「服従」の深層(ルソー『新エロイーズ』) ―クララン共同体に生きる人々の「原理」再考―[1]

出口夢々(立教大学文学部4年)

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序論
人はなぜ服従するのだろうか、人が服従するとはいかなることだろうか。

本論文の目的は、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau,1712-1778)の書簡体小説『新エロイーズ』(Julie ou la Nouvelle Héloïse,1761)[2]を「服従」というテーマから読み直し再検討することにある。作品内に描かれている「欲望」とそれに付随する「抑圧」を分析しつつ、主にクララン共同体の人間関係における「服従形態」の深層に迫ることはできないだろうか[3]

『新エロイーズ』は18世紀フランス最大のベストセラーのひとつである。作中に登場するジュリは、作品が発表された当時の女性たちから圧倒的な支持を得るだけにとどまらず、ジュリの姿に見出される規範や徳性に対して多くの女性が理想を抱いた[4]。本論文で主眼を置くクララン共同体は、地理的に他の共同体から孤立し、社会的階級が巧みに隠された小世界であり[5]、ジュリの夫であるヴォルマールが、登場人物(主にジュリやサン=プルー)を、徳高き人間に生まれ変わらせようとする試みが実践される場でもある。

これまでジュリとサン=プルーをめぐっては、「欲望」や「統治」といった様々な観点から論じられてきた。しかしそうした観点ではなく、仮に「服従」と名付けられるもの――多様で重層的な意味を持ち、様々な人物の相互関係の中で時には現れたかと思うと姿を消すような、捉えどころのない概念であるわけだが――、そうした「服従」という曖昧な概念をここでは戦略的に導入することによって、『新エロイーズ』について、あるいはこの有名なクララン共同体について、これまでとは全く異なる、新しい分析を展開することはできないだろうか[6]。「服従」という視点がどれほどまで登場人物に通底しているのか、さらに「服従」が如何に機能しているのかという問題は、『新エロイーズ』という作品全体において、とりわけクララン共同体を論じる中で、必ず分析されなければならない主題であるだろう[7]。我々は第1章でクララン共同体においてヴォルマールが導入した抑圧のシステムを「服従」という観点から考察し、第2章ではジュリによる情欲の抑圧方法も同じように「服従」という観点から検討する。そして第3章では、クララン共同体における人物関係の複雑性と、そのような抑圧方法がクララン共同体へいかなる運命を与えたのかを分析していく。

『新エロイーズ』において支配=服従関係の成立の形態が、どれほど曖昧に隠蔽されているのか――。そこでは、単に「服従」という単語から想起されるような、忍従でも功利的でも、信従でも賛従でもない[8]、極めて複雑で特異な「服従」の形態が描かれているのではないか。

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1. ヴォルマールによる行動の抑圧
1-1.「意識的服従」――ヴォルマールからサン=プルーへ

『新エロイーズ』で描かれるクララン共同体は、ジュリの夫であるヴォルマールが、まるで神のごとく君臨し、理性と意志によって統治をはかる、ある種のユートピア的な空間だ。ジュリとの関係が露呈し、家庭教師の職を続けることができなくなったサン=プルーは世界一周の旅に出た後、長い年月を経てスイスに帰国する。彼は、ヴォルマールの抱くある目的を果たすためにクララン共同体に招かれ、そこの一員となり、一つの選択を迫られる。それは、サン=プルーがジュリと差向いで会話する際、あたかもヴォルマールが目の前にいるかのように振舞うか、あるいはヴォルマールの前であたかもヴォルマールがいないように振舞うか、という選択だ。この選択は、クララン共同体で生活する者たちの「友情(amitié)が破れないように[9]」するための掟であり、二者の内どちらを選択するかは「自由(librement)[10]」であると語られる。なお、ここで語られる「自由」とは、法律や法の抑制を通じて、国家が国民の行動を制限するのをどの程度避けるかに関わる「政治的自由[11]」を意味しているということを留意しておかなければならない。つまり、ヴォルマールはサン=プルーをはじめとするクララン共同体の住民にこの選択を「自由に」させるわけだが、この「自由」は、ヴォルマールの「法」に従った者だけに与えられるものであるのだ[12]

そこでサン=プルーは前者――ヴォルマールの不在時にも彼が目の前にいるかのように振舞うこと――を択び、常に彼の視線を意識しながら(ヴォルマールに監視されているような感覚を持ちながら)生活する。そして、エドワード卿へ宛てた第4部書簡10で以下のようにヴォルマールの「法」を説明する。



主人の技術〔art〕はただこの拘束〔gêne〕を快楽〔plaisir〕もしくは利益〔intérêt〕の仮面の下に隠し、彼らが強制されている〔oblige de faire〕一切のことを自ら欲しているように思わせる点にあります[13]

サン=プルーは、ヴォルマールの「法」を、束縛(gêne)を自らの欲望(désir)に錯覚させる技術・人為(art)として描いていると分かる。技術・人為(art)は『新エロイーズ』が発表された18世紀特有の実に複雑な問題であり、それは時に自然(nature)と対比するものとして、論じられてきた。その技術・人為と自然をめぐる問題はここにも反映されており、技術によって抑圧される心を自然なものにすり替えるという試みが行われる[14]

さらにここで着目したいのは、ヴォルマールの「法」を述べるサン=プルーの視点の客観性である。サン=プルーはこの書簡の中で、ヴォルマールが如何にして従僕らに忠誠を守らせているかということを説明しているわけだが、この「法」が自分自身にも適応されているとは気づいていない。その観察者のようなサン=プルーの視点は第4部書簡11の中で引き続き保持される。



服従の中には不機嫌もなければひねくれもありません。それは命令の中に横柄さもなければ気紛れもないからであり、人は[on]道理もなければ益もないことは何一つ強請せず、隷従の境遇にあるとは言え、人は[on]人間の品位を十分に重んじて、人を卑しくしないことにしか従事させないからです[15]

クララン共同体を支配する主体はヴォルマールやジュリだと考えられるが、原文であえて従僕に命令する主体が明示されていないのは、ヴォルマールの「法」に対する、サン=プルーの無意識的服従の意を内包しているからではないか。つまりサン=プルーは、ヴォルマールの「法」に従っている従僕たちの姿を見ても、彼らの姿と自身の姿を重ねることはなく、自分はその服従形態から外れたところにいる存在、すなわちクララン共同体において自由を享受している存在だと認識していると解釈できる。この、自由を搾取されながらも自由を享受している(隷属関係から逃れている)と思わせてしまう奇妙な自己認識を、ここでは仮に「無意識的服従[16]」と呼びたい[17]

サン=プルーはこの無意識的服従の下、ヴォルマールによる「試練[18]」を乗り越え、かつて抱いていたジュリへの欲望を喪失したと認知する。そのようなサン=プルーの姿を見て、ヴォルマールはクララン共同体を不在にすると決める。ヴォルマールの視線の内在化に「成功」したサン=プルーは、自らの欲望を抑圧し、理性的な人間へと生まれ変わったと信じるわけだが、ヴォルマールが不在になるやいなや、恐ろしさを感じるのである。



ヴォルマールさんは昨日エタンジュヘ行かれましたが、あの方が出発されたために陥ったこの憂鬱な気持ちはどういうことなのか自分でも理解に苦しみます。あの方の奥さんが遠くへ行かれた〔éloignement〕よりはわたしを苦しめまいと思います。わたしはあの方が眼の前におられた時よりもっと束縛を感じています〔contraint〕。陰鬱な沈黙が心の底に支配し、密かな恐怖が心の呟きを抑えつけておりまして、欲望よりはむしろ不安〔craintes〕に心を搔き乱されながら、罪の誘惑も怒らぬのに罪の恐ろしさ〔terreurs〕を感じているのです[19]

ヴォルマールがクララン共同体を離れた途端、サン=プルーは錯覚に気づき、「束縛を感じる」(contraint)ようになったと語る。つまり、サン=プルーに適用されたヴォルマールの「法」は視覚の内在化により「成功」していたかと思われたが、実際には「距離」(éloignement)の作用でもあったとも解釈できるのだ。そして、ヴォルマールの視線を完全に内在化できていないと感じたサン=プルーは、不安(craintes)や恐怖(terreurs)といった感情を抱くのである[20]

「過去はなお現存し、つねに抑圧されなければならない[21]」という思想を抱き、過去を(というよりも思い出に伴う欲望を)抑圧しようと努力し続けるサン=プルーとジュリにとって、不安や恐怖は絶え間なく彼らに付きまとう感情だろう。サン=プルーはヴォルマールの視線を内在化することによって、つまり第三者の視線を借りて常に理性を働かせることによって徳高き人間へ生まれ変わろうと努力する。ところが、これに対しジュリは、ヴォルマールへ服従しているように“見せかけ”ながら、自身の制定した「規律」によって淑徳の女へと生まれ変わろうと試みているのだ。

1-2. 救済のための「支配」――ヴォルマールからジュリへ
夫が統治する共同体で生きるジュリは、なぜヴォルマールの「法」に従わず、自身の定めた「規律」によって生まれ変わりを試みたのか。これは我々読者の誰もが抱く疑問であると言えるが、この疑問について考察する前に、この節ではヴォルマールがジュリへ施そうとした方法について分析していこう。前節で述べたように、サン=プルーはヴォルマールの視線を内在化したわけだが、一方それとは対照的な行動をとるジュリの姿をサン=プルーは目撃する。



ヴォルマールさんがその話の最中に入って来られましたが、困ったことには、あの方はヴォルマールさんの目の前で、まったくまるでそばにヴォルマールさんがおられないように話し続けられるのでした[22]

ジュリは、ヴォルマールの前であたかもヴォルマールがいないように振舞うことを選ぶ。しかし、空間を共にする人間を不在の者として認識することは、むしろ常にヴォルマールの存在を意識していると分析できるのではないだろうか。

意識の「純粋性[23]」が必要とされるクララン共同体において、ジュリはヴォルマールの「法」に従っているように振舞うことで、自身の意識が純粋で透明なものであるかのように自らを提示する。そのようなジュリの姿を見たヴォルマールは、自身の制定した「法」によって彼女の抱く欲望を昇華させることに成功したと思い込む。そして、その「法」を完全に遂行するための「工程」に入るためにサン=プルーをクララン共同体に招いたのかもしれない。この恐ろしい「工程」はヴォルマールがジュリの従姉妹・クレールに宛てた手紙で明らかにされる。



これが謎の本当の心です。あの人から記憶を取ってしまえば、もう恋心を抱かなくなるでしょう[24]

数ある記憶論の中から、ここでは恣意的にポール・ヴァレリーを参照してみよう。ヴァレリーは「記憶とは何よりもまず、関係を保持するという目的を持つ[25]」と述べるが、ジュリとサン=プルーにとって、ヴァレリーの語る記憶の目的は非常に重要な役割を担っていると言えるだろう。なぜなら、ジュリとサン=プルーの二人の関係性を証明するにあたって、記憶はあまりに重要すぎるものだからだ[26]。なぜなら、彼らのかつての関係をすべて記憶しているのは二人だけであるため、記憶が奪われてしまうことは、出来事や感情に関連するすべての事実を喪失することにつながるからである。つまり、ヴォルマールがサン=プルーの記憶を「奪う」(ôter)ことで、これまでの「サン=プルー」という人間を空虚なものとし、ジュリと彼の関係性をも無に帰する効果があるのだ[27]。仮に、記憶を失い空虚な人間となったサン=プルーをジュリが目撃(voir)するとしたら、ジュリの中にあるかつてのサン=プルー像も、欲望も崩壊し、彼女の過去(サン=プルーとの出来事だけでなく、それと関連して想起させる彼女の母の死などといった苦しい出来事)を一括して、その事実性を不明瞭にさせる効果があるのだ。過去に囚われ続けるジュリにとって、記憶を奪われることは彼女の苦悩を取り除くための救済方法になるのかもしれない。しかし、この方法は極めて危険であり、凄惨なものだと言えるだろう[28]

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2.ジュリによる情欲の抑圧
2-1. 「自己服従」――ジュリからジュリへ

こうしてヴォルマールは自身の設定した「法」によってジュリとサン=プルーを徳高き人間へと導き、欲望を抱くことのない理性的な人間へ転生させようとしたわけだが、その「法」の力は十分に発揮されない。というのも、ジュリはヴォルマールの「法」に服従していると“見せかけ”、実際は自らの行動を自らの「規律」によって秩序づけることで、情欲を抑圧しようと試みていたからである。

それは、ジュリの言葉の節々に散りばめられた単語の多義性によって説明することができる。まず、ジュリがヴォルマールの「法」に抗う精神は、彼女が結婚直後にサン=プルーへ宛てた手紙に示されている。



わたくしは解くことのできない鎖によりまして夫の運命に、と申しますより、父の意志に結ばれて、死ぬときでなければ終わってはならない新しい境涯にはいりました。この境涯を始めますにあたり、別れを告げました境涯の上に暫らく眼を注いでみましょう〔jetons un moment les yeux〕。あれほど懐かしい〔cher〕時代を思い起しますことはわたくしたちにとって辛いことではございますまい。恐らく〔Peut-être〕そこにわたくしはこれからの時を善用するのに有益な教訓を見出しますでしょうし、また恐らく〔peut-être〕あなたはわたくしの振舞いにつきましてもあなたのお眼に分かりにくかったところを説き明かす光明をお見つけになることでしょう[29]

ジュリは、自身の娘時代における出来事を“思い出す”のではなく、「見る」(voir)という行為で捉えている。本来であれば懐古することは、自身の記憶を遡って考える行為であるともみなせるが、視覚に関する言葉を用いていることから、彼女は過去を客観的なものとして、つまり自身の過去(記憶)であるのにもかかわらず自分自身とは分離したものとして、認識しようと努めていると言うこともできる。だが、このようなジュリの努力とは裏腹に、彼女は言葉の端々からは、自分自身の力の及ばないところで力が働いたがために、ヴォルマールとの結婚が決められ、自身が「拘束」された存在になってしまったという意識が垣間見える。というのも、上記の引用箇所には多義的に意味をとることのできる単語がいくつか使用されており、そこから我々は、ジュリの本心といえるかもしれないものを読み取ることができるとも言えるからだ。まず冒頭の単語«liée»は、邦訳では「結ばれた」と訳されているが、この単語には他にも「縛られた、束縛を受けた」という意味を持つため、ジュリは自身が父の意志に拘束された存在だと、そしてこの結婚はジュリ自身が望んだものではないのだと、サン=プルーに打ち明けていると解釈できなくもない。さらに、ジュリの「拘束されている」という意識は、鎖を意味する«chaîne»や、義務の意を含む«doit(devoir)»といった単語からも読み取れる。そして、«cher»は「懐かしい」と訳されているが、「大切な、愛おしい」という意味で理解する可能性も完全に否定されるわけではない[30]。このように、単語を多角的に捉えると、ジュリの「真意」が見えてくると言える。また、過去の出来事が、今後の自分たち(ジュリとサン=プルー)にとって有用なものとして働くと説くジュリだが、そういった言葉が、「恐らく」(peut-être)という単語ともに述べられている点から、過去を断ち切ることのできていないジュリの姿も見えてくる。

しかし、ジュリはヴォルマールから与えられた、有限な「自由」の中で、自身の運命の舵をとるために、彼女とサン=プルーを引き離す原因となった、そしてヴォルマールや父に拘束される原因となった「欲望」を、厳密なまでに抑圧するようになる。ジュリとサン=プルーが初めて本格的な身体接触を持ったのは、あの木立での接吻[31]の時であるが、その出来事をジュリは以下のように振り返る。



クラランの木立でわたくしは余りに自信を持ち過ぎておりましたこと、官能に対して何かを拒もうと思っている時には何一つ許し与えてはならないものだということを学びました[32]

木立での接吻は、サン=プルーの徳性を高めるために、ジュリによって与えられたものであったわけだが、ジュリは官能を授与する立場であったのにもかかわらず、その行為によって自身の官能も掻き立てられてしまったと回顧する。この学びから、ジュリは欲望を「規律」によって抑圧するようになるのだ。さらに彼女は「欲望は常に抑圧され続けておりますともう生まれてこないことに慣れるもの[33]」であると語る。このジュリの発言から、彼女は欲望を常に抑圧することで、その感情を無意識的領域に落とし込み、自身がその感情を抱くことが二度とないよう注意していると解釈できる。これは記憶を消去することによって欲望を喪失させようとしたヴォルマールの考えとは完全に性質の異なる思想である。ジュリは欲望を抑圧するが、滅絶させようとはしない。つまり、欲望を無意識的領域に仕舞うことで、それを意識しないよう努めるが、自身のアイデンティティを形成する重要な要素として、欲望を、そしてそれに付随する記憶を、自分自身の中に残しておこうとしているのではないか、と考察できる[34]

そして、ジュリは自身の「規律」に従順でいるために、ヴォルマールと結婚した後は、彼の「法」に従う“ふり”をし始める。これは、クレールから、「女性は隷属しない限り自由があがなわれない[35]」存在であるため、「自分の主となるためには先ず婢にならねばならない[36]」という忠告を受けたことに起因する。犠牲を払わなければ自由を獲得できないと説かれたジュリは、自身に課す「規律」を守りつつ、自由を得るためにヴォルマールに服従するふりをしはじめるのだ[37]。そしてこの複雑な心理状況は、ジュリの心を、まるでヴェールに包まれたかのように不明瞭にしていく。ルソー作品において、ヴェールは分裂と死のアレゴリーであり[38]、ヴォルマールもその寓喩に気づいているが、自身の「法」ではなかなか救済には至らない。そこで、ジュリを分裂と死から救済するための方法の一つとして、サン=プルーがクララン共同体に招かれたのだ。

このような状況を経て、サン=プルーがクララン共同体でジュリたちと共に暮らすことになったのだが、サン=プルーはクララン共同体で、「それ〔=欲望〕を一度享楽せんがために二十度断つ[39]」という奇妙で過激な「規律」に従って生活するジュリを目撃する。そして、そのようなジュリの姿を見たサン=プルーは、彼女の「規律」を、「我が身を鎖で縛ること[40]」もなく「欲望を消す法[41]」でもない、「一時的な、節度のある禁断[42]」であると、エドワード卿に宛てた手紙の中で語るのである。さらに、サン=プルーは「規律」について以下のように述べる。



この事においてさらにあの方が志しておられるもっと高尚な目的は、いつまでも自分の主となり、情念を服従に慣らし、あらゆる欲望を規律に服させることです。これは幸福になるための新しい方法です。何故なら、人が不安なしに享楽するものは、失っても苦労のないものだけなのですから。真の幸福は賢者のものであるという訳は、賢者はあらゆる人間の中で運命が奪い得るものを持つことの最も少ない人間だからであります[43]

「人が不安なしに享受するものは、失っても苦労しないもの」という一文は、「人が不安とともに享受するものは、失ったら罰を受けるもの[44]」と読み替えられる。「不安とともに享受するもの」とは、ジュリとサン=プルーのかつての関係性を想起させる。つまりジュリは、自分が自分の主人になることで、過去に味わった苦悩や「罰」を再び経験する可能性を低くしようとしていると解釈できるのだ。というのも、「罰」は言わば主従関係の上に存在するものであるため、自分が自分自身の主人になれば、他人から「罰」を与えられることなどないからである。故に、ここではジュリが自分自身を服従させることを仮に「自己服従」と呼ぶことにしたい。この「自己服従」はジュリの「規律」の根底にあるものとして捉えることも可能ではないか。以下、このような観点からさらに分析を進めてみたい。

2-2. 「規律」の強要――ジュリからサン=プルーへ
前節で見てきたジュリの「自己服従」の精神のもと制定された「規律」は、ヴォルマールの「法」に「無意識的服従」をするサン=プルーにも適応される[45]。サン=プルーはヴォルマールの視線を内在化した存在であるわけだが、本来ならば女性しか立ち入ることの許されない子供部屋にジュリによって招かれ、そこで乳製品やお菓子を共に食べる。サン=プルーは、エドワード卿に宛てた手紙の中で、「乳製品とお砂糖は女性の生来の嗜好品の一つで、言わば無邪気と優しみとのシンボルでして、この二つは女性の最も愛すべき飾り[46]」と述べており、乳製品等のお菓子は「女性」(sexe)性を含意する食べ物だと認識していると分かる。サン=プルーが語る乳製品や砂糖の特徴を踏まえた上で男子禁制の子供部屋にサン=プルーを招くというジュリの行動を考察してみると、ジュリはサン=プルーに女性性の強い食べ物を与えることによって、彼の元来の性である「男性」(homme)に女性性を言わば加え、サン=プルーの性を曖昧なものにさせようとしていると解釈できなくもない。このようにジュリは、ヴォルマールが自身の「法」でサン=プルーの欲望を抑圧しようと試みるのに対し、ジュリは自身の「規律」でサン=プルーの欲望を抑圧しようと考えているのだ[47]

しかし、食べ物によってサン=プルーの欲望を「規律」することがさほど効果的な方法でないということは、エリゼの庭という自然溢れる場所に感激させられて[48]、「鳥に餌をやる役目を引受けることを許していただきたい[49]」とジュリとヴォルマールに頼むサン=プルーの姿を見れば明らかである。そもそもエリゼの庭で飼われている「鳥」は、小西嘉幸氏がすでに指摘しているように、ヴォルマールにとっては、クララン共同体で共に生活する召使やサン=プルーといった住民のメタファーであり、サン=プルーにとっては、彼の無意識下にひそむ、囚われと自由へのアンビヴァランスな願望の現れである[50]。また、「鳥」は田園詩の伝統において、恋の炎を燃え上がらせる重要な要素であるため、サン=プルーが「鳥」の世話をする役割を自ら申し出るということは、アンビヴァランスな願望を保持しつつもジュリに対する欲望が完全には失われていないことを明示しているのかもしれない。

さらに、サン=プルーは、餌をやる許可を請うのと同時に、餌をやるためにエリゼの庭の「鍵」(clef)を預かりたいとも依頼する。そこでジュリは「鳥」の餌とともに彼女の持っている鍵を渡すわけだが、サン=プルーは「ジュリの鍵よりもヴォルマールの鍵の方がよかった[51]」と落胆する。本稿では、いわゆる精神分析的解釈から距離を置くが、この場面におけるサン=プルーの心理は、フロイトが『精神分析入門』の中で論じる夢の象徴的表現を取り入れ考察してみることも可能だろう[52]。フロイトは、庭は女子性器の象徴であり、咲き誇る花や草花は処女性をさすとし、さらに鍵は男性の象徴であると示すと述べていた。これらの象徴的表現を『新エロイーズ』に対応させると、エリゼの庭はジュリの処女性を備える女子性器であり、サン=プルーが手に入れたがったヴォルマールの鍵はヴォルマールの男性器と捉えることが可能になるかもしれない。ここから、サン=プルーは、ヴォルマールの男性器を奪い、ジュリの内奥に接触できるヴォルマールの立場を自分自身のものにしたいという欲望を抱いていると解釈できる、というわけだ。

第4部書簡12で語られている、ヴォルマール立会いの下サン=プルーとジュリが木立で再び接吻をする有名な木立での出来事や、第4部書簡17で描かれている、ジュリとサン=プルーが二人の思い出の地であるメーユリを訪れた出来事を経て、サン=プルーは自分自身が理性的な人間へ生まれ変わったと信じ込んでいくのだが、それとは対照的にジュリがサン=プルーへ与える「規律」は厳しさを増していく。ジュリの「規律」の厳格さはとりわけ以下の場面において顕著である。



あなた、これこそわたくしたちが一緒になりましても危険〔danger〕がないようにするためにわたくしの考えております手段でございまして、あなたがわたくしたちの心の中で占めていらっしゃるのと同じ地位をわたくしたちの家庭の中であなたにお与えするのです。わたくしたち全部を一体に結び合わせる大切な、神聖なきづな〔le nœud cher et sacré〕に依りまして、わたくしたちの間柄はもう兄弟姉妹にほかならなくなるのです[53]

ジュリはサン=プルーが教育係としてクララン共同体に永住するにあたり、従姉妹であるクレールとサン=プルーを結婚させようと企てる。ジュリは、サン=プルーをクレールの夫にし、サン=プルーと「大切な、神聖なきづな」(le nœud cher et sacré)で結ばれることによって、ジュリとサン=プルーが二度と恋愛関係に発展することがないよう予防線を張るのだ[54]。しかし、「危険」(danger)に対するジュリの過剰な反応は、用心深い淑徳の女性像といったイメージより、寧ろ、ジュリはサン=プルーに対して今もなお欲望を抱いているのではないかという疑惑を我々に与える。そしてここで我々が抱くこの疑惑は、次に見ていくように、ジュリの死とクララン共同体の崩壊によって明かされるのである。

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3.クララン共同体の崩壊
3-1. 「意識的服従」――ジュリからサン=プルーへ

前章で見てきたように、サン=プルーはクララン共同体において、ジュリの奇妙な「規律」に従って生活しているわけだが、これは言わば意識的な行動であると解釈できる。ここからは、被支配者であるサン=プルーが語る自身の隷属状況について着目し、分析を進めていきたい。

クララン共同体では毎年葡萄の栽培・収穫を行っており、そこで暮らす者たちは自分たちが収穫した葡萄を使用した葡萄酒を日常的に摂取する。サン=プルーも例外なく葡萄酒を飲むのだが、「お二人のお従姉妹さまの中のどちらかのお手から注いで頂いたものでない限り飲みはしない[55]」という、限定的な飲酒方法を実践する。このような方法をとる理由を「わたしの理性をどのように操縦すべきかということ、わたしから理性を奪ったり恢復させたりする法をお二人以上によく心得ている人がありましょうか?[56]」とエドワード卿に述べており、ジュリとクレールにはサン=プルーの「理性」(raison)を奪ったり恢復させたりする権利があると明示されている。また、理性の管理者について問うこの一文は疑問符で終わっており、反語表現になっていることからも、サン=プルーは自身の理性を管理する権利が二人にあると断言していると言えるだろう。つまり、ジュリとクレールはサン=プルーの理性を支配する立場にあり、クララン共同体においてもサン=プルーは二人と主従関係を結んでいると解釈できなくはないのだ。さらに興味深いのは、サン=プルーはこの飲酒方法を、そして、ジュリとクレールに理性を管理してもらうことを、意識的に行っているということだろう[57]

そもそも、意識的にジュリの命令に従おうとするサン=プルーの姿は、物語の序盤から既に描かれている。「あなたがどのような事をお命じになりましょうと、わたくしはただ従うことしかできないでしょう[58]」と、ジュリに宛てた二通目の手紙の中で語るサン=プルーの言葉には、「~しかない」(ne......que)という強調表現が用いられていることから、彼のジュリに対する強い忠誠心が見出せる。彼らの主従関係が意味しているのは、サン=プルーはジュリに服従しなければ自己を確立することができない存在であるということだろう。主従関係においてはある種の「罰」が必要だと考えられるが、ジュリとサン=プルーの主従関係において、その「罰」に値するものは、サン=プルーがジュリから愛されなくなること、そして、サン=プルーがサン=プルー「自身」でいられなくなる、つまり、存在レベルで彼自身の立場が不確かなものになるということだろう。そもそも「サン=プルー」という名は仮名であり、我々読者は彼の本当の名を知ることができず、彼の素性も平民[59]であるとしか知ることができない。仮名には、「本名を伏せて、かりにつける名[60]」という意味があることから、物語の最後までと仮名で呼ばれるサン=プルーの姿に、我々は彼の空虚さを見出すことができる。さらに、折方のぞみ氏が指摘するように、サン=プルーはジュリを愛し、ジュリに愛されることでアイデンティティを獲得する存在であり、平民の出自であるサン=プルーは、当時の貴族社会の一般的慣習のなかに収まっている状態では存在しえなかったはずの人物であるのだ[61]。そしてサン=プルーはジュリに服従することによって、「サン=プルー」という自己の存在や価値を認識することが可能になっているのかもしれない[62]。つまり、サン=プルーは以上の理由から、ジュリに対して意識的に服従しているのだ。ここではその服従形態を仮に「意識的服従」と呼ぶことにしたい[63]

そして、ジュリからの支配によって自己を確立したサン=プルーは、「わたくしの名誉を汚して〔déshonneur〕その代償にあなたをわたくしに隷属させるより、むしろあなたの奴隷〔esclave〕になって汚れなく生きる〔vivre innocente〕方がよいのです[64]」と述べる。これは金銭問題に付随する「名誉」について語る手紙での一文だが、ここでは、奴隷(esclave)という単語が、潔白や純粋さ(innocente)という単語とともに語られている点に着目したい。サン=プルーは、ジュリの父であるデタンジュ男爵から給与を受け取り家庭教師の職を続けることよりも、給与を受け取らず、ジュリの奴隷でいることを選ぶわけだが、奴隷でいることが汚れない生き方へ発展するという考えを持つサン=プルーの姿には、「悪徳[65]」のない高い忠誠心を見出すことができるだろう。デタンジュ男爵から金銭を享受する、つまりデタンジュ男爵がサン=プルーの主人となる選択肢を捨て、ジュリとの服従関係を維持することをサン=プルーは選んだのだ。そして、このようなサン=プルーの姿から、彼自身がジュリの「奴隷」であることに対し、ポジティブなイメージを抱いていると我々に印象づける。

ジュリに意識的に服従するサン=プルーの姿は、この場面以降引き続き描かれる。ジュリとサン=プルーが恋愛関係にあることが周囲に露呈しないよう、ジュリはサン=プルーに対して、人前で親しげな態度をとることを禁じるのだが、サン=プルーは、ジュリによって行動を禁止されている状態すらも「貴いもの[66]」に思わされると語る。というのも、主従関係において、「主」であるためには「従」が、「従」であるためには「主」が存在することが必須条件である。そのため、ほとんどヘーゲル的な意味で、主従関係を成立させるためには、互いが互いを必要とする、ある種の「共依存」が不可欠であるといえよう。つまり、サン=プルーがジュリによって行動を限定されている状態を「貴いもの」と感じるのは、依存関係に、すなわち支配=服従関係に幸福さを見出しているからだと考えられる。

このジュリとサン=プルーの主従関係は、さらに強固なものとなっていく。サン=プルーは自身の心を「規正する」(régler)ために、「これまでわたしの一切の行為をあなたのご意志に従わせてきましたように、さらにまたわたしの一切の感情をもジュリのご感情に従わせなければならない[67]」と語るのだ。このサン=プルーの言葉から、感情の優位性を読み取ることができるだろう。自分自身の理性によってコントロールできる「意志」(volontés)を他人の意志に従わせることよりも、「感情」(sentiments)を従わせることのほうが困難なことかもしれない[68]。それでも、サン=プルーはジュリの感情に自身の感情を従わせようと試みる。そして、ジュリとの主従関係で働く力を「不思議な支配力[69]」と表現するサン=プルーの姿からは、強い隷属性と忠誠心が読み取れる。

さらにサン=プルーのジュリに対する服従は、ヴォルマールの「法」によって「無意識的服従」をするクララン共同体においても継続していることが判明する。



ああ、いつもわたしの運命を造られた方よ、わたしの運命の支配者たる地位から身をお引きにならないでください。わたしの考えたことを吟味なすって判決をお下しください。どのようにわたしを処置なさろうとも服従いたします[70]

上記の引用は、サン=プルーとクレールが結婚することを勧めるジュリの手紙への返信における場面である。クレールと結婚はせず、「支配者」(l’arbitre)であるジュリに一生の運命を託し、服従すると述べるサン=プルーの姿から、ヴォルマールの視線を内在化した存在であっても心はジュリに服従しているのであり、「運命」(sort)を任せているのだとも考えられる[71]

では、なぜヴォルマールの「法」に対しては「無意識的服従」をしているというのに、ジュリへは「意識的服従」をしているのだろうか。それは、ジュリに服従することでしか自分自身の価値や存在を認識できないサン=プルーにとって、ジュリへの服従は生きるために必要不可欠な行為、いわば「目的」であって、ヴォルマールの「法」に対する服従は、「目的」を遂行するための「手段」だからだと考えられる。つまり、ヴォルマールの「法」への服従はあくまでもジュリへ服従するための一つの過程にすぎず、意識するまでもない必然的な行為なのだ。そして、サン=プルーのジュリに対する「意識的服従」は2人を共依存的な「危険」な関係へと展開させる。複数の人間が抑圧の対象であるヴォルマールの「法」に対し、ジュリの「規律」は2人を意図せずして特異で強固な関係へ変化させたとも言えるのではないか。

3-2. 「欲望」の優位性――「法」と「規律」の敗北
前節では、ジュリへ「意識的服従」をするサン=プルーの姿を見てきたが、サン=プルーにとってヴォルマールへの「無意識的服従」の根底にあるものは、ジュリへの忠誠心である。ヴォルマールは自身の制定した「法」がクララン共同体において上手く機能していると考えているわけだが、実は、物語が進むにつれ、サン=プルーが加わったクララン共同体における「法」制度は崩壊しつつあるのだ。

ヴォルマールの「法」の崩壊の予兆は、ヴォルマールの不在時にジュリとサン=プルーがメーユリを訪問した際、彼女が感じた「危険」(danger)を、サン=プルーへ告白した手紙(第6部書簡7)に対する返信で見られる。サン=プルーと一緒にいる場所であればどこでも危険は発生すると述べるジュリに対し、サン=プルーは「いや、危険があるのはあなたのおそばではなく、あなたがおられないところなのでして、わたしがあなたを恐れるのは、あなたのおられないところだけなのです[72]」と語り、続けて「あの恐ろしいジュリがわたしにつきまとうときは、ヴォルマール夫人のおそばに逃げこみますと心が落着くのです[73]」と述べる。第4部書簡11で描かれている、エリゼの庭を早朝一人で訪問したサン=プルーが、その場所にジュリの姿ではなく、淑徳の女となったヴォルマール夫人を見出し落胆するという場面からも分かるように、クララン共同体においてサン=プルーはジュリのことを徳高いヴォルマール夫人として認識していた。しかし、二人でメーユリを訪問した際に「危険」を感じたと述べるヴォルマール夫人の言葉から、サン=プルーは誘惑者としてのジュリを思い出し、ジュリを「恐れている」(crains)と述べるのだ。つまりこの書簡の中でサン=プルーは、ジュリが誘惑者と淑徳の女という二面性を持ち合わせた人物であると認識していることを打ち明けているのかもしれない。

ジュリが二面性を持ち合わせてしまったこと、そしてサン=プルーがそれを認識してしまったことの理由には、ヴォルマールが自身の制定した「法」によって、ジュリとサン=プルーの欲望を抑圧することに成功したと思い込んでいたことが挙げられる。これまで見てきたように、ジュリは自身の「規律」に従って生きており、サン=プルーはそのようなジュリに「意識的服従」をしているわけだが、ヴォルマールはそれらのことには気づいていない。というのも、サン=プルーやジュリが兼ね備えている高い感受性をヴォルマールはあまり持ち合わせていないからである。そのようなヴォルマールの姿は、ジュリがヴォルマールの信仰心の薄さに悩んでいることを、サン=プルーがエドワード卿に相談する以下の場面で描かれている。



あの方はほろりとして言われます、ああ、わたくしたちにはこれほど生きており、これほど溌剌としている自然〔nature〕の光景が、不幸なヴォルマールの眼には死んでいる〔mort〕のでして、万物がまことに甘美な声で神のことを語っているこの諸々の存在の大きな調和の中にいて、あの人はただ永遠の沈黙しか認めないのですもの、と[74]

『新エロイーズ』における「自然」(nature)には、ある魂の状態を反映し説明する役割や、魂を変化させる役割があるが、「不幸なヴォルマールの眼」は自然に映し出された感情を読み取ることも、さらには自然によって自身の魂を変化させることもできない。故に、彼は感情を知らない、極めて理性的な人間であると言えるだろう。一方、ジュリとサン=プルーは極めて感情的な人間である。そのため、ヴォルマールは、ジュリとサン=プルーに対して適用した自身の「法」のがうまく作用していないことに気づかないのだろう。

ヴォルマールの理性的な人間としての姿は、サン=プルーと対比することでより顕著になる。初めてエリゼの庭を訪問した時のことを「この快い隠れ場を廻り歩けば歩くほど、そこにはいる時に感じた甘美な気分がいよいよ増してゆくのを感じました[75]」と、サン=プルーは語る。エリゼの庭を初めて訪問した時点では、サン=プルーはそこにヴォルマール夫人の姿ではなくジュリの姿を見出していたため、彼はエリゼの庭において甘美な気持ちを抱くのだ[76]。それに対してヴォルマールはそこに現在進行形のジュリの姿しか見出すことが出来ない。そもそもエリゼの庭は、西洋文学の長い伝統にのっとった悦楽境および愛の特権的な場所であり、庭そのものを、性愛を暗示するものとして捉えることができる場所だが、ヴォルマールはこの庭に感動することはないのだ[77]。スタロバンスキーは、エリゼの庭は「感覚的生活から道徳的生活へ移行した理性的な人間によって再建された[78]」いわば人工的な自然であるが、完成された人為においてのみ、人為は消え、新しい自然となる[79]と述べる。すなわち、エリゼの庭のベースとなるものは人為(art)のない自然(nature)であるため[80]、ヴォルマールがそこに感動を覚えない理由は、あまり感情を抱くことができないという彼の人間性にあると考えることもできる。そして、そのような人間性を持つ人物が制定した「法」がうまく機能しなかったことが、ジュリの死およびクララン共同体崩壊のひとつの要因となるのである。

ジュリはサン=プルーに宛てた遺言書の中で以下のように語る。



いいえ、わたくしはあなたとお別れするのではありません、あなたをお待ちしに行くのです。徳は地上でこそわたくしたちを隔てましたけれど、永遠の住み家ではわたくしたちを結び合わせてくれましょう。わたくしはこの楽しい期待をもって死んでゆきます。罪にならないでいつまでもあなたを愛する権利を、そしてもう一度、あなたを愛しますという権利を、この命と引換えに贖えるのを深く喜びつつ[81]

ジュリの遺言書によって我々は驚くべき真実を知る。それは、ジュリがいまでも「愛している」のはサン=プルーであるということだ。ヴォルマール夫人の運命は、2章で述べたようにデタンジュ男爵の意志とヴォルマールの運命に束縛されていたものであったが、ジュリは死ぬことによって予告通りその運命から解放され、真の意味での(「法」によって限定されていない)自由を獲得するのである。一般的に死は終末をイメージさせるが、ジュリにとっては、愛する人(サン=プルー)を誰の視線にも縛られることなく、さらには誰からの抑圧も受けることなく愛すことができる、すなわち愛する人に対して躊躇いなしに欲望を抱くことができるようになる契機となるため、「死」こそがスタートとなるのだ。そしてこのようなジュリの姿から、欲望というものは、「法」や「規律」といった様々な抑圧をもってでも制することのできないものであると捉えられるだろう。ジュリは往々にして「淑徳の女」と崇められてきた。しかし、「服従」という観点から作品を捉えなおすと、ルソーは「欲望」を理性によってコントロールできないもの、そして生きる原動力として不可欠なものとして描き、世の中に提示していたと解釈することもできるのだ。

結論
人はなぜ服従するのか、人が服従するとはいかなることだろうか――。我々は極めて曖昧で不確かな問いから考察を始めたが、『新エロイーズ』で描かれるクララン共同体に的を絞って分析すると、そこで描かれている支配=服従関係にある人間の目的は次のようにまとめられる。クララン共同体の統治者であるヴォルマールの「法」による支配には、クララン共同体の秩序を保つという目的はもちろんのこと、妻であるジュリとその元恋人・サン=プルーの欲望を昇華させ、ジュリを分裂と死のヴェールから救済するという意図がある。ジュリの「規律」による支配には、自分で自分自身の主人となることで、欲望を抑制し、誰からも罰を与えられない存在になり、さらにはサン=プルーの欲望をも「規律」に従わせる狙いがある。そして、二人の支配の対象であるサン=プルーには、服従によって自分の価値を認められることで、服従という行為そのものが幸福なものへ変化していることが確認できる。

我々が分析してきた多様な支配=服従関係の全てに通底しているのは、ジュリとサン=プルーの関係性であることは言うまでもない。彼らの主従関係には、これまで様々な文学作品で描かれてきた「服従」に伴う肉体的な「罰」(暴力や死など)は存在しない。寧ろそこには、彼らの関係性が破綻したときに生じる、被支配者・サン=プルーの象徴的且つ精神的な「死」という、極めて内密的な「罰」が描かれているのだ。そして、「罰」という報いに伴う「恐怖心」も極めて特異なものであると言えるだろう。支配者という「対象・存在」ではなく、支配者と被支配者のあいだに生じる「可変的な関係性」が揺らぐことに対する恐怖心から生じる「服従形態」が、クララン共同体に生きる人々(とりわけサン=プルー)の根底にあると解釈できるのだ。さらに、クララン共同体における主従関係で重要な要素である「欲望」は、「法」でも「規律」でも抑圧できないものとして描かれていると言える。ジュリは淑徳の女としてしばしば崇められてきたわけだが、彼女の中核には常に「欲望」が存在する。さらに進んで言うならば、ルソーは「欲望」を代替のできない強烈なものとして、社会へ提示したとも考えられるだろう。これまで多くの研究者によって論じられてきた『新エロイーズ』だが、「服従」という観点から作品を再考すると、「欲望」の渦巻く複雑な人間関係と、内省的で隠秘された支配=服従関係が鮮明になるのだ。

本稿では『新エロイーズ』における「服従形態」に限定して考察を進めてきたが、ここで描かれている特異な支配=服従関係は、他のルソー作品にも見出されるものかもしれない。本稿1-1で言及した『社会契約論』では、自由を獲得、あるいは保持するための代償として法(=一般意志)への「服従」が描かれており[82]、また、『人間不平等起源論』においては、自然状態ではいまだ生まれていなかった不平等が存在する社会体制における法への「服従」を暴き出し、真の自由と平等を問うことが目指されている[83]。「服従」という曖昧かつ捉えどころのない概念を用いてルソーの思想を紐解くと、そこにはこれまで無数の考察がなされてきた彼の作品を新たな視点で捉えるということだけでなく、従来とは全く異なる新しい分析を展開できる可能性をも秘めているのではないだろうか。



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[1] 本稿は2018年12月17日に立教大学文学部に提出され、2019年2月1日に審査を受けた卒業論文に加筆修正したものである。
[2] ルソーの『新エロイーズ』からの引用は、以下の版によるものである。Jean-Jacques Rousseau, Julie, ou La Nouvelle Héloïse, Œuvres complètes, édition publiée sous la direction de Bernard Gagnebin et Marcel Raymond, 5 vol., Paris, Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1959-95, t.II。なお、プレイヤード版の表記(つづり)は適宜現代つづりに変更した。邦訳はルソー『新エロイーズ』安士正夫訳、岩波文庫、1960-1961年を参照したが、適宜修正を加えさせていただいた。本文中ではプレイヤード版のページ番号を示し、同時に対応する既訳のページ番号をも示す。
[3] 当然ながらクララン共同体についての研究は、ジャン・スタロバンスキーの『ルソー 透明と障害』をはじめとする多くの研究がなされてきた。一方で、Céline Spectorが« Le modèle de Clarens dans La Nouvelle Héloïse »(Rousseau et la critique de l’économie politique, Presses Universitaires de Bordeaux, 2017, p.103-130)で指摘しているように、スタロバンスキーが『新エロイーズ』の第5部書簡7を例に強調する封建制は、むしろ家父長主義的なものとして捉えることも可能である。スタロバンスキーの決定的な研究があろうとも、クララン共同体について考察する余地はまだ残されている。
[4] ルソーを熱烈なまでに崇拝した18世紀の女性たちとルソーの奇妙な関係は、ロバート・ダーントンをはじめとする多くの研究者によって研究されている。ダーントンは『猫の大虐殺』(海保眞夫・鷲見洋一訳、岩波書店、2007年)の中で、ルソーに陶酔していた人物たちを複数人取り上げ、分析することによって、ルソーを「友人」と呼ぶ一方で同時に「神」として崇めるという矛盾を孕んだ読者の思考を分析しているが、彼の打ち立てたルソーとその読者の構図は、寧ろ彼らの関係性に対する理解を困難にさせるだろう。桑瀬章二郎氏が「ある婦人の肖像――ルソー-ド・ラ・トゥール夫人書簡における自己のフィギュール」(『立教大学フランス文学』36号、1-36頁、2007年)の中で、「肖像」をめぐって構築された3人(ルソーとド・ラ・トゥール夫人、ベルナルドニ夫人)の関係性に特化して分析しているように、ルソーと読者たちの関係性およびルソーが当時の女性たちに与えた影響は細分化して考察しなければならない問題だろう。

[5] Flora Champy « Les relations de pouvoir à Clarens : un équilibre voué à l'échec ? »(Dix-huitième siècle, La Découverte, n.44, 2012, p.519-543)。

[6] 事実、井上櫻子「『新エロイーズ』における欲望と規律」(慶應義塾大学日吉紀要、2008年)や、折方のぞみ「『掟』を破る」(明治大学教養論集、2011年)では「欲望」や「掟」という側面からクララン共同体について論じられているが、人間関係の複雑性という様々な角度から分析すべき要素はある程度切り捨てられてしまっている。本稿ではまさにそうした点について明らかにしていく。

[7] «soumettre»や«servir»、«obéir»、 «servitude»をはじめとする主従関係を我々に暗示させる単語は、作品全体を通じて296回も使用されていることから、「服従」が本作品内で重要な主題であると解釈してよいだろう。
[8] コトバンク「服従」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

<https://kotobank.jp/word/%E6%9C%8D%E5%BE%93-124021>

(最終アクセス2018年3月26日)。ちなみに『広辞苑(第6版)』(岩波書店、2008年)は、「服従」を「他の命令または意思に従うこと」と定義している。
[9] OC, Ⅱ, p. 424,邦訳第三巻53頁。
[10] Ibid.
[11] トーマス・ピンク『自由意志』、戸田剛文・豊川祥隆・西内亮平訳、岩波書店、2017年、4頁。
[12] ルソーは『社会契約論』において、法(=一般意志)とは、自由を保障するためにつくられたものであり、「一般意志への服従を拒むものは、団体全体によってそれに服従するように強制されるという約束を、暗黙のうちに含んでいる」(OC, Ⅲ, pp. 364,ルソー『社会契約論』、桑原武夫・前川貞次郎訳、岩波書店、1954年、35頁)と論じている。この「法への服従」という社会に属する者は避けることのできない「宿命」は、ヴォルマールの法に従うサン=プルーの姿にも反映されていると読むことは難しくないだろう。そして、ヴォルマールがサン=プルーに与えたこの選択は、クララン共同体で生きるための「契約」としても捉えられるかもしれない。
[13] OC, Ⅱ, p. 453,邦訳第三巻101-102頁。
[14] スタロバンスキーは、ヴォルマールの「法」は告白されるべき欲望や不純な情熱を告白という行為によって、官能的な情念を道徳的な透明に変えるという抑圧であると述べている(ジャン・スタロバンスキー『ルソー 透明と障害』、山路昭訳、みすず書房、1993年、178頁)。つまり、ヴォルマールの「法」では、人間の抱く感情の性質までもすり替えるという試みも行われていると言えるだろう。
[15] OC, Ⅱ, p. 469,邦訳第三巻126頁。
[16] 意識について論じる上で看過できないのはフロイトに代表される精神分析学理語であるが、フロイトは『精神分析入門』の中で、対象を服従させるためには対象の「抵抗」を打ち破る必要があると述べている。サン=プルーの抵抗は上記の引用部分に顕著だ。サン=プルーは、«ni »や«rien»といった否定表現を二重に用いることでヴォルマールの法における自由を強調している。だが、それらの表現はあまりに過剰に、何度も反復して使用されていることから、上記の引用部分はヴォルマールから受けている抑圧に対するサン=プルーの抵抗の現れであると解釈できるのではないだろうか。さらに、サン=プルーはヴォルマールの支配下にある自身の立場を自覚していないため、この抵抗は意識しているものを無意識的なものに落とし込む際に生じる抵抗ではなく、無意識的領域にある抵抗であると考えられる。
[17] クララン共同体において、サン=プル―は、子ども部屋に入れたり、アポロンのサロンで食卓を囲めたりと、ある種特権的な立場にいるがゆえに、自由を享受していると勘違いしてしまっているという可能性も排除されたわけではないが、あえてここでは立ち入らない。
[18] これは言わずもがな、第4部書簡11(OC, Ⅱ, p.486,邦訳第三巻151頁)で語られる、エリゼの庭でヴォルマール夫人の姿を見出した時のことと、第4部書簡12(OC, Ⅱ, p.496,邦訳第三巻167頁)で語られる、ヴォルマール立会いの下、かつてジュリから接吻を受けた木立で再び接吻を交わした時のことである。
[19] OC, Ⅱ, p. 512,邦訳第三巻193頁。
[20] スタロバンスキーは、サン=プルーは現在と過去のあいだにさかのぼりえない距離が打ち立てられたことを明らかにしており、その根底には彼の過去への悔恨から自分を護らなければならないという努力があると述べている(『ルソー 透明と障害』、146頁)。そこから、『新エロイーズ』には本論文で述べている物理的な距離の他にも時間的な距離が存在すると分かる。我々は時間の問題には立ち入らないが、物理的距離の問題と時間的距離の問題に通底する不安や恐怖といった感情は、2つの問題を考察する上で見逃せない点であるため、あえてここで言及しておく。
[21] スタロバンスキー『ルソー 透明と障害』、146頁。
[22] OC, Ⅱ, p. 424,邦訳第三巻52-53頁。
[23] スタロバンスキー『ルソー 透明と障害』、154頁。
[24] OC, Ⅱ, p. 509,邦訳第三巻189頁。
[25] ポール・ヴァレリー『ヴァレリー全集 カイエ篇4』、三浦信孝・市原豊太・松浦寿輝・佐々木明訳、筑摩書房、1980年、148頁。
[26] そもそも記憶とは、人間のアイデンティティを形成し、それを持続させるために必要不可欠なものであると同時に、過去の出来事を事実として認識するための根拠でもあると考えられる。これは、ポール・ヴァレリーが『カイエ』で述べている、「認識方法としての、あるいはむしろ、いま活動を停止している認識を説明する方法としての、記憶」「これによって、現在は部分的に過去のうちにあると考えられ――そして過去は現在に甦りうると考えられる」という考えとある程度一致する(同上、147頁)。
[27] 中島ひかる氏は「観察の時間/現実の時間:『新エロイーズ』における時間と死の問題について」(仏語仏文学研究3号、3-22頁、1989年)の中で、記憶を奪おうとするヴォルマールの方法は、時間を統御することと捉えられるため、ジュリとサン=プルーに現在を生きることをやめさせる作用があると述べているが、「服従」という観点から読み直すと、ヴォルマールがジュリとサン=プルーに新たな人生を歩ませるために、つまり生きることをやめさせないために、時間を統御しようと試みているのだと考察できるだろう。ヴォルマールは過去を消去させることで、2人に新しい「現在」を再構築させようとしているのではないか。
[28] そもそも、ヴォルマールの「法」に付随するこの「工程」を行う「権利」がヴォルマールにあるのだろうか。
[29] OC, Ⅱ, p. 340,邦訳第二巻259頁。
[30] これは自明のことだが、ジュリとサン=プルーが恋愛関係にあった時代を、ジュリは「愛おしい」ものとして捉えていると解釈できる。
[31] OC, Ⅱ, p.64,邦訳第一巻103頁で描かれている。あまりに有名な場面のため言及するまでもないが、この出来事を含め、サン=プルーの情欲は全てジュリによって喚起されていることは確認しておかなければならない。
[32] OC, Ⅱ, p. 263,邦訳第二巻263頁。
[33] OC, Ⅱ, p.302,邦訳第二巻192頁。
[34] だが、欲望を無意識的なものに変換させようとする意志こそ、欲望を意識の中に留まらせる力となってしまうのではないか。欲望についてはGeorges Benrekassaの決定的な研究とも言える« Le désir d'Héloïse »(Éclectisme et Cohérences des Lumières, Nizet, 1992, p.55-67)の中で、ジュリの« la neutralisation du désir »などが多角的な視点から考察されている。
[35] OC, Ⅱ, p.407,邦訳第三巻24頁。
[36] Ibid.
[37] クレールから「婢になれ«être»」と助言を受けたのにもかかわらず、「婢になったふり«feindre»」をすることを選択したジュリの姿は非常に興味深い。
[38] スタロバンスキー『ルソー 透明と障害』、190頁。
[39] OC, Ⅱ, p.542,邦訳第三巻236頁。
[40] Ibid.
[41] Ibid.
[42] OC, Ⅱ, p.541,邦訳第三巻236頁。
[43] OC, Ⅱ, p.542,邦訳第三巻236頁。
[44] 邦訳では«peine»を「苦労」と表記されているが、「罰」という意味を持つ単語でもあるため、この考察ではこちらの意味を重視した。なお、ジュリの思い描く罰には、サン=プルーとの破局や堕胎、母の死が挙げられる。
[45] Erik Leborgneは« De Saintré à Saint-Preux: culte amoureux et vassalité dans la première partie de La Nouvelle Héloïse »(Annales de la Société J.-J. Rousseau, n.44, Droz, 2002, p.79-97)の中で、ジュリがサン=プルーに要求する服従関係は、中世のイデオロギーの再活性化および幻想的な恋人たちの弁明という2つの目的を導くと述べているが、本論文では『アベラールとエロイーズ 愛の往復書簡』(沓掛良彦・横山安由美訳、岩波書店、2009年)についてあえて考慮せず、あくまでもジュリとサン=プルーの関係性に焦点を当てているため、エロイーズからジュリまでのある種の系譜については深く立ち入らない。
[46] OC, Ⅱ, p.452,邦訳第三巻100頁。
[47] サン=プルーは自身がそれらの食べ物の女性性について語っているのにもかかわらず、ジュリの目論見に気づいていない点は興味深い。折方のぞみ氏は「『掟』を破る」の中で、乳製品はジュリによるサン=プルーへの授乳のメタファーであり、乳製品を摂取するサン=プルーの姿には乳児化への象徴的儀式を見出せると論じているが、ここでは我々はあくまでもジュリの「規律」による欲望の抑圧方法の一つとして乳製品や砂糖が用いられ、それらを摂取させることで女性化を期待できるとジュリが考えていると解釈できる点を確認しておきたい。
[48] 邦訳では「感激して」と訳されているが、«enthousiasmé»という単語は「感激させられて」と訳すほうがここでは自然であるため、ここでは後者を使用させていただいた。また、この«enthousiasmé»という単語から、サン=プルーは何かに誘発されてこういった感情を抱いたのだと暗示していると考えられる。
[49] OC, Ⅱ, p.486,邦訳第三巻150頁。
[50] 小西嘉幸『テクストと表象』水声社、1992年、116-117頁。
[51] OC, Ⅱ, p.486,邦訳第三巻150頁。
[52] サン=プルーが鍵の貸出を要求する場面は夢における出来事ではないが、サン=プルーがジュリの鍵を受け取る際の感情を「辛いような気持を感じたのか分かりません」と表現し、サン=プルー自身も意識していない部分(無意識下)で発生した感情であることと、「夢は無意識的なものが歪曲された代理物である」というフロイトの考えを踏まえると、両者も無意識的であることが共通項として挙げることが可能なため、ここではフロイトが論じる夢の象徴的表現を考察の手段として仮に導入した。
[53] OC, Ⅱ, p.671,邦訳第四巻154頁。
[54] 引用部分の前後でジュリはクレールとサン=プルーの結婚がいかに精神的な幸福をもたらすか説明するわけだが、その二人の結婚はジュリにとって結局、自身の欲望を抑圧するための手段でしかない。結婚を手段として用いる方法は、我々にジュリとヴォルマールの結婚を想起させるとも言える。Fabrice Moulinは« Les trois formes du contrat dans La Nouvelle Héloïse »(L'information littéraire, n.53, Les Belles lettres, 2001, p.13-21)の中で、読者はジュリの結婚をヴォルマールの視点ではなく、ジュリとサン=プルーの視点からしか知ることが出来ないことから、愛のない安寧であるジュリとヴォルマールの結婚は、ジュリとサン=プルーの堕落した平静な愛を守るためのただ一つの方法だと分析できると述べている。この考えから、ジュリとヴォルマールの結婚も欲望を抑圧するための手段であるとも考えられなくもない。
[55] OC, Ⅱ, p.609,邦訳第四巻43頁。
[56] Ibid.
[57] かつてサン=プルーは飲酒で羽目を外した経験があるため(第2部書簡26)、飲酒行為に対して過敏になるのは分かるが、ヴォルマールの視線を内在化した後でも、ジュリとクレールの力を借りなければ理性を欠く恐れがある状態にあると考えられる。
[58] OC, Ⅱ, p.35,邦訳第一巻52頁。
[59] 「身分」についても「平民」であるとした。
[60] 『広辞苑(第6版)』岩波書店、2008年。
[61] 折方のぞみ「『掟』を破る:自然の秩序と人為的秩序の狭間で――『新エロイーズ』におけるサン=プルーの例外性」、『明治大学教養論集通巻』466号、2011年、80頁。
[62] アメリカの心理学者であるミルグラムは『服従の心理』の中で、人間をはじめとする動物には、自分にあてがわれた地位を承認したときに生存価値を見出すことができる「潜在的服従能力」がある と述べており、我々もジュリに服従するサン=プルーの姿に、この「潜在的服従」を見て取ることができるとも言えるのかもしれない(S・ミルグラム『服従の心理:アイヒマン実験』、岸田秀訳、河出書房新社、1995年、168頁)。
[63] このジュリとサン=プルーの支配=隷属関係から、ラ・ボエシの『自発的隷従論』を想起するのは容易いことだろう。ラ・ボエシはその著書の中で、人が自発的に隷属する理由や、圧政者の策術について論じているが、そこでは「恐怖」がキーワードとなっている(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』山上浩嗣訳、筑摩書房、2013年)。「昼も夜もある人に気に入られることばかりを考えて過ごしながら、その人のことを世界のだれよりも恐れている」(ラ・ボエシ『自発的隷従論』、79頁)とあるが、この一文を踏まえてジュリとサン=プルーの関係を省みると、サン=プルーは意識的にジュリに服従していることから、サン=プルーはジュリに気に入られたいが、恐れてはいないのではないかと推測できる。サン=プルーは、支配者・ジュリという「存在」を恐れているのではない。ジュリのサン=プルーに対する愛情や、ジュリによってもたらされるサン=プルーの存在意義といった「可変的なもの」に恐怖を感じ、ジュリに服従しているのではないだろうか。こうしたことから『新エロイーズ』で描かれている「服従形態」は、極めて複雑で特異なものと言ってよいのかもしれない。
[64] OC, Ⅱ, p.40,邦訳第一巻62頁。
[65] 「悪徳」とは、桑瀬章二郎氏が『嘘の思想家ルソー』(岩波書店、2015年、115頁)で論じている、人間の精神的隷属と「恐怖」に基づく相互不信の根源である嘘への意図性=志向性のことを指す。『社会契約論』において、ルソーは嘘への意図性=志向性が排除された政治空間の創出を目指しているとも読めるわけだが、『新エロイーズ』においては、隷属することで汚れなく生きる人物を描いているとも解釈できる点は非常に興味深い。
[66] OC, Ⅱ, p.52,邦訳第一巻83頁。
[67] OC, Ⅱ, p.73,邦訳第一巻118頁。
[68] たとえば福田正治『感情を知る:感情学入門』(ナカニシヤ出版、2003年、36頁)を参考にするなら、感情は、意図に基づいて行われる目的追及の行動、すなわち理性的な行動である意志とは異なり、「視覚、聴覚、味覚、嗅覚、体感感覚の五感」が感情や本能を司る大脳辺縁系に刺激を与え発生するものであるため、発生した感情を理性によってコントロールすることは可能だが、感情の発生自体をコントロールすることは不可能に近いと考えてもよいのかもしれない。
[69] OC, Ⅱ, p.336,邦訳第二巻253頁。
[70] OC, Ⅱ, p.686,邦訳第四巻179頁。
[71] なお、ここでジュリが「判決を下す」(prononcer)立場にいると述べられているのは興味深い。
[72] OC, Ⅱ, p.677,邦訳第四巻166頁。
[73] Ibid.
[74] OC, Ⅱ, p.591-592,邦訳第四巻17頁。
[75] OC, Ⅱ, p.475,邦訳第三巻134頁。
[76] そもそもエリゼの庭がつくられ始めたのは、ジュリの母の死後であり、ヴォルマールと結婚する前のことである。つまり、エリゼの庭は、サン=プルーに対して抱く感情を昇華し、淑徳の女へ生まれ変わろうと努めるジュリの姿が映し出されている場所であるのだ。
[77] ここで極めて強く感動するのはサン=プルーである。
[78] スタロバンスキー『ルソー 透明と障害』、177頁。
[79] 同上、177頁。
[80] ここにも本論文1-1で考察した「人為」(art)と「自然」(nature)をめぐる18世紀特有の問題が発生しているのである。
[81] OC, Ⅱ, p.743,邦訳第四巻275-276頁。
[82] 言うまでもなく『社会契約論』全体において「服従」は大きな主題であるが、とりわけ以下のページでそれが顕著になっている(OC, Ⅲ, pp.351-391,ルソー『社会契約論』、14-80頁)。
[83] それはとりわけ第二部(OC, Ⅲ, pp.164-194,ルソー『人間不平等起源論』、本田喜代治・平岡昇訳、岩波書店、1933年、85-131頁)で描かれている。さらに『告白』においても、「横柄な恋人の膝下にひざまずいて、その命令に従い、赦しをこう、そういうことがわたしにはたいへん楽しいことだった」(OC, Ⅰ, p.10,ルソー『告白』(上)、桑原武夫訳、岩波書店、1965年、28頁)と、ルソー自身に芽生えた「服従」を好む性質を“告白”している点を念のため指摘しておこう。また『エミール』においては、子どもの時代は「涙をこらしめおどろかしと奴隷状態のうちにすごされる」(OC, Ⅳ, p. 302,ルソー『エミール』(上)、今野一雄訳、岩波書店、1962年、130頁)というように子どもの置かれている同時代の状況を批判しながら、エミールの教育にあたっては「わたしにだけ服従しなければならない」(OC, Ⅳ, p.267,ルソー『エミール』(上)、67頁)と、ある種「正当化」された「服従」を強要しているとも読めるだろう。そして、『告白』でも『エミール』でも「服従」への言及が作品の序盤でなされているのは、偶然とはいえども、非常に興味深い一致である。ただし、ルソーの著作においては様々な「矛盾」も確認できるため、各作品で描かれている「服従」形態の同一視にはリスクが伴うものだと考えられる。


2019/03/30
2019/03/31修正

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