts-expositions/2016/04/13/03015-20160413ARTFIG00275-le-quai-branly-rebaptise-musee-chirac.php
[8] Jean Nouvel(1945年生まれ):日本では、株式会社電通のタワービルを手掛けている。https://fr.wikipedia.org/wiki/Dentsu#/media/File:Dentsu.jpg
公式サイト : http://www.jeannouvel.com/
[9] パリの旧「ブランシュ通りの学校」である。1997年9月にリヨンの真新しい建物に移転された。このリヨン国立高等演劇技術学校(ENSATT)は、フランスにおいて唯一、演劇に関するあらゆる科目(演技、舞台美術、舞台技術、技術監督、音響、照明、劇作、演出、衣装、マネージメント)を教える演劇学校である。他の演劇学校(フランス高等演劇学校や、前述したストラスブール国立劇場附属演劇学校)が文化省に属するのに対し、唯一ENSATTは高等教育研究省の管轄である。
[10] 語句は以下より引用。Guide du musée, p. 21, Paris, Musée du Quai Branly, 2008.
[11] Guide d’exploration des collections, p.1.
[12] Arnold Van GENNEP : Les Rites de passage, 1909, rééd., p. 316, Paris, Editions A. & J. Picard, 2011.
[13] おそらくパリ市は、人々がまさしく劇場に行くようにケ・ブランリ美術館を利用することを望んでおり、ターゲットの客層も同じなのだと思われる(企画展「ペルソナ」に関する註を参照)が、これには心から賛同できる。
[14] Jacques CHIRAC, préface au Guide du musée, p. 6-7, Paris, Musée du Quai Branly, 2008.(強調引用者。)
[15] レヴィ=ストロースがとくに以下の著作の中で語っている。Tristes Tropiques, Paris, Plon, coll. « Terre Humaine », 1955, réimpr. Paris, Pocket, 2005.
[16] グローバリズム思想がフランス起源ではないことを強調しておく必要がある。こうした問題の詳細については、Pierre Hillardの著作を参照されたい。(例えば、La marche irrésistible du nouvel ordre mondial : l'échec de la tour de Babel n'est pas fatal, Paris, François-Xavier de Guibert, 2e éd., 15 mai 2013.)
[17] 現在公開中の企画展「ペルソナ」(2016年1月26日から同年11月13日まで)は、こうした傾向を非常によく表している。筆者が質問した従業員は展覧会の内容を説明できなかったが、パンフレットによれば、「この展示は、人々が自分たちを取り巻くモノとの間に織りなす関係を探るもので、私たちの日常にあふれる人工物と私たち自身との関連性を明らかにすることを目的としています」(Adeline COLONATによる「ペルソナ」展パンフレットより)ということだ。この展覧会は、多様な機能を持つモノをひたすら美的かつ概念的な視点から捉え、その美的価値を探ることを主眼としているようである。木などの素材でできたマネキンというかたちで表現された身体や、現代の真のロボットの存在を裏付けるような、いわばプレ・ロボット。ここでは、哲学は、ある明確な目標に集中すると同時に、イデオロギーの補佐役に回る。目標とはすなわち、現実の人々の現実の生活を想起させないよう、すべてを芸術的なものに還元することである。
[18] 「これは、長い軽視の歴史を断ち切ると同時に、あまりに長い間無視や無理解に苛まれてきた芸術や文明に正当な地位を与え、あまりに頻繁に辱められ抑圧され、時には傲慢、無知、愚鈍、頑迷によって根絶された人々に、あらゆる尊厳を取り戻させるということである。」Jacques CHIRAC, op. cit..
[19] もちろん、このプロジェクトに誠心誠意取り組んでいたであろうシラク大統領に、こうした隠れた意図のようなものを見出してはならない。
[20] 公式サイトでは、707,341点の作品を含め、929,918点の文書・美術品(彫像や衣服など)の説明を、多くは画像つきで閲覧できる。http://www.quaibranly.fr/fr/explorer-les-collections/base/Work/action/list/
[21] 「当館の研究教育部門は、西欧・非西欧の芸術、有形・無形文化財、博物館施設とそのコレクション、テクノロジー、そして有形文化といった分野の研究を奨励、支援しています。対象となる領域は、人類学、民族音楽学、美術史学、歴史学、考古学、舞台芸術そして社会学です。こうした目的から、毎年、学問的貢献と独創性においてとりわけ優秀な2つの博士論文に対し、出版補助費として総額8,000ユーロの論文賞を授与しています。」ケ・ブランリ美術館公式サイトより:http://www.quaibranly.fr/fr/recherche-scientifique/activites/bourses-et-prix-de-these/prix-de-these/
[22] 残念ながらまだ受賞論文の閲覧はできなかった。これが可能になれば、将来の研究につながると思うのだが。
[23] 「2006年末以降、ケ・ブランリ美術館は、それまで人類博物館に属していた5つの研究団体を受け入れています。これらの歴史ある学会は、各領域における研究の促進と知識の拡散に貢献するため、美術館内で多くの講演を企画し、定期的に研究誌や研究書を出版しています。」ケ・ブランリ美術館公式サイトより:http://www.quaibranly.fr/fr/recherche-scientifique/activites/colloques-et-enseignements/societes-savantes/
これらの学会とは、アフリカ学会、アメリカ学会、ヨーロッパ・アジア研究会、オセアニア学会、そしてフランス民族音楽学会の5団体である。
[24] ケ・ブランリ美術館公式サイト:http://www.quaibranly.fr/fr/si-vous-etes/education/、とくにhttp://www.quaibranly.fr/fr/si-vous-etes/education/developpez-votre-projet/を参照。中でも「芸術分野の研究者」がターゲットとなっているようだ。
[25] 公式サイトには、「教員・研究者パス:年間15ユーロ。現役または退職した教員および研究者の適用料金」「証明書類の提示が必要」とある。
[26] おそらく、海外で働く人の場合、教員として認可されるためには事前の来館予約が必要なのだろう。
[27] 公式サイトには、以下のような数字が載っている(常設コレクションの所蔵品数)。ヨーロッパ39,558点、アジア181,382点、アメリカ161,237点、アフリカ231,655点、オセアニア36,294点。http://www.quaibranly.fr/fr/
[28] この問題がとくにフランソワ・ラプラティヌの関心を引いたのは、問い自体の魅力と、彼の個人的嗜好も手伝ってのことだろう。


2016/09/23

このページのURL:

管理:立教大学文学部 桑瀬章二郎
本ホームページの記事、写真、イラストなどの著作権は立教大学文学部桑瀬章二郎または、その情報提供者に帰属します。無断転載、再配信等は一切お断りします。