PDFでの閲覧はこちら

特別寄稿研究論文
音楽とバレエ付き喜劇『ジョルジュ・ダンダン』の本来の魅力
―散文喜劇と韻文田園劇の融合―

榎本恵子(大妻女子大学専任講師)

1autumn-974882_960_720.jpg

序論

1668年7月18日ルイ14世主催のヴェルサイユ宮殿の祝祭「国王の大いなる喜び」でモリエールの『ジョルジュ・ダンダン』George Dandinが上演された[1]。4か月後の11月9日パリで初のお披露目となったが、その初日の公演は成功というには程遠かった。現在でも時折上演されるが、現代の演出では悲劇的要素を帯びた演出が多い。しかしこの作品は、農民でありながら貴族の娘と結婚した男が、野望は成就したものの、妻の不義を暴露し自分の身を守るための策略がことごとく先手を取られて逆に遣り込められる農民の滑稽な姿を描いた喜劇である。それに悲劇的人物は誰かと問えば、むしろ何の意見も聞かれずに結婚させられたアンジェリックであろう。またさらに言えば、すでに結婚してしまい、身動きの取れないジョルジュ・ダンダンとアンジェリックの状態こそ救いのない悲劇である。

本稿では、『ジョルジュ・ダンダン』がパリ公演初日に成功しなかったこと、現代において悲劇性がクローズアップされてしまう傾向にあることに着目し、それがどこに起因するのかを理解するために、この作品が1668年のヴェルサイユの祝祭のために作られたことから、この祝祭における位置づけ、パリとヴェルサイユ公演の違いを検証しながらモリエールが描いた『ジョルジュ・ダンダン』の本来の魅力を明らかにしたい。

2versailles-1030795_960_720.jpg

I. 1668年の祝祭「国王の大いなる喜び」

祝祭は「平和と戦争の間のつかの間の休息となり、国王の気晴らしであり、また、宮廷や愛する女性へささげる楽しみ[2]」である。それは、国王自らが自身の気晴らしの中に、王家の称賛と国王の持つ絶対的な権力と財力を誇示する場を意味する。ルイ14世は、親政を始めた1660年から1677年ヴェルサイユへの定住計画が正式に発表されるまでに祝祭を3回主催した。その「行動すべてに英雄的なものが見られ、楽しみの領域においてさえ、これまで見たこともないほどの偉大な輝きを[3]」示すためである。

この祝祭がルイ14世の親政初期においてどのような役割を持っていたのか確認し、一晩であったが最も華やかであった2回目の祝祭とその際上演された『ジョルジュ・ダンダン』の位置づけを確認したい。

1.ルイ14世の祝祭

1664年の「魔法の島の歓楽」Les Plaisirs de l’île enchantéeは5月7日から14日まで1週間にわたって未完成のヴェルサイユ宮殿で催された。表向きは王太后アンヌ・ドートリッシュと王妃マリー・テレーズに、実際は時の愛妾ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール嬢に捧げられた。アリオストの『狂えるオルランド』の中の、魔女アルシードに捕らわれたロジェのエピソードを軸とした世界観のもと展開されたバロック的で幻想的な祝祭であった。その中で催される余興の演出はモリエールの喜劇論に基づき、スペクタクルの中の登場人物は理想の宮廷をイメージしており、観客を「夢の作用によって、伝説の領域に属する一段格の高い世界」へ誘い、「それがあたかも自分たちの宮廷であるかのような錯覚」を抱かせた[4]。上演された演目はすべてモリエールの作品で2日目『エリード姫』La Princesse Elide、5日目『うるさがた』Les Fâcheux、6日目『タルチュフ』Le Tartuffe、7日目『ゴリ押し結婚』Le Mariage forcéであった。バリエーションに富んだこれらの作品の主題は、理想の貴族社会、現実の貴族社会、教会、ブルジョワ階級の映し出したものであった。

1668年の祝祭は「国王の大いなる喜び」Le Grand Divertissement royalと称され、一晩限りの祝祭であった。1664年の「魔法の島の歓楽」は成功したものの、一部の貴族の間では不満があったからだ。それは、建設中の宮殿が小さく、すべての招待客を収容できるだけの部屋数がなかったことに拠る。馬車の中で寝起きした貴族たちもいたという。そこでルイ14世は2回目の祝祭は一晩のみの開催としたのであった。

表向きは1668年5月にフランドル戦争終結のためにスペインとの間に締結されたエクス・ラ・シャペルの講和条約を祝うものであったが、そこには、宮廷の活気を取り戻す意味もあり、当時のルイ14世の愛妾モンテスパン公爵夫人を始め、王妃、ラ・ヴァリエール嬢、フランソワーズ・スカロン(のちのマントノン侯爵夫人)が彩った。徐々に建築されていくヴェルサイユ宮殿とその庭園の噴水を見ながらの散歩はその場に居合わせた人々を驚嘆させた。そして観客を楽しませたのはやはりモリエール劇団の作品である。リュリとの共同で創られた音楽とバレエ付き喜劇『ジョルジュ・ダンダン』である。祝祭の最後を彩る花火と水の競演は様々に趣向を凝らせた庭園の幻想性をさらに強め、現と幻の境界線が分からない魔法と驚異の入り混じった世界観となってヴェルサイユ宮殿を包み込んだ。

1674年の祝祭「ヴェルサイユの愉しみ」Les Divertissements de Versaillesはフランシュ・コンテの征服を祝したもので7月4日から8月31日までの間に6日間開催された。すでにモリエールは亡く、リュリとキノーの作品を中心とした演目に、モリエールやラシーヌの作品が再演された[5]。1日目の7月4日にはキノーとリュリの『アルセスト』Alceste ou le Triomphe d'Alcide、2日目の7月11日には同じくキノーとリュリの『ヴェルサイユの洞窟』La Grotte de Versailles、3日目の7月29日にはモリエールの『病は気から』Le Malade imaginaire、4日目の7月28日にはリュリの『アモールとバッカスの祭典』Les Fêtes de l’Amour et de Bacchus、5日目の8月18日にはラシーヌの『イフィジェニー』Iphigénieが上演された。しかし祝祭全体を彩るバロック的幻想による驚異は半減し、真実らしさvraisemblance、礼節bienséanceに縁どられた、より現実的な古典主義演劇世界観となった。それぞれの祝祭の終わりに上がる花火と噴水の踊る水とが相まった豪華な迫力は、より直接的な国王の権力を感じさせながら人々を魅了した。

この3回目の祝祭は、ルイ14世のヴェルサイユ最後の大きな祝祭であり、この時期はルイ14世の治世の転換期と重なる。絶対君主制の確立は、ルイ14世が太陽神として踊り、その周りで貴族や親王族が太陽神を崇める役を踊るという政治的パフォーマンスによって確立したともいわれる[6]。ルイ14世にとって1670年の『豪勢な恋人たち』Les Amants magnifiquesが最後の踊りになった。その時すでに絶対君主制は整えられており、その3年後に宮廷はヴェルサイユ宮殿に移行された。またルイ14世は国王のイメージ戦略として、歴代の国王に倣い、古代ギリシャ・ローマの神々や偉人をその表象としていた。しかしルイ14世は1670年代の終わりには誰かの表象に甘んじることを止め、自らが神話になることを選んだ[7]。従って、このヴェルサイユの祝祭は、ルイ14戦が絶対君主制を確立し、自らをフランスの象徴として国内外にその権力を誇示する準備としてのパフォーマンスであったといえる。

2.1668年の祝祭の特性

最も華やかといわれた2回目の祝祭はなにを象徴したのだろうか。国王のどのような権威を提示することを目的としたのだろうか。アンドレ・フェリビアンの公式報告書「1668年7月18日のヴェルサイユにおける祝祭の報告書」の描写から全体像を掴み[8]、ルイ14世が打ち出したかった権力の象徴を確認する。

国王は、王妃、王太子、王弟殿下、王弟妃殿下とサン・ジェルマンを出発し、ヴェルサイユに赴いた。夕方6時になると国王は王妃と宮廷の貴族を伴い、庭の散歩をした。新しくできたドラゴンの噴水を楽しみ、木立に涼をとった。さまざまな果物の木が彩る5本の散歩道を進むと、五角形の場所に到着する。その広場の木々には砂糖漬けの果物が飾られていた。中央の池にはテーブルが伸び、贅沢な饗宴のためのさまざまな飾りつけがしてあった。テーブルの足や背は花と葉で飾られ、その一部がバッカスの巫女たちの手で支えられていた。

庭園内の軽食を楽しんだ後、国王一行は馬車と駕籠に乗って芝居が上演される場所へ向かった。舞台と舞台装置はヴィガラーニによるもので、庭園の中に、自然と一体化したものであった。そしてその舞台装置は、幕間のバレエとダンスの時に一瞬にして今まで散歩してきた庭園の続きにいるような錯覚を起こさせた。喜劇の後は八角形のテーブルに準備された晩餐を楽しんだ。空間は、自然を完璧に真似て作られており、テーブルは天馬ペガソスと竪琴を手にしたアポロンの彫像やミューズたちに囲まれ、それらはまるで魔法の力で実現したかのように人々を驚嘆させた。晩餐の後、国王は舞踏会の催される部屋へと皆を誘った。舞踏会が終わると散歩道の両側に配置された胸像柱からたくさんの花火が上がった。祝宴の最後を飾る最大のパフォーマンスに国王の招待客は驚嘆した。

驚嘆merveilleuxと共に語られるヴェルサイユの祝祭の豪華さは、国王の経済力と支配力に裏打ちされた権威を表現していた。ル・ブランの総指揮のもとそれぞれの責任者によって準備された庭園内の軽食、食事、花火、劇場、舞踏会場、照明は117 000 リーヴルかかったというが、それはこの年のヴェルサイユの出費の三分の一に相当する額であった。また、新しくできたドラゴンの口から水を吐き出す噴水と花火と共に夜を彩った。ヴェルサイユには水源がなく、10km以上離れたセーヌ川から水を引いてきたことは国王の権力の象徴のひとつとして知られているが、この祝祭はマルリーの揚水装置機械の着工[9]される12年も前のことであり、水の調達を考えると国王の持つ財力と権威の大きさが伺える。

庭園の中に作られた晩餐のテーブルの装飾や庭のあちこちに飾られた砂糖菓子など、職人の手による自然を真似た技巧は「自然が最も美しく最も贅沢なもの[10]」を創り上げたかのようであった。そしてそれは国王が自然に命じて作らせたかのような演出となっていた。

ホイヘンスは書簡の中で「私が最も美しいと思ったのは花火で、空を覆うかのごとく沢山の花火が一斉に上がるのを未だかつて見たことがない[11]」と感動を綴っている。フェリビアンは散歩道の両側に配置されている72体の胸像柱から飛び出した花火の演出を次のように描写する。

あるものは散歩道と交錯しアーケード状になり、あるものはまっすぐ上にあがり、地面との間に大きな光の線を描き出して、炎の垣根のようなものを作りだした。これらの花火が天まで昇り、星よりも輝くおびただしい光で空を満たしている間に、散歩道の端にある大きな池は、炎と光の海と化していた。そこでは、より赤くより鮮烈となった無数の炎が、より白くより澄みとおった水面のうちで戯れているかのようであった[12]

噴水と花火の融合した演出は、国王が四元素の水と火を自由に操る力を持つことを象徴した。四元素のうち可視可能な土と水は身体を構成し、不可視の木と火は生命力を表す。上昇していく火に対し、水は下方を流れる。男性的な激しさを象徴する火と、どこへでも広がり包み込むような女性的な水は対照的であると同時に相補的である。炎と噴水の競演によって火と水は「実に緊密に結び合わされていたので、ふたつを区別することは不可能[13]」であり、祝祭の主催者である国王が操っているかの如く演出される。自然や火はもはや恐れるものではなく、支配されるものとなった。また花火の眩さにより夜を一瞬にして昼とも紛うほどに輝かせたことは、国王が宇宙の秩序をも支配する力をも持ち合わせているかのような錯覚を与えた。こうして祝祭におけるあらゆる演出の根源を成す驚異は自然、元素、季節、そして宇宙をも掌握した世界の頂点に立つ国王ルイ14世を象徴したのである。

この国王の権力は庭園に立つギリシャ・ローマの神々をはじめとする彫像によっても強調されることになる。喜劇の上演された舞台の両側に2本ずつ「ブロンズと青金石でできた螺旋形の大きな円柱」が立っていたが、柱の間にある彫像の右手の彫像は「平和」を表し、左手の彫像は「勝利」を表していた[14]。フェリビアンが国王のイメージを次のように説明している。

すなわち、国民が幸せで繁栄に満ちた平和を味わえるようにすることが国王陛下にはおできになるのであり、そのために、自国の権利を守るためには武器をとることも辞さないで、栄光に満ち喜びに溢れた勝利を収めてヨーロッパに平安を打ち立てなさるのだということを[15]

国内においては国民を守り、国外においてはその勢力を伸ばしていく覇者のイメージであった。

3.祝祭のプログラム『ジョルジュ・ダンダン』

ヴェルサイユ宮殿の祝祭で上演されたとき、『ジョルジュ・ダンダン』は三幕散文喜劇に、音楽とバレエによる韻文田園劇が付されていた。そしてヴィガラーニによって設計された舞台で演じられた。舞台は庭園の「何もないところから、素晴らしい宮殿や豪勢な舞台[16]」が現れるようにしつらえられた。客席から見ると「幅13トウズ[約26メートル]、奥行き9トウズ[約18メートル]」ある舞台で、「天井の外側は葉で覆い、内側は贅沢な腰掛で飾り、(…)天井からは水晶のろうそく立てが36つり下がっていたが、それぞれに白ろうそくが10本ずつ[17]」立っていた。この広間の周囲には1200以上の人が座れるほどの階段状に設定された座席があり、平土間のベンチと併せると相当な人数を収容できるように準備された[18]。その舞台は「とても素晴らしく[19]」、観客は舞台に今まで散歩してきたのと同じ豪華な庭園の演出の続きを見るのであった。フェリビアンは舞台装置が一瞬のうちに変わることを「あれほどたくさんの本物の噴水がいったいどうやって見えなくなったのかわからない。いったいどんな技術によって、あれらの部屋や散歩道の代わりに舞台の上には、大きな岩や木しか見えなくなってしまったのだろうか[20]」と感嘆する。「これらの宮殿や舞台のいたる所に金の装飾や大きな彫像が施されており、[庭園の]緑が目を楽しませ、無数の噴水が涼やかさを演出[21]」した中でモリエールの芝居が上演された。

祝祭の際に配布されたパンフレットにはモリエールの喜劇の幕間劇の韻文の音楽バレエの台本が載っている。散歩と軽食で夕暮れ時を楽しんだ招待客は、ジョルジュ・ダンダンの姿に笑い、音楽とバレエを見たと想定できる。パンフレットに記載された歌詞を目で追いながら、リュリの軽やかな音楽とともに愛と酒の神を称えたであろう。それは次に続く晩餐へと誘う甘い食前酒にも似たひとときであっただろう。そしてそのスペクタクルはフェリビアンによれば、これまで観客の耳と目を同時にこれほど楽しませてくれたものはなかった[22]」と豪華な舞台装置と喜劇と音楽とバレエの融合が祝祭を盛り上げる最大の出し物であったことを伝えている。

3paris-538445_960_720.jpg

II. 『ジョルジュ・ダンダン』の映し出した社会

モリエールの喜劇は「人生の模倣であり、社会の鏡であり、真実の絵姿である」という理想の喜劇[23]を具現化したものであり、彼が浮き彫りにした現実社会の映し絵は、笑いと共に観客に現実社会を突き付け、同時に観客に反省を喚起させるものである。では『ジョルジュ・ダンダン』は何を映しだしているのだろうか。

『ジョルジュ・ダンダン』は多くのモリエールの作品と同様、宮廷でお披露目された後、パリでの初演を迎えることになる。ヴェルサイユの祝祭の招待客を楽しませた作品はどのようにパリの観客の目に映ったのか。『ジョルジュ・ダンダン』の映し出した社会からモリエールのメッセージを考察していきたい。

1. 『ジョルジュ・ダンダン』の公演時の背景

7月18日にヴェルサイユ宮殿で国王の前で上演された『ジョルジュ・ダンダン』は4か月後の11月9日、パレ・ロワイヤル劇場で初のパリ公演が行われた。しかしパリ公演初日、客の入りは悪かった。4分の3の席が空席であった[24]

客の入りが悪かった理由に関して、明らかなことは何もないが、モリエール劇団を取り巻く背景から次のような推察がなされている[25]。この時期、9月に初演した『守銭奴』L’Avareの成功が続いていた。その成功に押されてか『ジョルジュ・ダンダン』は、初演から2か月たった『守銭奴』の興行成績より悪かった。しかし2回目の公演で一度盛り上がり、11月末から12月にかけて10回上演されたことがラ・グランジュの『帳簿』には記されている[26]。その後また興行成績が落ち込み、『守銭奴』がとって代わり、その後モリエールは『ジョルジュ・ダンダン』を上演しなくなった。

この時期人々は、1664年初演以降上演禁止となっていた『タルチュフ』の再演をモリエール劇団と共に待ち望んでいたのだろう。9月9日にシャンティイ城でコンティ公の依頼で『タルチュフ』を上演し、その後1か月の間に教会と和解したことは周知のことであった。しかし、『タルチュフ』の再演は翌1669年を待つことになる。『ジョルジュ・ダンダン』は『タルチュフ』と共に同年9回同時上演された。その後、1671年、1672年と時々上演されたが、常に他の作品との抱き合わせでの上演であった。

同じころ、隣のオテル・ド・ブルゴーニュ座ではラシーヌの『訴訟狂』が初演された。ラシーヌ初の喜劇で、社会情勢を写した喜劇は成功を収めた。そのことも含め『ジョルジュ・ダンダン』のパリ初公演にとって時期が悪かったのである。

2. 『ジョルジュ・ダンダン』の構成

当時のパリの人々にあまり受け入れられなかったこの『ジョルジュ・ダンダン』はいったいどのようなものであったのだろうか。

舞台はジョルジュ・ダンダンが、彼のことを窺っている百姓リュバンを見つけ話しかけるところから始まる。そこで妻アンジェリックに恋した宮廷貴族クリタンドルの命で自分の様子を見に来たこと、アンジェリックの侍女クロディーヌがその仲介をしていることを知る。ジョルジュ・ダンダンは義理の両親ソッタンヴィル夫妻を呼びに行き、アンジェリックの不貞を明らかにしようとするが、信じてもらえない。ソッタンヴィル氏とジョルジュ・ダンダンはちょうど通りかかったクリタンドルを問いただすが一蹴される。そればかりか、無実の罪を着せたと謝罪させられることになる。

第二幕で、ジョルジュ・ダンダンはアンジェリックに妻の務めを果たすよう言うが、彼女はこの結婚は自分の意志ではなく、彼女の両親が推し進めたものだから、文句があるなら両親に言うようにと言い放つ。怒ったジョルジュ・ダンダンが外に行くと、入れ違いにクリタンドルがやって来て家の中に入る。それを見ていたジョルジュ・ダンダンが今度こそ現場を押さえようとソッタンヴィル夫妻を呼びに行くが、両親の来訪を察知したクロディーヌの機転とアンジェリックの演技で両親を言いくるめ、濡れ衣を着せたとしてジョルジュ・ダンダンは再び謝罪させられる。

第三幕では、アンジェリックが逢引に出て家にいないことを確認したジョルジュ・ダンダンが、今度こそはとソッタンヴィル夫妻を呼びに遣る。戻ってきたアンジェリックを閉め出そうとするが、彼女の仮病にジョルジュ・ダンダンが心配して外に出たその隙に、アンジェリックは家に入り鍵を閉めてしまう。ソッタンヴィル夫妻が来たときはジョルジュ・ダンダンが家の外に締め出され、家庭をないがしろにしたのは彼だと決めつけられ謝罪させられる。

『ジョルジュ・ダンダン』の主題は、フェリビアンが要約しているように田舎貴族の娘と結婚した裕福な農民の話である。彼は、「妻からも義理の父親や母親からも軽蔑されるしかないのであるが、それというのも、娘の両親がこの男を婿にすることにしたのはこの男の大変な財産だけが目当てであった」からで、「芝居の間じゅうその野心の罰をうけ続ける」のであった[27]

3.宮廷礼賛

身の程をわきまえず野心を持った者が罰をうけるというのは、モリエールがさまざまな作品の中で込めたメッセージのひとつ、中庸の徳である。この時代、ジョルジュ・ダンダンのように裕福な者がより高い身分に憧れて貴族と結婚する、あるいは没落貴族が裕福な町人の娘と財産目当てで結婚するという話は少なくない。しかしその結果が必ずしも幸せであるとは限らなかった。様々な支障が出てくる。モリエールは結婚を題材にした作品を上演することでその現実を舞台上に映し出した。『ジョルジュ・ダンダン』では「身分不相応な結婚をした者たちがしばしば経験することになるつらさや苦悩[28]」をリアルに表現した。そしてその中には宮廷礼賛が色濃く表れていた。アラン・クプリはモリエールが「宮廷の宴の意図に迎合して[29]」作品を作る時、そこには「宮廷の神格化による宮廷礼賛[30]」と「この世では並ぶもののない存在である[31]」宮廷礼賛があるとしている。そして『ジョルジュ・ダンダン』には後者の意味での宮廷礼賛が当てはまる。

宮廷人に憧れる登場人物は、貴族の地位に憧れ、手に入れようとする。しかしそれは物理的に可能であっても本質的な意味において貴族になることは不可能である。

 素性あるいは財産という面で貴族階級に比較的近いと思われる社会階層の人間でさえ、どれほど努力を重ねようとも、宮廷人と張り合うことはおろか、宮廷人の真似をすることさえかなわない。(…)「由緒正しい行い」が生まれ育っていく唯一の場所が宮廷なのである[32]

そのうえジョルジュ・ダンダンは、貴族の仲間入りを夢見ていたブルジョワ階級ではなく、農民の出である。どれほど裕福であったとしても、対等になることはあり得ない。身の程をわきまえないことをすれば罰が下されるということは、お金のために貴族以下の身分の者と婚姻関係を結ぶことで財政を立て直さざるを得ず、その屈辱的な状況に甘んじるしかなかった貴族たちの日頃の憂さを晴らさせる意味も含まれていたと考えていいだろう。

またジョルジュ・ダンダンが結婚したソッタンヴィル家は、貴族とはいえ田舎貴族である。フェリビアンは「田舎貴族の気質や振る舞いの描写についても、どこをとっても真実の姿を捉えている[33]」とモリエールの描写を称賛したが、モリエールは貴族階級にも格差が存在することを描き出したのである。ソッタンヴィル氏が宮廷に出入りする子爵クリタンドルに対する態度に笑いがこみあげてくるのは、自分より上の階級に憧れを持って追従し、けれども自分の置かれた身分をよく見せようと自分の家柄を必死に説明する姿に、「どれほど努力を重ねようとも」埋めることのできない壁に阻まれる田舎貴族の現実を感じるからである。そのことについてアラン・クプリはブルドネの『悟りきった宮廷人』Le Courtisan désabusé (1658)を引用して、この時代、「宮廷人は他の階層の人間とは際立った違い」を持っていて、「町人の間にまぎれていても、田舎生まれで田舎育ちの貴族の間にまぎれていても、宮廷人はすぐにそれと知れる」のだと言及している[34]

アンジェリックがクリタンドルを田舎者に比べて「宮廷の貴族の方々は何を話しでも、何をしても感じがいいわね[35]」と漏らすため息は、クリタンドル個人というより、宮廷人への憧れがにじみ出てている。クリタンドルと比較された田舎者はジョルジュ・ダンダンを指しているのだが、図らずも両親のソッタンヴィル家を指していることに観客は気づく。クリタンドルのジョルジュ・ダンダンとソッタンヴィル氏に対する高圧的な態度は、宮廷人が特権階級であり、すべてが許される身分であることを強調することになる。

ソッタンヴィル夫妻にとってのジョルジュ・ダンダン、クリタンドルにとってのソッタンヴィル夫妻は、貴族に憧れる百姓と、宮廷貴族に憧れる田舎貴族の構図を浮き彫りにしている。そして宮廷人の優位性を再認識させたことは、『ジョルジュ・ダンダン』が宮廷人をターゲットにした作品であることを意味している。

パリの観客の目にはどのように映ったのであろうか。少なくともジョルジュ・ダンダンが劇場には足を運ばないような身分である「農民」であるという点においては、その思いあがった野心を砕かれる様は大いに笑いを取ることができただろう。しかし、もし「宮廷人だけがこれを正しく鑑賞することができた[36]」のだとするなら、パリ公演が成功しなかったことも頷ける。

4quill-175980_960_720.png

III. 本来の『ジョルジュ・ダンダン』の魅力

1.祝祭の中のスペクタクル

ヴェルサイユでの公演とパリ公演の違いを明確にするために、ここでもう一度、ヴェルサイユの祝祭の時の『ジョルジュ・ダンダン』の評価を確認してみよう。

ヴェルサイユの「国王の大いなる喜び」についての報告書や感想を読むと、ヴェルサイユにおいて『ジョルジュ・ダンダン』がどれほど人々を楽しませたのか、実は定かではないことが分かる。

この祝祭について言及している資料はポリーヌ・デカルヌによれば、『ガゼット』などの定期刊行物、公式パンフレットや報告書、文学的作品、書簡と4種類に分類できる[37]。そのうちモリエールの喜劇についての言及があるのは定期刊行物、公式報告書でその他にはほとんど言及されていない。しかも文学的作品や書簡の中で音楽とバレエについての言及しているものはない[38]。サン=モーリス侯爵は書簡の中で接客対応の準備が不十分であったことを言及した後、芝居の内容には触れずに「喜劇の後」の話に移っている[39]。スキュデリー嬢も、ラ・フォンテーヌも祝祭の素晴らしさについて簡略に触れているだけで、モリエールの作品についての直接の言及はない。さすがに彼らが言及しないというのは合点がいかない。

フェリビアンやバラールが、この喜劇が「王様のご命令にいかに迅速に従ったか」ということ、そして「この作品が即興の芝居であることを十分承知の上ご覧いただきたい」と前置きをしていることから、モリエールがわずかな時間でこの作品を創作したに違いはないだろう。しかし、この時すでにモリエールの作品と国王の劇団であるモリエール劇団の評判は高く[40]、祝祭での公演に多くの観客が詰めかけたのは確かである。晩餐のテーブルに準備された招待客だけで225人はいる[41]。フェリビアンによれば、舞台のある広間の周囲にしつらえた席に1200人以上が座り、平土間のベンチにはさらに大勢の人達が座ったとある[42]

この時のことをサン=モーリス侯爵は、自分の妻が「喜劇が上演される舞台の扉まで来たが、守衛の者たちが招待客を把握していなかったので、彼女を導いてくれる人がいなかった[43]」と不満を書き、ホイヘンスは「あまりにも沢山の人がいたので、劇場では、国王ですらやっとのことでご婦人たちの席を取るほどで、沢山の観客の中から男性を[女性に席を譲るために]外に出さざるをえなかった」と記している。いかにこの祝祭が大勢の人で盛り上がっていたか想像できる。ホイヘンスの「貴族の娘と結婚した農民が寝取られた主題のやっつけ仕事的な取るに足らない芝居[44]」という評価はむしろ、祝祭に集まった人々があまりにも多かったので、心ゆくまで観劇できる状況でなかったために、パンフレットに載せられたあらすじと紹介文しか読まなかったのではないかと考えるほうが自然である。

そして劇場に入りきらないほどの観客がいたこと、ゆっくりと劇を鑑賞できない状況の想定が、モリエールに、祝祭での出し物を五幕ではなく三幕ものの喜劇とし、劇展開を工夫し、音楽とバレエ付き喜劇として上演させたと考えるべきである。それが、装飾が施された舞台と一瞬のうちに変わる舞台装置による仕掛け舞台が観客の驚嘆を引き起こしたという記述として表れたといえるだろう。そしてこの工夫こそが観客を飽きさせなかったのである。

2.交錯する散文喜劇と韻文田園劇の効果

モリエールが施した劇展開の工夫とは、喜劇『ジョルジュ・ダンダン』において「笑劇につきものの手法が三度も繰り返され、笑いの効果が高められている[45]」ということと、この作品を、モリエールにとって、そしてフランスにとって初めての「音楽とバレエ付き喜劇」としたことである。

「主人公が妻の浮気の動かぬ証拠をつかむが、ぬか喜びに終わり、逆にやり込められてしまう[46]」という話の展開が一つのサイクルとして各幕内で繰り返されている。これは『女房学校』にもみられる劇作法[47]で、そのスパイラルの内容が幕を重ねるごとに重くなりながら大団円への盛り上がりへと進んでいく。

幕ごとにまとまりのある話に観客はどの幕を見ても理解することができる。これは祝祭の中で、芝居にだけ集中できない状況の観客も楽しむことを可能にした。ところが全体を通してみると、それぞれの内容は次第に重くなり、ジョルジュ・ダンダンの不満の大きさもそれに比例していく。

第一幕、第二幕ではそれぞれ妻の恋の相手であるクリタンドル、妻のアンジェリックに言葉で遣り込められる。第三幕では、妻を顧みず夜遊びをした夫として訴えられ謝罪する羽目になり、言葉という不可視的な状況によってではなく、家から閉め出されるという可視的な状況によって、反論できないほどに打ちのめされることになる。三幕を通してその野心の罰をうけ続けるのである[48]

ジョルジュ・ダンダンは百姓の身分でありながら貴族になりたいという一心で、それのみに固執し、願望を成就させた。しかし、それ以外の大切なものを蔑ろにしたために、それが欠けていると気づいたときはすでに遅く、打ちのめされる。それは身の程をわきまえない願望の報いを受けたジョルジュ・ダンダンの「ああ!もうおしまいだ。どうしようもない。この俺さまみたいに、どうしようもない女と結婚したら、水の中に頭から飛び込むのが一番だ![49]」という最後の台詞は、滑稽さの中にジョルジュ・ダンダンの絶望がにじみ出ている。『ジョルジュ・ダンダン』の三幕喜劇のみが上演される昨今、この芝居を「苦い喜劇」とか「暗いファルス」として悲劇的にする演出がなされることも仕方のないことなのかもしれない[50]。モリエールの第三幕終了後のト書きにある「結婚した農民の苦しみは頂点に達する[51]」という言葉は一層この喜劇『ジョルジュ・ダンダン』を悲劇化させる一因でもある。しかしそれは喜劇の終わり方に反するものである。喜劇の典型であるハッピーエンドの終わりには程遠い。であるからこそ、この喜劇の各幕間に交錯する音楽付きのバレエ田園劇が必要なのである。

ヴェルサイユ宮殿の祝祭ではそれぞれの幕間に羊飼いの娘と彼らを愛する羊飼いの恋の物語が挿入された。スペクタクルは「祝祭の召使に変装した4人の名高い羊飼いたちが、フルート演奏をする4人の羊飼いを伴って登場しダンスをして、結婚した農民の夢想を中断させる[52]」ところから始まる。そして羊飼いは羊飼いの娘たちに恋の歌を歌う。しかし羊飼いの娘たちはからかって取り合わず、羊飼いたちは傷心して、生きる目的を失う。若い羊飼いの絶望の歌に続いて第一幕が始まる。「結婚した農民がその結婚のせいで様々な苦しみを味わ[53]」い、「悲しみに落ち込んでいると、羊飼いの娘がひとりやって来て、農民の嘆きを中断する[54]」ことで、第一幕終了後の羊飼いたちの歌が始まる。その恋の歌をからかった羊飼いの娘たちは、羊飼いたちが絶望して自殺したと思い、悔いて嘆きの歌を歌う。第二幕が終わり、散文喜劇で不快な思いをし続けたジョルジュ・ダンダンのもと、再び先程の羊飼いの娘が登場する。実は羊飼いの若者が死んだというのは嘘で、船乗りに助けられたことを知り、彼女たちは船乗りたちに感謝し踊る。そしてジョルジュ・ダンダンが妻にひどい扱いを受けて「苦しみの頂点に達[55]」した第三幕が終了した後、友人の一人がその百姓を慰め、「悩みなどすべて酒で流してしまえばいいさと助言して仲間のところに連れていく[56]」。羊飼いと羊飼いの娘は恋人になり、そのなかのひとりクロリスの歌に合わせて踊る。娘は愛のすばらしさを歌い、愛の神を崇める歌を歌う。愛の勝利と思いきや、そこにバッカスがサテュロスたちと現れ、暗い気持ちの憂さを晴らすのは酒であるとしてバッカスを称え歌い踊る。バッカスか、愛の神かと言い争いになるが、ひとりの羊飼いの「愛の神には甘さがあり、バッカスには魅力がある[57]」との仲裁で一同が声を合わせ、「ふたつの愛すべき喜びを混ぜ合わせましょう[58]」と双方の神を讃える。

ジョルジュ・ダンダンの話が散文で書かれ、羊飼いの話が韻文で書かれていること、また言葉による展開と歌とバレエによる展開とジャンルが異なることで、二つが別の物語であることが分かる。散文、韻文それぞれの話は筋の一致、場の一致という演劇の三単一の規則から逸脱していない。それでも、二つの作品にはつながりがあり、喜劇の内容が幕ごとにまとまりのある展開をしているために、喜劇の幕間に入ってくる音楽バレエによって話が混乱することもない。ジョルジュ・ダンダンの話が貴族の娘と結婚という野望達成の幸福から現実の不幸へと不幸度が増していくのに対し、音楽付きバレエ田園劇は、羊飼いの若者が最初相手にされなかった羊飼いの娘と恋人になり物語は終盤に向けて幸せ度が上がっていく。この真逆の流れを持つコントラストが全体を一定の均衡に保つ。フェリビアンの報告書はこの作品の魅力を次のようにまとめている。

この作品は、実にさまざまで心地のよい部分で組み立てられていたので、これまで観客の耳と目を同時にこれ程楽しませてくれたものはなかった。散文が使われていたのも、喜劇の筋立てにはぴったりであった。喜劇の幕間に歌われた歌詞もまた主題にぴったりで、これを歌っている人物が感じているはずの情感を実に感動的に表現していたため、これほど心を揺さぶるものは今までにはなかったと思わされた。ひとつは散文、もうひとつは韻文で書かれた二つの別々の喜劇が同時に演じられているかのように思えても、二つの芝居は同じ主題でしっかりと結び合わされていつので、一つの作品となっているのであり、ただ一つの筋立てを表現しているのである[59]

散文、韻文の二つの部分を以てこのスペクタクルが構成されていて、切っても切り離せないものであることが明らかである。

3.ヴェルサイユの祝祭のためのスペクタクル

喜劇に付加された音楽とバレエはもうひとつヴェルサイユの祝祭のための、言い換えるなら、宮廷人のための愉しみdivertissementの要素を兼ね備えていた。戦争で疲弊した宮廷人に束の間の幻想的で牧歌的な世界で現実を忘れ愉しんでもらおうという意図である。それがモリエールの喜劇『ジョルジュ・ダンダン』に組み合わせた音楽とバレエ付き田園劇の部分である。田園劇とは「羊飼いの若い男女が恋に落ち、様々な妨害、障害を乗り越えて結ばれる[60]」までを描いたもので、悲劇的、喜劇的な内容が包括されたものもある。田園劇は、戦乱の時代に現実逃避の願望を叶え、自然の中での素朴な生活の中でより人間的な生きる喜びを感じたいと思っていた宮廷人に好まれていた。『アストレ』L’Astrée が出版以降17世紀の詩人、劇作家をはじめ、サロン文化の中にも浸透していたことからも明らかである。1631年を境に衰退したが、1650年以降、トリスタン、キノーらによってほんのわずかな間復活したジャンルである。

「世の中の物的な心配事からは完全に解放されて理想的な環境の中で暮らしている[61]」登場人物は理想化された羊飼いの若い男女である。たいていの場合、宮廷人が変装したもので、その心理の動きなどは宮廷人そのものであることが多い。舞台装置は「華やかで目覚ましく、その舞台には伴奏と音楽[62]」がついているのが常であった。「空想的な題材と扱う宮廷バレエ」が好まれていたルイ14世の祝祭で、一度田園英雄喜劇『メリセルト』Mélicerte(1666)を書いているモリエールが再び『ジョルジュ・ダンダン』に組み込んだことはむしろ当然のことであっただろう。フェリビアンをはじめとする、ヴェルサイユの「国王の大いなる喜び」について記した箇所には、一瞬のうちに変わる魔法のような舞台装置を、驚嘆を込めて描いていることからもわかる[63]。バラールのパンプレットにあるように、この「音楽とバレエ付き喜劇」は「新しい試み[64]」であった。そしてそこにモリエールの意図した『ジョルジュ・ダンダン』のかたちがあるのだ[65]。フェリビアンはこの喜劇と音楽バレエの融合を次のように称賛する。

かつてこれほど美しく、これ程見事に創りあげたものはなかったのだから。(…)しかし、前代未聞だったのは、かくも心地よい声のハーモニー、楽器のシンフォニー、さまざまなコーラスの美しい結合、甘い小歌、かくも優しく恋する気持ちを伝える対話、これらのこだまであった。すなわち、どの部分も素晴らしく演じられたということである。(…)最初は一人の歌手だったものが、最後には100人以上もの人による競演となったのである。100人以上もの人たちが一度の舞台に姿を現して、楽器を演奏する者、歌う者、踊る者すべてが調子をあわせ、リズムにのって芝居を締めくくったので、全員が言い知れぬ感動に包まれたのである[66]

バラールはパンフレットの中で、「私たち[フランス人]の国民性は音楽劇向きではないので、この新しい試みが成功するかどうか保証はできない」としていた。しかしフェリビアンの報告書を見る限り、フランス初の試みは観客に受け入れられた[67]

これらのことから、パリでの興行があまりうまくいかなかった理由は、このヴェルサイユの祝祭の際の上演との違いにあったことが分かる。つまり音楽付きバレエが上演されなかったということである。そしてパリの劇場でこの部分が上演できなかったことには物理的な理由と、観客の嗜好の違いからくる理由がある。

物理的な理由とは、この作品の舞台装置である。田演劇につきものの華やかな舞台装置はフェリビアンの描写にもあったようにヴェルサイユの庭園を使ってしつらえたもので、それをパリの劇場に再現することは不可能であった。たとえ、移動可能の装置があったとしてもそれはモリエール劇団のものではないために他へ持ち運ぶことは許されていなかった。時間的にも経済的にもパリ公演用に舞台装置を再度作ることは不可能である。したがって、パリ公演の際に喜劇三幕の部分だけが上演されたというのは必然のことであったのだ。

同時に、田園劇がその性質上、貴族の願望が込められたもので、貴族の愉しみのために創られていたことを鑑みると、モリエールが無理にパリ公演に田園劇の部分を組み込まなかったことも理解できる。しかしそのため、本来ジョルジュ・ダンダンと羊飼いの話が組み合わされてひとつのスペクタクルであったものを半分にして上演したことになる。その結果、モリエールの世界の半分しか観客に披露できなかったこととなり、その魅力も半減した。スペクタクルは、ヴェルサイユの祝宴のために作られたものなのである。

結論

バラールもフェリビアンも、モリエールのこのスペクタクルが、即興の作品で、国王の意向を満足させるために迅速に作られたために、「仕上げが思うに任せなかったり最後のひと筆が書き加えられなかったりする[68]」かもしれないことを言い訳がましく述べている。しかし、これまでかつてモリエールが未完の作品を上演したことがあっただろうか。『ヴェルサイユ即興』L’Impromptu de Versaillesは国王の命で早急にコメディを仕上げなければならなかったというモリエール劇団の舞台裏を敢えて提示したような構成になっていたが、そこにはモリエールの前作『女房学校』L’École des femmes、『「女房学校」批判』La critique de l’École des femmesに続く一連のモリエールの劇作に対する立場を提言するという意図が隠されていた。また、作品の風刺の過激さに三幕で打ち切られたと思われていた『タルチュフ』も実は「魔法の島の歓楽」において上演された三幕で完結したものであった。

これらから類推するに、『ジョルジュ・ダンダン』はやはり三幕散文のジョルジュ・ダンダンの話と、それに交錯する音楽付きバレエの韻文田園劇が含まれてこそ完全体と考えるべきである。

この音楽付きバレエに関してフェリビアンは、「かつてこれほど美しく、これほど見事に創り上げられたものはなかった」とリュリが「すべての人を満足させ夢中にさせる秘訣を見つけた」と称賛している[69]。リュリはその後、この時の音楽付きバレエの他にモリエールと共に創った『田園喜劇』と、『豪勢な恋人たち』の幕間劇(アントレなどの歌や踊り)を組み合わせて『アモールとバッカスの祭典』を創り、1672年の王立音楽アカデミーの杮落としと、1674年のヴェルサイユの祝祭において上演した。しかしこの作品について語られることは多くない[70]。これは、過去の作品の一部を継ぎ合わせたからであるということもできるが、リュリがとってきたパートが、あくまでもそれぞれの作品の一部であり、元の作品の中にあってこそ、その美しさが際立っていたことを意味する。

フェリビアンが言うように1668年のスペクタクルが素晴らしかったのは、「喜劇と喜劇の合間に歌われた歌詞」のふたつが「同じ主題でしっかり結び合わされて」おり、「ひとつの作品」を構成し、「ただひとつの筋立てを表現している」からである[71]。つまり、二つの部分が組み合わさったものが音楽とバレエ付き喜劇『ジョルジュ・ダンダン』なのであり、どちらも欠けてはいけないのである。ジョルジュ・ダンダンの悲劇性と喜劇性、アンジェリックの悲劇性、ソッタンヴィル夫妻の喜劇性、モリエールの鋭い社会洞察眼すべてが牧歌的世界観と相まってひとつの世界観を作りだしているのである。

文学研究において演劇はそのテクスト性を重視するが、公共のスペクタクルとしての側面がある[72]。公共のスペクタクルにはスポーツ、サーカス、花火、パレードなどが含まれ、人々が集い見物する場で、幻想、あるいはフィクションを観客に提供する演劇にも共通する。その意味において『ジョルジュ・ダンダン』も今後は喜劇の部分だけでなく、ヴェルサイユにおける「国王の大いなる祝祭」で上演されるという目的を含めた作品として見直す必要があるだろう。劇作品が現代において上演される際に、作者と同等かそれ以上に演出家の意志が含まれる。けれども、文学作品として、また17世紀のフランス演劇として考える時、本来の完全な形の作品と向き合ってくことが大切である。バンジャマン・ラザールのような復興演出の試みの重要性も改めて明らかになるだろう[73]。そのうえで、フランス・オペラの誕生へと続くモリエールとリュリの共作を見直しながら、ルイ14世の治世における演劇の役割を改めて紐解いていきたい。

****************************



[1] ヴェルサイユ宮殿における1668年の祝祭「国王の大いなる喜び」とその際に初演された『ジョルジュ・ダンダン』の日程は一般に7月18日とされている。しかし、現存するこれらについての報告書、記事、書簡に記されている日程は記録者によって異なる。祝祭についての公式報告書「1668年7月18日のヴェルサイユにおける祝祭の報告書」Relation de la fête de Versailles du dix-huitième Juillet mil six cent soixante-huitを書いたアンドレ・フェリビアンの「1668年7月18日のヴェルサイユの祝祭」、モンティニ神父の「1668年7月18日のヴェルサイユの祝祭」La fête de Versailles du 18 Juillet 1668、バラールによる祝祭の際に配布された「ヴェルサイユにおける国王の大いなる喜びのパンフレット」Livret du Grand Divertissement royal de Versaillesには7月18日とある。1668年出版のラ・グランジュ版モリエール全集には15日、シャルル・ロビネの書簡Lettre en vers à Madame du 21 juillet 1668には16日、7月21日の『ガゼット』紙La Gazetteには19日となっている。ラ・グランジュの『帳簿』Registreでは劇団は7月10日にヴェルサイユに出発し、『ジョルジュ・ダンダン』を上演し戻ってきたのは19日であるとの記述しかない。
Cf : André Félibien, Les Fêtes de Versailles, édition de Michel Jeanneret, Gallimard, 2012 ; Montigny, abbé de, « Relation de la Feste du 18 juillet 1668 à Monsieur le marquis de La Fuente », Recueil de diverses pièces faites par plusieurs personnages, La Haye, J. et D. Stencker, 1669, [in] Molière, Œuvres complètes, t. I, édition de Georges Forestier, Gallimard, coll. Pléiade, p. 1185-1190 ; les autres documents sont dans le site « Molière 21 », direction de Georges Forestier (http://www.moliere.paris-sorbonne.fr/).
[2] マリー=クロード・カノヴァ=グリーン「王の思惑、劇作家モリエールの戦略」、前掲書、8巻、p. 387。拙論、「モリエールのドラマツルギー~Défi 挑戦~『タルチュフ』と『ドン・ジュアン』」、『コミュニケーション文化論集』第16号、2018年、p. 60。
[3] Robert Ballard, « Sujet de la Comédie qui se doit faire à la grande Fête de Versailles », Le Grand Divertissement royal de Versailles, Paris, 1668, Molière, Œuvres complètes, op. cit., p. 1016. バラール「ヴェルサイユにおける王の盛大なる祝祭にて上演予定の喜劇の題材」『ヴェルサイユにおける王の盛大なる祝宴』(祝祭の時に配布されたバラールによるパンフレット)、『モリエール全集』、秋山伸子訳、臨川書店、2001年、7巻、p. 6。
[4] アラン・クプリ「モリエールと宮廷」、『モリエール全集』、前掲書、6巻、p. 250。 拙論、「モリエールのドラマツルギー~Défi 挑戦~『タルチュフ』と『ドン・ジュアン』」、前掲論文、p. 62。
[5] 6回目にはスペクタクルの上演はなかった。
[6] ジャン=マリー・アポストリデス、『機械としての王』、みすず書房、1996年。
[7] 拙論、「ヘラクレスに象徴されるルイ14世」、『人文学報』第514-15号、2018年、p. 309-325。
[8] Félibien, op. cit., p. 29-101. フェリビアン「1668年7月18日のヴェルサイユにおける祝祭の報告書」前掲書、7巻、p. 385~398参照。
[9] 着工は1680年のことである。
[10] Félibien, op. cit., p. 69. フェリビアン、前掲書、p. 396-397。
[11] Christian Huygens, Œuvres complètes de Christiann Huygens, La Haye, M. Nijhoff, 1895, t. VI, p. 246 (lettre 1655, 27 juillet 1668). ホイヘンスはフランス財務相ジャン=バティスト・コルベールの招きでパリに移住し、外国人として初めてアカデミー・ロワイヤル・デ・シアンスの会員となり、1681年までパリで活躍した。
[12] 前掲書、p. 398。
[13] 前掲書、p. 399。
[14] Ibid., p. 41-43. フェリビアン、前掲書、p.389-340。
[15] Ibid., p. 42-43. 同上。
[16] Ballard, op. cit., p. 1016. バラール、前掲書、p. 6。
[17] Félibien, op. cit., p. 96-97. フェリビアン、前掲書、p 398。
[18] Ibid., p. 97. フェリビアン、前掲書、p 390。
[19] Christian Huygens, op. cit., p. 246. 
[20] Ibid., p. 56. フェリビアン、前掲書、p 393。
[21] Ballard, op. cit., p. 1016. バラール、前掲書、p. 6。
[22] Ibid., p. 47. フェリビアン、前掲書、p 392。
[23] この理想の喜劇はキケロに遡る。拙論、「モリエールのドラマツルギー~プレリュード~『女房学校』論争」、『コミュニケーション文化論集』第15号、2017年、p. 31。
[24] Ibid., p. 1574.
[25] Molière, op. cit., t. I, p. 1574-1575.
[26] ラ・グランジュ『帳簿』、前掲書、10巻、p. 128-131。
[27] Ballard, op. cit., p. 1016. バラール、前掲書、p. 6。
[28] Félibien, op. cit., p. 47. フェリビアン、前掲書、p. 392。
[29] アラン・クプリ、前掲書、6巻、p. 249.
[30] 前掲書、p. 255.
[31] 同上。
[32] 前掲書、p. 257。
[33] アラン・クプリ、前掲書、p. 393。
[34] 前掲書、p. 257。
[35] Molière, George Dandin, Œuvres complètes, op. cit., Acte II, scène 3, p. 993-994. モリエール『ジョルジュ・ダンダン』、『モリエール全集』、前掲書、p. 52。
[36] アラン・クプリ、前掲書、p. 257。
[37] Pauline Decarne, « Le Grand Divertissement royal de Versailles (1668) ou l’actualité paradoxale : l’événement, le pouvoir et la mémoire », Littératures Classiques, 78, 2012, p. 222-227.
[38] ロジェ・シャルティエは祝祭においてこの音楽バレエ付き喜劇を一つのスペクタクルとして楽しんだのか、モリエールの喜劇としてなのか、音楽バレエの側面なのかと疑問を提示している。そして喜劇と並行して一つの田園劇が組み込まれていること、それが喜劇の主題にぴったり合っているこというフェリビアンの報告を考察し、その価値を言及している。Voir Roger Chartier, « George Dandin, ou le social en représentation », Annales HSS, mars-avril 1994, no. 2, p. 285-288, sq.
[39] Saint-Maurice, op. cit., p. 205.
[40] 『女房学校』論争、『タルチュフ』をめぐる論争など物議をかもす作品を打ちだすなど、彼の作品は常に人々の話題に上っていた。
[41] Montigny, abbé de, op.cit., p. 1185-1190.
[42] Félibien, op. cit., p. 43. フェリビアン、前掲書、p. 390。
[43] Saint-Maurice, op. cit., p. 205.
[44] Christian Huygens, op. cit., p. 246.
[45] Ballard, op. cit., p. 1016. バラール、前掲書、p. 4。
[46] 同上。
[47] 拙論、「モリエールのドラマツルギー~プレリュード~『女房学校』論争」、前掲論文、 p. 21。
[48] Ballard, op. cit., p. 1016. バラール、前掲書、p. 7。
[49] Molière, George Dandin, op. cit., Acte III, scène 8, p. 1013. モリエール『ジョルジュ・ダンダン』、前掲書、p. 92。
[50] 『モリエール全集』鈴木力衛訳、中央公論社、3巻、p. 385。
[51] Molière, Le Grand Divertissement royal de Versailles, Œuvres complètes, op. cit., Le troisième acte de la comédie qui se récite, p. 1021. モリエール『ジョルジュ・ダンダン』、前掲書、p. 92。
[52] 『モリエール全集』秋山伸子訳、前掲書、p. 8。
[53] Molière, Le Grand Divertissement royal de Versailles, op. cit., Le premier acte de la comédie qui se récite, p. 1020. 前掲書、p. 40。
[54] Ibid., 同上。
[55] Ibid., Le troisième acte de la comédie qui se récite, p. 1021. 前掲書、p. 92。
[56] Ibid., 同上。
[57] Ibid., p. 1025. 前携書、p. 98。
[58] Ibid., 前携書。
[59] Félibien, op. cit., p. 47. フェリビアン、前掲書、p. 392。
[60] 『フランス十七世紀演劇集 悲喜劇・田園劇』、中央大学人文科学研究所、翻訳叢書12、「十七世紀演劇を読む」チーム訳、中央大学出版部、2015年、p. 44。
[61] 前掲書、p. 45。
[62] 前掲書、p. 45-46。
[63] Félibien, op. cit., p. 53-64. フェリビアン、前掲書、p. 393-395、Christian Huygens, op. cit., p. 246 ; Montigny, abbé de, op. cit., p. 1182. 
[64] Ballard, op. cit., p. 1016. バラール、前掲書、p. 7。
[65] Roger Chartier, op. cit., p. 285-288, sq.
[66] Félibien, op. cit., p. 64. フェリビアン、前掲書、p. 395。
[67] フランス・オペラ誕生は、田園を舞台とした台本ペラン、作曲カンベールによる果実の女神の恋物語『ポモーヌ』(1671)であり、リュリとキノーのコンビによるフランス・オペラの開幕を予告するものであった。リュリにとってモリエールとの創作はその習作であったと考えられるだろう。
[68] Félibien, op. cit., p. 46. フェリビアン、前掲書、p. 391。
[69] Ibid., p. 64、前掲書、p. 395。
[70] リュリの初のオペラはキノーの脚本による『カドミュスとエルミオーヌ』Cadmus et Hermione (1673)である。モリエールから決別した後、次々とヒット作を生み出し、フランス・オペラの黄金時代を築いていく。
[71] Ibid., p. 47、前掲書、p. 392。
[72] Alain Viala, Histoire du théâtre, PUF, coll. Que sais-je ?, (2005) 2014, p. 9. アラン・ヴィアラ『演劇の歴史』高橋信良訳、白水社、文庫クセジュ、(2008)2010年、p. 14。
[73] バンジャマン・ラザールの復興演出によってモリエールの『町人貴族』(2004年)、『カドミュスとエルミオーヌ』(2008年)が上演された。


2018/09/21

このページのURL:

管理:立教大学文学部 桑瀬章二郎
本ホームページの記事、写真、イラストなどの著作権は立教大学文学部桑瀬章二郎または、その情報提供者に帰属します。無断転載、再配信等は一切お断りします。