『新エロイーズ』におけるクレール:女であることの謎[1]
今野友梨香(立教大学文学研究科1年)
序
周知のように、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)の『新エロイーズ』(Julie ou la Nouvelle Héloïse, 1761)は一八世紀フランス最大のベストセラーの一つである。この作品は類例のない商業的成功を収めた[2]。だが、それにとどまらず、この小説は読者の思考のあり方や心のあり方までも変えうる作品であった。多くの読者が激しい感動にとらわれ、作中人物やその生活様式に自らを重ね合わせようとし、さらには作者であるジャン=ジャック・ルソーその人に接したいとまで強く願ったのである[3]。
それゆえ当然ながら、『新エロイーズ』はルソーの作品の中で重要な位置を占めることになる。そもそも、この作品は『社会契約論』(Du contrat social, 1762)や『エミール』(Émile, ou de l’éducation, 1762)とほぼ同時期に書かれた。だからこそ、ルソーの他作品で展開されたあらゆる思想が凝縮された作品であるとも言われるのである[4]。
執筆当初は『ジュリ』というタイトルのみがつけられていたことからも明らかなように、主人公である裕福な生まれのジュリと彼女の家庭教師を務める平民のサン=プルーが恋に落ちることによって物語は進んでいく。しかしながら、二人の恋はジュリの父親の反対によって引き裂かれ、ジュリは父親の指示に従って裕福で名門の生まれのヴォルマールと結婚する。それゆえ、『新エロイーズ』研究においてはやはりジュリとサン=プルーの関係性や、ジュリとその夫ヴォルマールの関係性、その二人が築いたクララン共同体なる特異な共同体に注目されることが一般的である[5]。物語の序盤から終盤に至るまで休みなく登場し続けているにもかかわらず、ジュリの従姉妹クレールが研究において中心に据えられることは極めて少ない[6]。
たしかに、ジュリをいかに輝かせるかということがこの物語の作者ルソーにとっての課題であるように見える。ジュリの周りには一見したところ彼女を引き立たせるためだけに作り出された人物も多く存在し、クレールもそのうちの一人に見えなくもない。ところが、注意深く読んでいくと、どうやらクレールをそのような登場人物とみなすことはできないということに気づかされるのだ。『新エロイーズ』においてクレールが物語上、さらに言えばプロット上、書簡体小説という形式上極めて重要な役割を果たしているのは指摘するまでもない。それはサン=プルーとジュリの関係性を継続させかつ変質させるための手助けをするという役割である[7]。
しかしながら、さらに注意深く読んでいくと、クレールという女性が物語において特異かつ重要な役割を果たしているだけではなく、ジュリとは異なる意味で極めて特異な一人の女性として描かれているということにわれわれは気づかされるのである。
クレールの「特異性」としてまず挙げられるのは、彼女が反ジュリ的側面あるいはジュリとの相互補完的側面を持っているという点である。加えて、もう一つ挙げられるのは、彼女が『新エロイーズ』において『エミール』などの他作品で展開されている、「女性」をめぐるルソーの思想を裏切るような存在であるという点である。しかしながら、そのような存在であるにも関わらず、ルソーは作中においてクレールを一切否定的に描こうとしないのである。
クレールという一人の女性を前にして読者が直面する「特異性」はいったいどこから発せられているのか。それを明らかにすることがこの論文の目的である。
いったいこのクレールという人物の「特異性」をどのように解釈すればよいのか。『新エロイーズ』という作品において時間の概念は極めて重要な主題である[8]。しかしながら、本論文ではあえて戦略的に時間の概念に触れずに可能な限り俯瞰的にこれを分析し、そこに浮かび上がるクレールの特異性について検討することにしたい。
第1章では、いわゆるルソーの女性論やジュリとの比較を行いながら、夫婦生活・家庭におけるクレールの特異性について分析することにしよう。その際、彼女の「特異性」を挙げながらその概念をより細分化して整理することで、「特異性」という語に縛られない柔軟な分析を目指したい。
第2章では、作中でクレールという人物が描かれる上で頻繁に反復される「陽気さ」と「親密性」という概念に焦点を当て、そこに浮かび上がる特異性について分析することにしよう。その際、上記の二つの概念から派生してジュリとの「相互補完性」という主題についても検討することにしたい。
『新エロイーズ』研究においてほとんど中心に据えられることがなかったクレールという人物が、その扱われ方とは裏腹にどれほど異彩を放つ存在として描き出されているのか——。われわれはいわば彼女の「存在と外見の存在論的な分裂」の中に、「特異」や「異彩」という単語が時に想起させる負のイメージに縛られることなくほとばしる一人の女性の生き方を見出すことができるのではないだろうか[9]。
第1章 夫婦生活・家庭における「特異性」
第1節 クレールあるいはドルブ夫人
かつて少女であったクレールは四年という長い歳月を経て許嫁のドルブと結婚する。何気なく読み進めてしまいそうになる彼女の見合いや夫婦生活のありふれた様子は、ひとたびその奇態さに着目すると容易には目を逸らすことのできないものへと変貌を遂げる。ここでは、妻としてのクレールの「特異性」について以下の三点に細分化した上で具体的に検討することにしよう。
1-1. ドルブ夫人の「特殊性」
クレールは第二部のジュリ宛ての書簡五で、ジュリへの愛情が自身の心を占めているがゆえに男性(ここでは許嫁ドルブ)に対して恋愛感情を抱くことができないことを告白する。その上で、彼女は夫というものについて、役には立つかもしれないが自らにとっては「夫というにすぎない[10]」ものであると定義するのである。夫に対して恋愛感情を抱くことができないというクレールの状態は結婚後のジュリの状態と重なっているように考えられなくもない。しかし、ジュリはクララン共同体における根本原理である「公開性の希求[11]」に背いてまで、サン=プルーに対する恋愛感情の持続と夫への恋愛感情の欠如を(第六部における自らの死の直前の三日間を除いて)明言することはなかったという点でクレールと異なっているように思われる。ジュリが夫婦生活についての消極的な意見としてこぼしたのはただ一言、「ほとんど自死のように描かれている[12]」死の数日前に彼女が書いた第六部の書簡八の中の「幸福がわたしを退屈させるのです[13]」という発言のみなのである。言うなれば、ジュリは世論におけるいわゆる理想的な妻を可能な限り最期まで演じていたのかもしれない。一方、クレールは夫への恋愛感情の欠如を明言しており、その態度には世論におけるいわゆる理想的な妻を演じようとする様子はほとんど見られないかのように思われる。この点において、当時の社会規範に従順な女性であろうとするジュリと比較すると、クレールは極めて「特殊」な女性であると言える。
1-2. ドルブ夫人の「奇妙さ」
クレールは第一部の婚約者のドルブ宛ての書簡六四で自らを「女としては一種の奇怪な存在(monstre)」と形容し、ドルブ本人に宛てた手紙であるにも関わらず、心の中で友情が恋愛感情に勝っているためにドルブよりもジュリの方を大切に思っているとさえ記している[14]。結婚後も変わらずサン=プルーを思い続けていたジュリでさえ当時許嫁であったヴォルマールに対してそのようなことは一言たりとも言わなかったのであるから、クレールのこの行動は実に「奇妙」である。
その後の結婚を経て、クレールは夫ドルブと夫婦生活を営むことになる。ジュリは第三部の書簡一八の中で二人の夫婦生活についての客観的な見解を述べているのであるが、そこにも注目すべき内容が書かれている。ジュリによれば、クレールとドルブは「義務と誠意」によって結ばれており、互いに相手に対して恋愛感情を持たず、「理性に導かれた感情」によって「やさしい友だちどうし」のような関係性を築いているという[15]。そのような関係性にある夫婦とはいったいどのようなものなのだろうか。そこには夫婦という名の下で妻と夫という役割が割り振られた二人の人間が存在しているに過ぎないのではないだろうか。それゆえに、互いに相手に対して欲望を抱かないまま親密性だけが向上し、形式的には夫婦でありながら内実友人同士のような関係性が構築されたのだと考えられなくもない。このような点もまたクレールの「奇妙さ」を象徴していると言えよう。
さらに、ドルブの死後クレールは第四部のジュリ宛ての書簡二で自らの夫婦生活についての所感を述べているのであるが、そこにも何やら謎めいた内容が書かれている。彼女はその書簡の中で、夫とあまりに愛し合い過ぎたために陽気さが欠如してしまい、それゆえに「七年間にたったの七度も気楽に笑えなかった結婚というきずな」が結ばれていたことを明らかにしているのだ[16]。このことから、夫婦という関係にあり互いに愛し合い過ぎるほど親密でありながら、ほとんど気楽に笑うことのできないような関係性を築いていたという点にもクレールの「奇妙さ」を見出すことができるのである。
1-3. ドルブ夫人の「例外性」
クレールの縁談が進展を見せるといよいよ結婚直前の面会が行われるが、この場面においても注目すべき点がある。それは彼女が終始陽気さを前面に押し出して面会に臨んでいる点である。この場面には、まるで社会規範に従順なジュリの結婚直前の重々しい態度と対比させるかのように、過度なほどの陽気さに溢れたクレールの態度が描かれている。もっと真面目で重々しい態度をとるようにと助言するジュリの心配をよそに、面会においてクレールはドルブに面と向かって「お式の日あたしはとびきり上機嫌にします、みんなどれほど陽気にさわいで来てもらってもいい」と言い放ちさえするのである[17]。ジュリが「こんなにおどけて愛する娘[18]」をこれまで一度も見たことがないと記していることから、クレールは一般的な結婚直前の女性と比較すると「例外的」な態度をとっていると言える。
クレールの「例外性」は夫であるドルブの死後においても描かれている。第四部のジュリ宛ての書簡二の中で、クレールは「親密性」による「陽気さ」の欠如を結婚の「厳粛さ」と表現し、それが自分の気質とそりが合わないと述べているのだ[19]。また、それと同時にクレールは自らを「妻になるには向いていない女[20]」とも形容している。家同士の結婚が当然のことであった当時において、理想的であるとされていたのはジュリのような社会規範に従順な女性だったのではないだろうか。そのような風潮において家同士の結婚に対して消極的な姿勢を明白に示したり結婚への不適応を明言したりするクレールのような女性は少なく、彼女たちが文字通り「例外的」な女性、ともすれば「異常」な女性であると認識されかねなかったという可能性は完全には否定できない。
1-4. 否定されることのないドルブ夫人の「特異性」
当時の世論に対して「特殊」で「奇妙」で「例外的」な女性であるクレールの態度が作者であるルソーの意図によって否定的に描かれることはほとんどない。それはいったいいかなる理由からだろうか。この問いを明らかにするには『エミール』の第五編のいわゆるルソーの女性論を参照する必要がある。そこでルソーは読者に自由恋愛による女性の結婚を提案し、愛し合うという夫婦の第一の義務を果たすために婚前に愛し合うことは自然の権利であると主張している。さらに、双方の実家の資産や家柄ばかりを重視するような結婚を推奨するような当時の一般的な考えに従っている人々を、「結婚の幸福と市民の習俗よりも、表面的な秩序を重く見」ているとして鋭く批判してもいるのである[21]。このことから、作中において実家の資産や家柄を最重要の判断基準に据えている結婚による夫婦生活に対してクレールが実際に消極的な姿勢を示している様子を描くことで、ルソーは結婚についての自らの思想の真実性を裏づけようとしたのだと考えることもできる。つまり、ルソーにとってクレールのそのような態度は自らの論理を支えるための道具としての役割を果たしているのかもしれない。であれば、ルソーが夫婦生活に対するクレールの態度を否定的に描かないのは当然のことであるように思われる。
しかしながら、ルソーが『エミール』において展開している有名な女性論——特殊な哲学的考察に組み込まれているがゆえに、その一部を切り取って理解しようとすると誤解を招きかねない、そして実際に招いてきた女性論——において称賛されている女性像とクレールなる人物は時に完全に対立するかのように見える。それにもかかわらず、ここでもルソーは作中において彼女の態度を否定的に描こうとはしないのである。それはいったいいかなる理由からだろうか。
女性に関するルソーの定義と対立しうる要素として、第四部書簡二においてクレールが掲げている女性についての定義が挙げられる。クレールはここで、女性というものは結婚によって男性に隷属しない限り自由があがなわれない存在であるから「自分の主人になるためにはまず婢にならなければならない」と定義している[22]。一方、『エミール』においてルソーは、女性の「特有の巧妙さ」の欠如こそが夫婦における女性の奴隷状態の原因となっていると定義している[23]。双方を比較すると、クレールが男性への奴隷的隷属によって女性としての自由を手に入れようとしているのに対し、ルソーは女性のもつ「巧妙さ」によって男性への奴隷的隷属から逃れようとしているという点で異なっている。このことから、「自由」という目標に対して両者がとる方法の方向性が相反していると考えられなくもない。ここにおいて私たちは、社会的規範とは別にルソーが構想している「常識」のようなものをクレールが軽々と飛び越えていく様子を見せつけられる。常識破りの思想家ルソーが描く常識破りの女性クレールの謎について、次節では母親としての彼女が持つ特異性に注目することでさらなる核心へと迫っていこう。
第2節 クレールあるいは「母さま[24]」
結婚から八年後、クレールは第四部において夫と死別した母親として描かれる。母親になってなお、彼女の「特異性」の発露はとどまるところを知らない。ここではさらに謎の核心に迫るべく母親としてのクレールの「特異性」について以下の二点に細分化した上で具体的に検討してみよう。
2-1. 「母さま」の「特殊性」
作中で、ジュリが刺繍などのいわゆる「女性の使命にもとづいて決定された趣味[25]」に勤しんでいるのに対し、クレールは射撃などの男性的な趣味に勤しんでいる。ここで注意したいのは、彼女がこの趣味に勤しむのはとりわけ恋愛対象であるサン=プルーの前でのみだということである。
それでは、なぜ彼女は密かに思いを寄せている相手であるサン=プルーの前でそのような趣味に勤しむのだろうか。『エミール』のルソーによれば、女性は「男性の流儀をとりいれることによって、男性に好きになってもらおうとすべきではない[26]」のであるから、このようなクレールの行動はルソーが『エミール』において思い描く理想的な女性像と対立しているかのように見える。このことから、ルソーの思想に基づいた『新エロイーズ』の世界に存在していながらその思想と対立しているという点にクレールの「特殊性」が表れていると言えなくもない。しかしながら、クレールはここにおいてもルソーから否定も非難もされないのである。
2-2. 「母さま」の「突飛さ」
クレールの夫ドルブの死後、第四部の書簡一でジュリは自らがクレールの娘の教育を行いクレールがジュリの息子たちの教育を行うことで共に暮らしながら母親の義務を分担することを提案する。これを受けて、クレールは第四部の書簡二でジュリの提案のさらに上をいく「突飛」な提案を行なっている。
こんなことを考えたのよ。〔…〕ちゃんとご挨拶して両手のものをあなたに差し出します、母と娘を、それから二人の財産、つまり娘の持参金をあなたの手に預けますというわけよ。「息子さんのためにいいように、この子を教育してくださいな。〔…〕」そう言うつもりだったの。[27]
この発言において「突飛」な点は三つある。一つ目は、クレールが自らの娘をジュリの息子と結婚させようと勝手に決めてしまっていることである。驚くべきことに、息子たちの母親であるジュリと話し合うこともなく、クレールはヴォルマールに子どもたちの結婚を直接提案し、勝手に話を進めてしまうのである。
二つ目は、クレールが娘の意向や相手への恋愛感情の有無を無視して将来の結婚相手を決定していることである。クレールの娘にはジュリの息子に対する恋愛感情の発露がまだ見られないのであるから、このような行為は『エミール』の第五編における「いかなるものも廃止することができないのはまさにその自然の権利〔=婚前に愛し合う権利〕なのである[28]」という定義に当てはまっていない。言うなれば、クレールは娘が持っている「自然の権利」を取り上げているのである。さらに、ジュリの息子にとって都合のいいように娘を教育するという内容からは、娘を大切に可愛がっているというよりは道具のように考えているような印象を受けなくもない。しかしながら、このような行為に基づくクレールの提案は作中でいかなる登場人物からも否定あるいは反対されることなく、むしろ称賛をもって受け入れられていくのである。
三つ目は、クレールがこの提案を「気まぐれ(fantaisies)」によって「ほんの冗談半分に思いついた」ということである[29]。驚くべきことに、娘の結婚という極めて重大な問題であるにもかかわらず、クレールはそれを「気まぐれ」に思いつき実行に移してしまうのである。一方、この思いつきがクレールの「気まぐれ」によるものであるからなのか、ジュリはこの書簡の返信である第四部の書簡七においてクレールの提案について一言も触れていない。この点について、サン=プルーとの再会という出来事がジュリの心を占めていたことも大きいのであろうが、クレールの「気まぐれ」による提案の重大さに心を決めかねているとも考えられる。このことから、ジュリのように子どもの結婚を慎重に考慮する親が世論において称賛される中で、「気まぐれ」による思いつきで娘の結婚相手を決定してしまうという点にクレールの「突飛さ」がうかがえる。
クレールの「突飛」な点は他にも見られる。彼女は夫ドルブの死後娘とともに二人で暮らしていたのだが、その間に「艶っぽい未亡人」として「下手にとることのできないあの挑発的な態度を巧みに用いて、その態度でもって時おり色男気取りの若造を一人ならずからかって楽しんだ」という[30]。幾度か続いていたクレールのこのような行動が収まるとジュリが安心したということから、社会規範に従順かつ世論において理想的な母親であるジュリの目線から見ればクレールの行動は極めて「突飛」なものであったのだというように読むこともできる[31]。
さらに、その後の書簡によってクレールがなお一層「突飛」な行動に出ていたということが明らかになる。驚くべきことに、事前に連絡もなく突然ジュリのもとへ自らの娘を送りつけ、事後報告のような形で書簡九を書き送るのである。
あの愛らしい子、ご自分の子供として受け取ってくださいな、ゆずります、さしあげますから。母の権威をあなたの手中にゆだねます。[32]
クレールは何のためにジュリに母親の権力を譲るのだろうか。クレールによれば、ジュリに母親の権力を譲るのは娘を「第二のジュリ」にするためだという[33]。しかしながら、クレールのこの行動は『エミール』で展開されているルソーの論理と対立していると考えられまいか。ルソーは『エミール』の第1編で、「母の権利」の譲渡は子どもが「母親としての心づかい」を得られなくなることに繋がるため行うべきではないと主張しているのである[34]。しかしながら、教育に関してルソーが定義している内容に即した教育を行なっていないにもかかわらず、ここでもクレールが否定的に描かれることはないのである。
クレールの「突飛さ」は娘の教育においても見られる。『新エロイーズ』第四部の書簡九で、クレールは娘に対する自らの態度とジュリの態度を比較している。その際、彼女は自らの態度について「一日中あの子のつつましい小間使い、なんでも逆らわずに言うことを聞いてやっている[35]」と語っている。この態度はジュリが子どもに対してとる態度とは対極にあるものであると言えるだろう。クレールと異なり、ジュリは子どもが暴君のように周囲の人々に君臨しないよう徹底的に教育を施している[36]。これは『エミール』における「子どもは人々の主人ではないのだから、人々に命令しないように[…]はやくから習慣をつけさせる必要がある」という定義と重なっている[37]。であれば、またしてもクレールはルソーが思い描く理想的な母親像から外れるような行動をとっているということになるのだが、ここでもルソーは彼女を否定することも非難することもしないのである。
娘の言いなりになっているかと思えば、クレールはジュリのもとに娘を置いて実家に帰ってしまうこともあった。世論において理想的な女性であるジュリが子どもたちとひとときも離れずに過ごしていることを考慮すれば、クレールのこの行動は「突飛」であると考えられなくもない。しかし、ここで強調したいのはクレールが娘を愛していないというわけではないということである。
この「突飛」な、「気まぐれ」な行動の理由はいったい何だろうか。この問いについて、さらに一歩踏み込んだ解釈も可能だろう。クレールが娘を置いて実家に帰ってしまった理由は娘への愛情の問題とは別のところにあるのだと仮定してみよう。その理由とは、クレールがサン=プルーに対して抱いていたかもしれない恋愛感情にも近い親密な情愛をジュリに対する罪悪のように感じたことなのではないだろうか[38]。もしかすると、クレールはサン=プルーに対するジュリの恋愛感情が続いていたことを悟っていたのかもしれない。とはいえ、明白な理由があったとしても、感情のままに娘を置いて実家に帰ってしまうという点にもクレールの「突飛さ」を見出すことができよう。
2-3. クレールあるいは一人の女性:第1章全体を通して
ここまで、われわれは妻や母親としてのクレールの「特異性」について細分化しながら考察を進めてきた。これらのことからまず読み取れることは、クレールがジュリのような世論において理想的な妻あるいは理想的な母親に比べて極めて「特殊」で、「奇妙」で、「例外的」で、「突飛」であるということである。しかしながら、「特異」であるがゆえにあたかもルソーが思い描く理想的な女性像から逸脱するかのような行為をも行なっているにも関わらず、クレールは作中でルソーによって否定されることなく自由に人生を歩んでいく。その点に注目すれば、彼女の人生は「特異」であるだけでなく自由さに溢れているようにも思われる。さらにそこから、ルソーがクレールの自由さを個性として受け入れて描いていることも読み取れるだろう。
これまでルソーのいわゆる女性観はフェミニズム的観点から絶えず批判の対象になってきた[39]。古典的なフェミニズム的解釈によれば、ルソーは「自律性を獲得できぬ女性」を描いたことによって「女性の公共圏からの徹底した排除と近代家父長的権力の正当化」の基盤を理論的に作り上げたのだという[40]。たしかに女性に関するルソーの定義には現代の価値観にそぐわない箇所が多く存在する。しかしながら、社会規範のみならず作者であるルソーの思想にも従うことなく自由に生き続けるクレールという一人の女性の個性を認め、かつ中立的立場から描いているという点で、ルソーは一八世紀において自らの思想に柔軟性をもった数少ない作家であったと考えることもできるだろう。
さて、本章における分析を経てますますクレールなる人物の「特異性」が際立つことになった。未だ尽きぬ彼女の謎について、次章ではさらにその深層に迫っていこう。
第2章 「陽気さ(gaieté)[41]」と「親密性」における「特異性」
クレールは『新エロイーズ』の序盤から終盤に至るまで常に「陽気さ」の概念とともに描かれている。本論文では第1章で一人の個人としてのクレールの「特異性」を明らかにしてきたが、その際何度も注目したのはクレールの「陽気さ」であった。この一見何の変哲もない、されど彼女と切り離すことのできない「陽気さ」に注目することで、これまでとは異なる角度からクレールの「特異性」を明らかにすることはできないだろうか。ここでは、彼女の「陽気さ」と「親密性」に焦点を当てて分析を行い、そこに秘められた謎を解明することにしよう。その際、「陽気さ」と「親密性」の主題から派生してジュリとクレールの「相互補完性」についても検討してみよう。
第1節 クレールにおける「陽気さ(gaieté)」
1-1. クレールなる人物
本題に入る前に、クレールの人物像を確認してみよう。クレールは裕福な家庭に生まれた。幼い頃に母親を亡くしたため、彼女はシャイヨという養育係に育てられることになる。彼女の他にも兄弟姉妹がいるようだが、物語の中ではほとんど触れられていない。彼女はジュリの従姉妹にあたる人物であり、互いに異なる気質を持っていながらジュリと非常に強い友情で結ばれている存在である。本人曰く外見はジュリに少々劣るらしいが、クレール自身はそのことを誇りにさえ思うほどにジュリを尊敬しているようだ[42]。家庭教師を務めていたサン=プルーとは教師と生徒の関係性にある。彼女の許嫁であったドルブはのちに夫となり、やがて二人の間にはアンリエットという娘が生まれることになる。第四部で未亡人となった後、彼女はジュリとその夫ヴォルマールとサン=プルーと共にクラランで暮らすことになる。
ここで、とりわけ作中におけるクレールの描かれ方の多義性に注目してみよう。本論文第1章でも確認したように、極めて「特異」な存在である彼女は「陽気さ」を纏いつつも「艶っぽい未亡人[43]」としての側面をも持ち合わせていた。しかしながら、ここで注意しなければならないのは、このような側面を有していながらも彼女が放蕩に対しては厳格な姿勢を保っていたということである。ここではその姿勢の具体例として以下の二つの点に注目してみよう。
一つ目に挙げられるのは、第六部の書簡二におけるクレールの記述の内容である。このときサン=プルーの友人エドワード卿は、放蕩者あるいは商売女としての過去を持つ女性ラウレッタ・ピサーナと愛人関係にある。エドワード卿はラウレッタとの結婚願望を明らかにし、結婚が成立した暁には二人でクラランに移り住みジュリたちと共に暮らすことを望む。しかしながら、ジュリからその内容を知らされると、この書簡の中でクレールはラウレッタをクラランに招き入れることに対して激しい反発を示し、ラウレッタについて「その人の前で、純潔、貞節、徳、といったことを言えば、その人に恥の涙を流させずにはすまない、その人の苦悩をかきたてずにはおかない、その人の悔恨さえもあざわらうことになりかねない、そういう女性[44]」であると極めて否定的に形容するのである。ここに見られるのは、のちに『告白』(Les Confessions, 1782-1789)の中でルソーが語っている商売女や放蕩者あるいは放蕩そのものに対する激しい嫌悪との類似である[45]。
二つ目に挙げられるのは第六部の書簡五の内容である。本論文第1章でも言及したように、このときクレールはジュリのもとに娘を残して故郷のジュネーヴに帰ってしまっている。その際、クレールはこの書簡の中であたかもルソーが憑依したかのようにジュネーヴへの称賛を書き連ねているのである[46]。そこではジュネーヴにおける地勢、人々の性質、政治、習俗、女性、夫婦のあり方が称賛される形で書き連ねられるとともに「ジュネーヴ人の美徳は自らのうちから引き出したもの」であり「悪徳はよそから入ってくる」という他国に対する厳格な姿勢に基づいた論理が展開されている[47]。この論理は『ダランベールへの手紙』(Lettre à d’Alembert, 1758)に見られるものと非常によく類似している。実際に、『ダランベールへの手紙』では全体を通してジュネーヴのあらゆる美点が称賛されており、その美徳を損なうおそれがあるものとして他国から流入してくる習俗や文化が挙げられている[48]。このことから、クレールは『ダランベールへの手紙』におけるジュネーヴに対するルソーの論理を代弁する役割をも担っていると考えられなくもない。
以上から、クレールは「艶っぽい未亡人」としての側面を持ちながら『告白』や『ダランベールへの手紙』における女性観や倫理観をも持っている存在なのだと考えることもできる。したがって、彼女の描かれ方は極めて多義的であると言えるだろう。
それでは、ここで本章における中心的な話題へと移ろう。『新エロイーズ』において、クレールの「特異性」が、そして彼女の存在までもが極めて多義的に描かれていることを考慮すれば、彼女の特質とも言える「陽気さ」もまた多義的に定義づけられているのではないだろうか。この問いについて考えるために、ここでは「陽気さ」という概念をクレールと他の登場人物の関係性ごとに細分化し、整理した上で分析することにしよう。
1-2. ドルブに向けられる「陽気さ(gaieté)」
本論文第1章第1節で確認したように、『新エロイーズ』第二部の書簡一五にはクレールの結婚直前の面会の様子が描かれている。この面会において彼女は一般的な女性とは異なって「陽気な(gai〔e〕)[49]」態度を前面に押し出している。ジュリの注意も虚しく、クレールは婚約者であるドルブに対して終始「ふざけっぱなしのもてなし[50]」を行なったのである。
奇妙なのは、このような態度を示していたにも関わらず、いざドルブとの結婚生活が始まるとクレールの「陽気さ」が途端に鳴りをひそめてしまうという点である[51]。しかしながら、このような「陽気さ」の消滅はドルブとの結婚生活において初めて起こったというわけではないのである。
「陽気さ」に満ち溢れた面会を終えたその日の晩、クレールは涙を流してしまうのであった。ジュリはその事実を朝のクレールの目の赤みから悟り、同書簡の中で「夜の涙が昼間の笑いの償いをしていることは間違いありません」と書き記している[52]。
いったいなぜクレールは夜に涙を流すのだろうか[53]。この点については彼女が最も重要視していた「友情(amitié)」を考慮する必要があるだろう[54]。クレールの一番の親友であるジュリは同書簡の中で「彼女はこれで新しい係累ができて、友情の甘美なきずなはゆるむでしょう[55]」と書き記している。クレールにとってはこのことが大問題なのではないか。クレールにとって「友情の甘美なきずな(les doux liens de l’amitié)」は宝物のように大切なものなのであり、結婚によって生まれる「係累(chaînes)」、すなわち文字通り「鎖(chaînes)」のような存在がその「きずな(liens)」を薄れさせようとしている事実にクレールは悲しみを隠せないのだというように読むこともできる。
それでは、なぜクレールは面会中に溢れんばかりの「陽気さ」を纏っていたのだろうか。この点に関しては本章第2節で詳しく検討してみよう。
1-3. サン=プルーに向けられる「陽気さ(gaieté)」
『新エロイーズ』第二部の書簡二一で、サン=プルーはパリの女性たちとの交流の様子をジュリに書き送っている。ここにおいて、パリの女性たちはジュリたちが暮らす自然に溢れた田舎とは正反対の環境に暮らす女性として描かれている。そこでは、他者による視線を気にかけてありのままの姿を隠している彼女たちの様子が、ルソー的「自然」に従っていないという理由から否定的に描かれている。サン=プルーによれば、彼は初めのうちは前述のような「都会のわざとらしい様子」を纏った彼女たちの態度に嫌悪感を示していたのだが、交流を深めるにつれ彼女たちの態度に「うちとけた自然な優美さ」が現れ始めてからは「快い甘美な交際」を楽しめるようになったという[56]。さらに、彼女たちの「陽気さ」についてサン=プルーは以下のように書き記している。
上機嫌になるのに諷刺もからかいもいらなかった、笑いは冷やかしではなく陽気さ(gaieté)からくる笑いでした、いとこの君のそれのように。[57]
このことから、サン=プルーに向けられたクレールの「陽気さ」は「快い甘美な交際」を可能にする「うちとけた自然な優美さ」に基づいたものなのだと考えることもできる。ともすると、この「陽気さ」はサン=プルーが求める理想的な交際を実現させることのできる貴重な要素なのかもしれない。
それでは、この「陽気さ」はいったいどのようにして生み出されているのか。その点について分析してみよう。序論でも確認したように、かつて恋人同士であったジュリとサン=プルーの恋愛関係はヴォルマールとの結婚によって断ち切られる。クラランでの幸せな共同生活に浸るうちに、未亡人であるクレールの心にはサン=プルーに対する恋愛感情にも近い親密な情愛が芽生えるようになる。この情愛をジュリに対する罪悪であるように感じたクレールは、エリゼという果樹園の中でジュリにそのことを告白する。第六部の書簡二の中で、クレールはエリゼでの告白の内容が正しいことを改めて認め、その際に自身の「陽気さ」について以下のように述べている。
あたしの陽気さ(gaieté)は充ち足りておればこその陽気さ(gaieté)で、技巧から来たものではありません。たえずあの人のことを考えるよろこびを、あたしはいたずらな振舞に転化していました。笑うだけに止めておけば涙の種をまくことにはならない、そう思っていました。[58]
上記の引用箇所から、サン=プルーに対してクレールが見せる「陽気さ」は彼への親密な情愛から生まれたものだったと考えることも可能ではないだろうか。加えて、この情愛を「陽気さ」へと転化することで「涙の種をまく」ことを避けようとする姿勢から、ジュリという存在がある限り自らの恋が決して叶うことのないものであるということをクレールが理解しており、叶わない期待によって自らが傷つくことを避けるために「陽気さ」を纏っている様子を読み取ることもできる。この点において、サン=プルーに対する彼女の「陽気さ」は彼への親密な情愛とある種の防衛本能によって生まれた仮面のようなものなのかもしれない。
1-4. ジュリに向けられる「陽気さ」あるいは「おかしな(folle)」振る舞い
シャイヨはあなたを理解できるような人ではありません。ほかのだれにも理解できなかった、あたしだけが別でした。[59]
先に触れたように、シャイヨは幼少期のクレールの養育係を務めていた人物であるが、彼女は「陽気」なクレールを恋愛に不向きな女性であると見なしていた。第五部の書簡一三でジュリはシャイヨがクレールに対して持っていた認識を否定し、自らがクレールの唯一の理解者であることを自負する。ともすると、ジュリは作中においてクレールとの精神的な交流を最も多く行なっている人物なのかもしれない[60]。その唯一の理解者ジュリの前でクレールが示している「陽気さ」について、具体例とともに分析してみよう。
クレールからジュリに向けられた「陽気さ」が « gaieté »という単語で表されることは非常に少ない。前節で触れたように、大抵の「陽気さ(gaieté)」は主にドルブやサン=プルーに向けられており、ジュリ単体に向けられた「陽気さ (gaieté)」は作中ではせいぜい二つほどしか見られないのである。具体的には、「おふざけの陽気さ(gaieté folâtre)」という表現や「平素の陽気さ(ta gaieté)」という表現が挙げられる[61]。
他の単語で表現されている彼女の「陽気さ」についても分析してみよう。作中でクレールからジュリに向けられている「陽気さ」は「活発なところ(vivacité)」や「快活さ(enjouement)」、「おきゃん (badine)」など様々な表現によって言い表されている[62]。しかしながら、最も頻繁に見られるのは「気のふれた」や「異常な」という意味をもつ « folle »という単語による表現である。
あたしがもっとまともな(moins folle)人間だったら!……でもいつまでも調子はずれ(folle)でいたいのです。[63]
これは第四部の書簡一三の中でジュリから助言を求められた際のクレールの言葉である。このとき、ジュリとその夫ヴォルマールはクララン共同体の中にサン=プルーを招き入れているのだが、ジュリはサン=プルーとの恋人時代の思い出に心を乱され、夫が家を空けている間に自らが不徳をおかす可能性への恐怖からクレールに助言を求めたのである。ここにおいてクレールは自らのことを「調子はずれ(folle)」であると形容するのだが、果たしてジュリも彼女に対してそのような認識を持っていたのだろうか。
第五部の書簡一三に描かれているように、エリゼという果樹園の中でクレールはジュリにサン=プルーへの愛情の芽生えを告白する。ジュリはクレールに芽生えたその愛情が恋愛感情にも近い親密な情愛であるということを悟り、恋愛経験の少ないクレールにそのことを教え諭すのである。その際にジュリはクレールを「あれほど狂っていらっしゃる(folle)、というよりもむしろあれほど賢明な(sage)クレールさん」と形容し、さらには「変な(bizarre)、あなたのような尋常でない(folle)女性」とすら形容するのである[64]。しかしながら、ここで注意したいのはこの « folle » という単語が否定的な意味では使われていないという点である。このことは引用箇所でジュリがクレールを「賢明」と形容していることからも読み取ることができるかもしれない。つまり、ここではクレールの「おかしな(folle)」とでも形容されうる振る舞いがほとんど彼女の「陽気さ」の一種であるかのように語られているのである。
クレール自身もまた第六部の書簡二の中で自らの「陽気な」、「おかしな」振る舞いについて以下のような肯定的な見方をしている。
せいぜい二十代のうちに大急ぎで自分の権利(droits)を行使します。だって、三十を過ぎると、もうどこかがおかしい(folle)ではすまなくって滑稽ということになりますからね。[65]
ここにおいて、クレールが自らの「おかしな」振る舞いを若いうちの権利であるとさえ見なしていると読むことも可能である。
これらのことから、クレールがジュリに向けている「陽気さ」はそのほとんどが「おかしな」振る舞いから成り立っていると考えられなくもない。
1-5. 「陽気さ」から「狂気(folie)[66]」へ
ジュリ、ヴォルマール、サン=プルー、クレールによるクラランでの幸福な生活も束の間、サン=プルーはエドワード卿とともに再びクラランを離れることになる。第六部の書簡八でジュリはまるで「白鳥の歌」のような一言を書き記し、ほどなくして湖で溺れた息子を助けようと自ら飛び込み、ほとんど自死とも受け取れるような最期を迎えたのであった。第六部の書簡一一にはジュリが亡くなった直後のクレールの様子が以下のように書き記されている。
部屋に入ってみますと、彼女はすっかり正気を失っていて(hors de sens)、何も見ず、何も聞かず、だれも認知せず、手をよじりながら部屋中を転げ回り、椅子の脚を嚙み、にぶい声でなにか途方もないことをつぶやき、かと思うと長い間をおいて身震いさせるような鋭い叫びをあげるのでした。[67]
ここには前項で確認した「陽気さ」とも受け取れるような「おかしな(folle)」振る舞いというよりは、むしろ「気の触れた(folle)」ような振る舞いが描かれていると考えることもできる。実際に、この書簡の書き手であるヴォルマールがこの時のクレールについて「およそ彼女のなすこと、言うことは狂気(folie)に近く、冷静な人から見れば滑稽でありましょう[68]」と語っていることからも、クレールが「狂気」に苛まれている様子を読み取ることができる。
ジュリの埋葬の二日後、ヴォルマールはどうにかしてクレールに食事を摂らせようと、彼女の娘でありながらジュリに非常によく似ているアンリエットにジュリと同じような服を着せて食卓につかせる。クレールはこの計らいに好意的な姿勢を見せていたのだが、アンリエットがジュリの真似をしたことによって喜びのあまり再び「狂気」が顔を出してしまうのである。
一呼吸おいて彼女はどっと大笑いし、お皿をさしだして言いました。「ええ、頂くわ、ご親切さま。」それから、私も驚くほど、猛然と食べ出したのです。注意して見ていますと、あの人の眼に錯乱(l’égarement)が、身振りには平素よりも唐突な、意を決したような動きが見えました。[69]
「どっと大笑いした」という部分からは彼女の「陽気さ」が垣間見えるかのようだが、もはやそれすらも「陽気さ」によるものではない。事実、彼女の振る舞いには錯乱した様子が目立ち、悲しみゆえの「狂気」が彼女を覆い隠しているかのようにも見える。
これらのことから、クレールの「陽気さ」はジュリの死を境にして「狂気」に置き換わってしまったのだと考えることもできる。というのも、現にクレールを形容する語はジュリの死後に「陽気さ」から「狂気」へと移行しているからである。あるいは、彼女の「狂気」はすでに「おかしな(folle)」振る舞いとしてジュリの死以前からわれわれの前に描かれており、ジュリの死による「陽気さ」の剥奪がそれをさらなる「狂気(folie)」へと増大させたのかもしれない。
1-6. 「陽気(gaie)」で「おかしな(folle)」クレール:第1節全体を通して
ここまで、われわれはクレールの「陽気さ」について彼女と三人の登場人物の関係性ごとに細分化しながら考察を進めてきた。これらのことからまず読み取れることは、クレールがそれぞれの登場人物に対して多様な「陽気さ」を向けているということである。特にジュリに対する「陽気さ」は他の登場人物に対するそれと一線を画している。他の登場人物に対して向けられた「陽気さ」が「陽気さ」の域を出ないのに対し、ジュリに向けられた「陽気さ」は「狂気」へと変貌を遂げてしまうような激しさを秘めていると考えることもできる。
本節における分析を経てより一層クレールなる人物の「特異性」に触れることになった。次節では本節における分析を経て浮上する問いにも触れながら、さらにその深層に迫っていこう。
第2節 「陽気さ(gaieté)」と「親密性」の関係性
本章第1節で、われわれはクレールの「陽気さ」についてそれぞれの関係性ごとに細分化しながら考察を進めてきた。本節では、「陽気さ」と「親密性」の関係性について、とりわけドルブとの関係性とジュリとの関係性の二つに細分化して検討することにしよう。
2-1. ドルブとの親密性:「頻繁さ」
ドルブとの結婚直前の面会においてジュリも驚いてしまうほどに「陽気さ」を振り撒いていたクレールは、いざ結婚生活が始まると途端に「陽気さ」を失ってしまう。われわれは本章第1節で、この状態を引き起こした一因が結婚によるジュリとの「友情(amitié)」における「きずな(liens)」の希薄化をクレールが悲しんだことにあるのかもしれないという結論に至った。
ここである疑問が浮上する。そもそもなぜクレールはドルブとの結婚直前の面会において「陽気さ」を振り撒いていたのだろうか。悲しみを表に出さないためであると断定するのは容易いかもしれないが、それにしては度を越した「陽気さ」であると考えることもできる。ここでは、この「陽気さ」の真相について二人の「親密性」との関係性に注目しながら検討することにしよう。
ドルブの死後、第四部の書簡二でクレールはジュリに自らが過ごしてきた結婚生活の実情を書き送る。この書簡の中で、クレールはドルブとの結婚生活について以下のように述べている。
あの人と私はあんまり愛しすぎていて、陽気(gais)じゃなかったのよ。もっと軽い友情(amitié)だったら、もっとお茶目で(folâtre)いられたでしょうね。〔…〕生きることの満足は少なくとも、もっとしょっちゅう笑うことができれば、そのほうが好ましかったのじゃないかと思うの。[70]
「やさしい友だちどうし[71]」のような関係性であった二人の間にいわゆる恋愛感情が存在していなかったことはこれまで確認してきたとおりである。しかしながら、なぜ愛しすぎることが「陽気さ」を失うことに繋がるのだろうか。もしそのような構図が実現するとすれば、二人の間で構築された「親密性」は特殊な意味合いを持っているものであると考えることもできる。
であれば、彼らが持っている「親密性」を「頻繁さ」という語に置き換えて解釈することもできよう。かつて他人同士であった二人は、夫婦生活を始めることによって嫌でもより「頻繁」に互いの私的な領域に触れることになる。それだけではない。ドルブは、最も親しい存在であるジュリでさえも(自らの死の直前を除いて)共に過ごしたことのない「夜」、クレールが自らの「陽気さ」を取り去り涙すら流してしまう唯一の時間である「夜」をも誰よりも「頻繁」に共に過ごすことになるのだ。加えて、夫婦生活において「夜」は身体的な「親密性」に大きく関わってくる時間でもある。
まさにこの「頻繁さ」と身体的な「親密性」の高まりこそクレールの語る「愛しすぎる」ことなのではないか。さらに、私的な領域への関与や「陽気さ」が取り去られてしまう「夜」の時間の共有が「頻繁」に行われることによって、クレールの「陽気さ」が失われてしまったのだと解釈することもできる。
反対に、結婚直前の面会の時点ではクレールもドルブも互いに上記のような「頻繁さ」や身体的交流を持っていなかったことから、彼らの関係性における「親密性」は低く、そのために「陽気さ」が前面に押し出されていたのだと考えられなくもない。
したがって、ドルブとの関係性におけるクレールの「陽気さ」の発生と消滅は「頻繁さ」とも形容しうる彼らの「親密性」や身体的な「親密性」の高低にいわば反比例しているとも考えられる。
2-2. ジュリとの親密性:「気安さ(familiarité)[72]」と「率直さ(franchise)[73]」
われわれは本章第1節で、ジュリに向けられたクレールの「陽気さ」には「陽気さ」と「おかしさ」が存在しているのかもしれないという結論に至った。彼女たちの間で構築されている「親密性」とはいったいどのようなものなのか——。本項ではその点について分析してみよう。
第四部の書簡二でクレールはジュリの美点を褒め称えるのであるが、その際に以下のような言葉を記している。
これは確かなことだけど、あなたのやさしさ、相手の人への打ち解けよう(familiarité)、それがすっかりあたしに向けられたからこそ、あたしはあなたの友になれたのだわ。[74]
この言葉から、クレールとジュリの間には「気安さ(familiarité)」とも形容できるような「親密性」が存在していると考えることもできる。しかしながら、上記のようにクレールはジュリの振る舞いの「打ち解けよう(familiarité)」に満足しているようだが、ジュリの方はクレールの振る舞いに対して少し物足りなさを感じているようだ。
第四部の書簡一で、ジュリは夫ドルブに先立たれて未亡人となったクレールを心配するのだが、その際クレールとの「親密性」に対する物足りなさをも以下のように記しているのである。
そっと隠れて悲しみにくれるのね、まるで友のまえで涙を流すのを恥じているように。クレール、あたしはそんなの好きじゃありません。〔…〕あたしが咎めるのは、〔…〕あなたのいちばん美しい日々をあなたのジュリとともに涙して過ごしてくださったのに、今度はあなたといっしょに泣くよろこびを、あなたの胸に注いだ涙の恥辱をもっと立派な涙で洗い流すよろこびをジュリから奪っている、そのことなの。[75]
この記述から思い出されるのは、本章第1節で確認した、ドルブとの結婚直前の面会を終えた「夜」に泣いてしまうクレールとその様子を翌日に悟るジュリの構図である。ジュリからすれば、彼女はクレールに自分とサン=プルーの恋愛についての相談をし、共犯関係とも言えるような関係性を築いていたにも関わらず、クレールは常に「陽気さ」を纏い彼女に対して弱みを見せていないということが不公平であるように感じたのかもしれない。
ジュリからこのような指摘を受けるよりはるか前に、クレールはこのようなことを言っている。
あたしたちに共通の率直さ(franchise)からすれば、誠実こそほかのどんな利点にもまさるもの、そこで率直に、約束を守りましょう。[76]
このとき、ジュリとサン=プルーは恋愛関係にあったが、ジュリの父親からの猛烈な反対によってサン=プルーは旅への出発を余儀なくされてしまっていた。その後、クレールはジュリとの約束に従って「率直さ(franchise)」をもってジュリに彼の出発の経緯を詳細に伝えるのである。ともすると、ジュリがクレールにさらに求める「親密性」とはかつて二人の間に存在していたこの「率直さ」なのかもしれない[77]。
いったいどのようにすれば二人の間にこの「率直さ」を取り戻すことができるのだろうか。この問題にはクレールの「陽気さ」の発生・消滅が大きく関わっているのではないか。
第五部で、クレールはジュリに「自分の弱み(faiblesse)[78]」すなわちサン=プルーに対する恋愛感情とも受け取れるような情愛の芽生えを告白する。第五部の書簡一三の中で、告白後のクレールの様子についてジュリは以下のように語っている。
あたしたちがエリゼでお話ししてからあとは、もうあなたの状態をうれしく思えなくなりました。打ち沈んで(triste)物思いにふけって (rêveuse)らっしゃるよう。[79]
この記述から、「自分の弱み」の告白によってジュリに対する「率直さ」を高めたクレールが自らの「陽気さ」を失っている様子を読み取ることができる。以上から、クレールとジュリの「率直さ」とも形容しうる「親密性」の高低はクレールの「陽気さ」の発生と消滅にいわば反比例しているとも考えられる。
第3節 ジュリとクレールの「相互補完性」
われわれは前節でドルブとクレールの「親密性」やジュリとクレールの「親密性」に注目し、それらの「親密性」とクレールの「陽気さ」がいわば反比例的関係にあるのではないかという結論に至った。本節では、ジュリとクレールの「親密性」という主題から派生して、二人の「相互補完性」とも形容しうる性質について検討することにしよう。
第一部の書簡二一の中でサン=プルーはジュリの境遇を褒め称えるのであるが、その際にクレールの友情を「あなただけが生き甲斐のような、いとこの君の友情[80]」と形容している。さらに、第三部の書簡二六の中でも、ジュリとクレールの関係性について「おそば離れぬお友だち(inséparables amies)」という記述や「そのおひとりがもうひとりにとって唯一ふさわしい方たち」という記述が見られることから、二人は互いの「友情」それ自体によって「相互補完」を行なっていると考えることもできよう[81]。
加えて、彼女たちは互いの行動によっても「相互補完」を行なっている。ここでは以下の二つの例を具体的に検討してみよう。
まず、一つ目の「相互補完性」について分析してみよう。第四部の書簡一の中で、ジュリは夫という存在がありながらかつて恋人であったサン=プルーに思いを馳せることに恐怖を抱くのだが、その際に以下のような言葉を書き記している。
こんな悲しい思いを追い払おうと、いくら努めてもだめなのです。たえまなしに、われにもあらず、よみがえってくるのです。こんな思念を追い出すために、それとももっときちんと考えるために、あなたの友はあなたの心づかい(tes soins)を必要としています。[82]
クレールは少女時代から「理性(raison)[83]」によってジュリに数々の助言をしてきたのであるから、ジュリがここで求めている「心づかい」は「理性」的助言であると解釈することもできる。したがって、クレールはジュリに対してその「理性」を補完していると言えよう。
では、クレールから補われた「理性」の代わりにジュリの方は何かを補ったり、何かを差し出したりするのだろうか。クレールからサン=プルーに対する情愛の芽生えを告白されたジュリは、『新エロイーズ』第五部の書簡一三でクレールに「恋愛(amour)[84]」についての助言をするのだが、その際に以下のようにクレールに教え諭している。
あなたに最初に愛を捧げたひとがあなたの心を揺すぶりませんでしたから、自分はそんなふうになれない質とすぐに思い込んでしまった。あなたに愛を求めた人に恋心をおぼえなかったものですから、だれに対してもそうと思ってしまったのです。[85]
本論文第1章で確認したように、クレールは夫ドルブに対して恋愛感情を抱くことができなかったのであるが、ジュリによれば、その経験によってクレールは自分が恋愛をすることができない性質の人間なのだと思い込んでいるようだ。引用部分からは、ジュリが「恋愛」についてクレールを啓蒙している様子を読み取ることができる。このことから、ジュリは「恋愛」に関してクレールを教え導くことで「相互補完」的関係性を成立させていると考えることもできる。
これらのことから、クレールとジュリの関係性は前者による「理性」の補完と後者による「恋愛」の補完からなる「相互補完性」を有しているとも考えられる。
続いて、もう一つの「相互補完性」について分析してみよう。第六部で、ジュリは散歩の途中に誤って湖に転落した息子を救うべく自らもその中に飛び込むのだが、そのことがきっかけとなって病を患ってしまう。ジュリの容体は芳しくなく、クレールは彼女の死への不安から二日間も徹夜をしている状態であった。それを見かねたジュリは、初めてクレールと二人きりで「夜」を過ごすことを提案するのである。ここでも二人が共に過ごした「夜」の様子は一切描かれることなく、物語は突如として朝の場面に移行する。
二人が共に過ごした「夜」の時間にはいったい何が起こっていたのだろうか。これについて第六部の書簡一一に描かれている朝の様子から分析してみよう。
中に入りますと、彼女〔=クレール〕は肘掛け椅子にすわり、やつれて蒼ざめ、むしろ土色で、眼は鉛色でほとんど光を失っていましたが、なごやかな、穏やかな感じで、あまりしゃべらず、返事をしないで言われたことをしておりました。ジュリはといえば、前日ほど弱っていないようで、声もしっかりし、身振りにもはりがあって、従妹から生気(vivacité)をもらったかのようでした。[86]
クレールがジュリと二人で「夜」の時間を過ごす直前まで「活発で、よくしゃべって[87]」いたことを考慮すれば、引用箇所のような彼女の変わりようとジュリの生き生きとした様子が対照的に描かれていることは極めて奇妙である。このことから、クレールがジュリに対して「生気」を補ったのだというように読み解くこともできる。
同日の晩、またもクレールはジュリと共に「夜」を過ごすのだが、ここでも「夜」の情景は一切描かれていない。二人が過ごした「夜」の時間について分析する手がかりとして、その翌日のジュリの様子に注目してみよう。
その陽気さ(gaieté)にわざとらしいところはなく、冗談(plaisanterie)さえも胸にしみました。〔…〕彼女は健康なときにもましてにこやかで、愛想がよく、彼女の生涯の最後の日は、生涯のなかでもっとも魅力的な日でもありました。[88]
この記述からは、ジュリがクレールのように「陽気さ(gaieté)」を纏い「冗談(plaisanterie)」まで言うようになったことが読み取れる。このことから、クレールは二人で過ごした「夜」の間に自らの「陽気さ」をジュリに補ったのだと考えることもできるだろう[89]。
では、クレールから補われた「生気」と「陽気さ」の代わりにジュリはここで何かを補ったり、差し出したりするのだろうか。それはジュリによる補完とは形容しがたいものだが、実は奇妙な譲渡とでも言うべき形で成立している。
ジュリがクレールによって「生気」を補われたかのように描かれた後、ジュリは子どもたちを呼び寄せ、クレールを指差しながら以下のように言うのである。
「さ、子供たち、あなた方のお母さまの足もとにひざまずきなさい。神さまがあなた方に与えてくださったお母さまよ。〔…〕」子供たちはただちに彼女のもとに飛んで行き、ひざまずき、手を取って、お母ちゃま、第二のお母さま、と呼びました。[90]
上の描写から、この瞬間、ジュリはクレールから補われた「生気」と「陽気さ」の代わりに、クレールからかつて一方的に譲渡(もしくは放棄)された「母親の義務」を完全に(再)譲渡あるいは返還したと考えることもできるのではないだろうか。さらには、「母」たる役割を果たし続けようとしてきた、あるいは果たし続けてきた自分の子どもたちに対する「母親の義務」までも譲渡していると解釈することもできよう[91]。
これらのことから、クレールとジュリの関係性は前者による「生気」や「陽気さ」の補完とそれに対する後者の「母親の義務」の譲渡による代替からなる「相互補完性」を有しているとも考えられる。
われわれはここまでクレールとジュリの関係性に潜む三つの「相互補完性」について考察を進めてきた。一つ目は、クレールとジュリの互いの「友情」からなる「相互補完性」である。二つ目は、クレールによる「理性」の補完とその代替としてのジュリによる「恋愛」の補完からなる「相互補完性」である。三つ目は、クレールによる「生気」や「陽気さ」の補完とそれに対するジュリの「母親の義務」の譲渡による代替からなる「相互補完性」である。
このことから読み取れるのは、二人それぞれが互いにとってかけがえのない不可分の存在であるということである。しかしながら、物語の終盤でジュリが亡くなることによって、突如としてこの「相互補完性」は失われてしまうのである。死によって不可分の存在であるジュリを取り上げられ「補完」を受けられなくなったクレールは、「狂気」に取り憑かれながらこの不穏な呟きで物語を締めくくるのである。
あの人の棺はあの人の全部を収めたのではありません……残りの餌食を待っています……長く待つことはありますまい。[92]
第2章全体を通して
ここまで、われわれはクレールの「陽気さ」と「親密性」について細分化しながら分析を進め、それらの主題から派生してジュリとクレールの「相互補完性」についても検討してきた。これらのことによって明らかになったことは四つある。一つ目は、クレールが相手ごとに多様な「陽気さ」を纏っているということである。二つ目は、彼女がジュリとドルブそれぞれとの関係性において異なる種類の「親密性」を有しているということである。三つ目は、クレールの「陽気さ」の発生と消滅は「親密性」の高低に対していわば反比例的関係にあるということである。四つ目は、クレールとジュリの関係性が三つの「相互補完性」を有していることから、二人それぞれが互いにとってかけがえのない不可分の存在になっているということである。このようにして、われわれは本論文第1章において明らかにしたものとは全く異なる彼女の「特異性」に直面することとなった。
結
クレールという人物についてこれまで分析を進めてきたわれわれは、彼女が多様な「特異性」を有した人物であったことを確認した。
第1章では、妻や母親としてのクレールが有する「特異性」について細分化しながら考察を進めることで、彼女が極めて「特殊」で、「奇妙」で、「例外的」で、「突飛」であることを明らかにしてきた。ともすると、社会規範に縛られることなく「特異」な生き方を選ぶ彼女は極めて自由な存在であるのかもしれない。さらに、クレールがあたかもルソーが思い描く女性の理想像と対立しているかのような行動や言動を行なっているにも関わらず作中で否定的に描かれないという点からは、ルソーの思考の柔軟性を読み取ることもできる。
第2章では、クレールの「陽気さ」と「親密性」について細分化しながら分析を進め、そこから派生してジュリとクレールの「相互補完性」についても検討することで、それら三つの主題に秘められた謎についての考察を進めてきた。それによって明らかになったことは以下の四つである。一つ目は、クレールが他の登場人物一人一人に対して多様な「陽気さ」を纏っているということである。二つ目は、彼女がジュリとドルブそれぞれとの関係性において異なる種類の「親密性」を有しているということである。三つ目は、クレールの「陽気さ」の発生と消滅は他者との「親密性」の高低に対していわば反比例的関係にあるということである。四つ目は、クレールとジュリの関係性が三つの「相互補完性」を有していることから、二人それぞれが互いにとってかけがえのない不可分の存在になっているということである。これらの点に、われわれは第1章において明らかにしたものとは全く異なる彼女の「特異性」を見出したのである。
第1章、第2章で明らかにしたクレールの「特異性」を受けて、われわれは改めて次の点に驚かされる。それは、彼女がいかに「特異」であろうと誰一人として——たとえ作者のルソーでさえも——彼女の性質を否定することはないということである。
……いや、おそらく彼女は「特異」ではないのかもしれない。彼女はただありのままに生きているだけであるというのに、彼女の行動や言動や性質が「一般的」な道筋を辿らないからといって、どうして「特異」であると見なされなくてはならないのか。彼女の諸々の性質は「特異性」ではなく「個性」であると見なされるべきではなかろうか。
近年、「多様性」という概念が声高に叫ばれるようになり、あらゆる芸術作品にその概念が導入されている。「多様性」という概念が広まっていくことは非常に喜ばしいことである。しかしながら、近頃作品の評価を上げるためだけに「多様性」を利用する動きが散見される。もはやそこに「多様性」のあるべき姿は存在していないのではないだろうか。
現代においてなお、われわれが「多様性」の概念を正確に理解しかつ取り入れることは容易ではない。しかしながら、一八世紀においてルソーはすでに『新エロイーズ』の中でクレールという「個性的」な人物を、否定することなくありのままに描いていたのである。そこにこそ「多様性」のあるべき姿が見られるとは言えまいか。
もしかすると、『新エロイーズ』「第二の序文」における編者Nと文人Rなる人物たちの対話の中にあるような、このような反論が加えられるかもしれない。「ああ、あんな女がいたのならねえ![93]」と。クレールは小説の中の登場人物に過ぎないではないか、というわけである。するとルソーはきっとこんな風に返すだろう。
おや、彼女たちが実際にいてもいなくても、どうでもいいじゃありませんか。この地上を探し回ったところで無駄ですよ。もういないのだから。[94]
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注
[1] 本稿は2021年12月15日に立教大学文学部に提出され、2022年2月1日に審査を受けた卒業論文に加筆修正したものである。
[2] 以下の論文の次の箇所を参照のこと。ロバート・ダーントン、「読者がルソーに応える——ロマンティックな多感性の形成——」、『猫の大虐殺』、海保真夫・鷲見洋一訳、岩波書店、1986年、312-313頁。井上櫻子、「『新エロイーズ』——パトスの解放を志向する「貞淑な」女性の物語——」、『ルソーを学ぶ人のために』、桑瀬章二郎編、世界思想社、2010年、98-100頁。
[3] ロバート・ダーントン、前掲書、313-322頁を参照のこと。井上櫻子、同上。
[4] 『新エロイーズ』と『エミール』の関連性については例えば以下の論文の次の箇所を参照のこと。ガブリエル・ラディカ、「ジュリーは完璧主義者か——『ジュリーあるいは新エロイーズ』における道徳について——」、永見文雄訳、『人文研紀要』第84巻、2016年、306-310頁。ラディカはここで『新エロイーズ』と『エミール』において展開されている「情念」のテーマにおける共通点と相違点を明らかにし、ジュリの「変容」に秘められた「完璧主義」的側面という自らの論文の中心的テーマへと発展させている。『新エロイーズ』と『人間不平等起源論』(Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité parmi les hommes, 1755)の関連性については以下の論文を参照のこと。吉田修馬、「『新エロイーズ』におけるルソーの倫理思想の展開」、『エティカ』第4巻、2010年、19-60頁。吉田はこの論文の中で両作品における倫理思想の展開を比較することで、ルソーの著作において彼の倫理思想の展開がいかなる変容を遂げてきたのかという問いへと発展させている。また、『新エロイーズ』と『ピグマリオン』(Pygmalion, 1770)と『社会契約論』の関連性を指摘する研究もある。斎藤山人、「ピグマリオンの死:ジャン=ジャック・ルソーにおける犠牲のテーマのヴァリアント」、『日本フランス語フランス文学会関東支部論集』第17巻、2008年、29-41頁。斎藤はこの論文の中でそれぞれの作品において「自己犠牲・自己贈与」のテーマが共通して反復されていることに注目し、従来の観点とは異なる角度から『新エロイーズ』と『ピグマリオン』の関係性を分析している。
[5] クララン共同体を扱う代表的な論文としては以下のものが挙げられる。小西嘉幸、「恋愛のジェオ=ポリティクス——『新エロイーズ』〈エリゼの庭〉を読む」、『テクストと表象』、水声社、1992年、91-153頁。
[6] 例外的にクレールに注目している論文として以下のものが挙げられる。 Paule-Monique Vernes, « La dramatique de la vertu », in La Question sexuelle : Interrogations de la sexualité dans l’œuvre et la pensée de Rousseau, Études réunies par Jean-Luc Guichet, Paris, Classiques Garnier, 2012, pp. 181-191. この論文の中で、Vernesは小説におけるクレールの役割が曖昧であることに言及しつつ、彼女が男女の恋愛関係における愛情の持続において犠牲の承諾が必要であるというルソーの論理を強調する役割を担っていることを指摘している。
[7] 以下の論文の次の箇所を参照のこと。ジャン・スタロバンスキー、『ルソー 透明と障害』、山路昭訳、みすず書房、2015(1993)年、130-193頁。スタロバンスキーはここで、クレールがサン=プルーとジュリの間における秘密の愛情の透明性を向上させる役割を担っていることについて言及している。
[8] この点については以下の論文の次の箇所を参照のこと。ジャン・スタロバンスキー、前掲書、140-141頁。スタロバンスキーはここで、「肉体的な享受と徳の高揚」という両立不可能な二つの要素を両立させるべくルソーが『新エロイーズ』において時間に重要な役割を与えているのだと指摘している。さらに、以下の論文の次の箇所においても『新エロイーズ』における「時間」の概念が言及されている。小西嘉幸、前掲書、148頁。小西はここで、長大な小説作品である『新エロイーズ』が「時間を本質的な主題とするものである」ことを指摘している。
[9] 以下の論文の次の箇所を参照のこと。ジャン・スタロバンスキー、前掲書、4-15頁。
[10] 以下の版の次の箇所を参照のこと。Jean-Jacques Rousseau, Julie ou La Nouvelle Héloïse, Œuvres complètes, édition publiée sous la direction de Bernard Gagnebin et Marcel Raymond, 5 vol., Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1959-95,(以降OCと略記する)t. II, p. 206. なお、プレイヤード版のつづりは適宜現代つづりに変更した。ジャン=ジャック・ルソー、「新エロイーズ(下)」、『ルソー全集』第十巻、松本勤訳、白水社、1981年、235頁。本文中ではプレイヤード版のページ番号を示し、同時に対応する既訳のページ番号をも示す。
[11] 桑瀬章二郎、『嘘の思想家ルソー』、岩波現代全書、2015年、224頁。
[12] 同上、228頁。
[13] OC, II, p. 694. 邦訳第十巻368頁。
[14] Ibid., p. 179. ジャン=ジャック・ルソー、「新エロイーズ(上)」、『ルソー全集』第九巻、松本勤訳、白水社、1979年、200頁では「女としては一種の変わり種」と訳されている。
[15] Ibid., p. 354. 邦訳第九巻414頁。
[16] Ibid., p. 408. 邦訳第十巻24頁。
[17] Ibid., p. 239. 邦訳第九巻275頁。
[18] Ibid. 邦訳第九巻275頁。
[19] Ibid., p. 408. 邦訳第十巻24頁。「親密性」と「陽気さ」の関係性については本論文第2章第2節で検討することにしよう。
[20] Ibid., p. 407. 邦訳第十巻23頁。この部分において原文中の« femme »の意味合いを考慮すると、「あたしは女になるには向いていない女」という意味を読み取る可能性を完全には排除できない。
[21] 以下の版の次の箇所を参照のこと。Jean-Jacques Rousseau, Émile, ou De l’éducation, OC, IV, p. 756. 邦訳では以下の版の次の箇所を参照のこと。ジャン=ジャック・ルソー、『エミール(下)』、今野一雄訳、岩波文庫、1964年、125-126頁。本文中ではプレイヤッド版のページ番号を示し、同時に対応する既訳のページ番号をも示す。
[22] OC, II, p. 407-408. 邦訳第十巻23頁。
[23] OC, IV, p. 712. 本論文執筆者翻訳。なお、邦訳下巻45頁では « adresse particulière » は「特別の才覚」と訳されている。ここにおいて、女性の「特有の巧妙さ」は女性に男性と同等の地位すなわち服従しながらも男性を支配するという構図を与える助けとなるものであるとされている。以下を参照した。Dictionnaire de la langue française (Littré),1873 ; Le Dictionnaire de l'Académie française. Quatrième Édition, 1762. https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/publicdicos/query?report=bibliography&head=adresse&q=&start=0&end=0 (2021年12月11日アクセス)
[24] OC, II, p. 601. 邦訳第十巻251頁。
[25] OC, IV, p. 706. 本論文執筆者翻訳。邦訳下巻33頁では「女性の使命にもとづいて決定された好み」と訳されている。以下を参照した。Le Dictionnaire de l'Académie française. Quatrième Édition, 1762. https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/publicdicos/query?report=bibliography&head=goût&q=&start=0&end=0 (2021年12月11日アクセス)
[26] Ibid., p. 703. 邦訳下巻27頁。
[27] OC, II, p. 406. 邦訳第十巻21頁。
[28] OC, IV, p. 756. 本論文執筆者翻訳。邦訳下巻126頁では該当部分は「これは自然の権利で、なにものもそれを破棄することはできない」となっている。この箇所は強調構文であると見受けられるため、ここでは原文の文法により忠実な訳として独自の訳文を載せておく。以下を参照した。Dictionnaire de la langue française (Littré), 1873 ; Le Dictionnaire de l'Académie française. Quatrième Édition, 1762. https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/publicdicos/query?report=bibliography&head=abroger&q=&start=0&end=0 (2021年12月11日アクセス)
[29] OC, II, pp. 405-406. 邦訳第十巻21頁。「気まぐれ(fantaisies)」はルソーの思想において極めて重要な概念である。
[30] Ibid., p. 407. 本論文筆者翻訳。邦訳第十巻23頁ではそれぞれ「あでやかな未亡人」、「挑発的な態度を巧みに使いこなして——だって下手にそんな演技をするなんてあたしにはできないこと——、きざな若者を一人ならずからかって時おり楽しんだ」と訳されている。ここでは本論文に合わせて独自の訳文を載せておく。以下を参照した。 Dictionnaire de la langue française (Littré), 1873 ; Le Dictionnaire de l'Académie française, Quatrième Édition, 1762. https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/publicdicos/ (2021年12月11日アクセス)
[31] Ibid. 邦訳第十巻23頁。
[32] Ibid., p. 439. 邦訳第十巻63頁。
[33] Ibid., p. 439. 邦訳第十巻63頁。
[34] OC, IV, p. 257. 邦訳上巻47−48頁。ルソーはここで、母の権利の譲渡は子どもが実母以外の女性を実母以上に慕うことに繋がると論じている。実際に『新エロイーズ』第五部の書簡六では、クレールの娘アンリエットがジュリに対してクレールに対する態度よりも恭しい態度をとっている様子が描かれている。しかしながら、ここでクレールが特異であるように思われるのは、そのような態度の違いを認識してはいても全く頓着していないという点である。
[35] OC, II, p. 439. 邦訳第十巻64頁。
[36] Ibid., pp. 569-570. 邦訳第三巻277−278頁。
[37] OC, IV, pp. 287-288. 邦訳上巻102頁。なお、この他にもジュリが『エミール』の内容に忠実に教育を行なっていることが同書簡において判明する。以下の論文の次の箇所も参照のこと。ジャン・スタロバンスキー、前掲書、134頁。スタロバンスキーはここで、ジュリの息子たちを「エミールのように教育されるジュリーの子供たち」と形容している。
[38] OC, II, p. 641. 邦訳第十巻302頁。
[39] 玉田敦子、「フランス啓蒙と女性の地位」、『奈良女子大学文学部研究教育年報』第13巻、2016年、14頁。
[40] 桑瀬章二郎、『噓の思想家ルソー』、「第6章 女の噓」、岩波現代全書、2015年、189-230頁。ここでは古典的なフェミニズム的解釈が確認されたのち、ルソーの描き出す「女性固有の噓」というテーマについての分析がフェミニズム的観点とは異なる観点から展開されている。
[41] OC, II, p. 642. 邦訳第十巻303頁。
[42] Ibid., pp. 205-206. 邦訳第九巻234頁。
[43] Ibid., p. 407. 本論文筆者翻訳。邦訳第十巻23頁では「あでやかな未亡人」と訳されている。ここでは本論文に合わせて独自の訳文を載せておく。以下を参照した。 Dictionnaire de la langue française (Littré), 1873 ; Le Dictionnaire de l'Académie française, Quatrième Édition, 1762. https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/publicdicos/ (2021年12月11日アクセス)
[44] Ibid., p. 639. 邦訳第十巻299頁。
[45] Jean-Jacques Rousseau, Les Confessions, OC, Ⅰ, p. 16. ジャン=ジャック・ルソー、『告白』、桑原武夫訳、岩波文庫、1965年、27頁。
[46] Ibid., pp. 657-663. 邦訳第十巻322-330頁。
[47] Ibid., II, p. 662. 邦訳第十巻327頁。
[48] Jean-Jacques Rousseau, Lettre à d’Alembert, OC, Ⅴ. ジャン=ジャック・ルソー、『演劇について——ダランベールへの手紙』、今野一雄訳、岩波文庫、1979年。
[49] OC, II, p. 239. 邦訳第九巻275頁。
[50] Ibid.
[51] 本節ではとりわけクレールの「陽気さ(gaieté)」のみについて注目し整理して分析することを目指しているため、この点について詳しくは本章第2節で検討することにしよう。
[52] OC, II, p. 239. 邦訳275-276頁。この点についてクレールから涙の理由が語られることはなく、彼女が涙を流していた夜の時間が作中で直接描かれることもないのである。
[53] クレールが涙を流した「夜」の様子は作中で一切描かれていない。この「夜」という概念そのものはルソーの作品においてどのような意味を内包しているのか。この点については本章第3節の注で検討することにしよう。
[54] 以下の箇所を参照のこと。OC, II, p. 168. 邦訳第九巻187頁で、クレールは「やさしい友情が愛と同じだけの魅力をもっていたらいいのに!」とジュリへの書簡で書いている。この他にもクレールが「友情(amitié)」を非常に重要視している様子は至る所に見られ、われわれはしばしば「友情(amitié)」に対する彼女の熱量を思い知らされるのである。
[55] Ibid., p. 239. 邦訳第九巻275-276頁。
[56] Ibid., p. 274. 邦訳第九巻315頁。
[57] Ibid.
[58] Ibid., p. 643. 邦訳第十巻304頁。
[59] Ibid., p. 628. 邦訳第十巻285頁。
[60] クレールとの物理的な交流(日夜生活を共にすることなどが含まれる)に関してはドルブが最も多く行なっているのではないだろうか。この点については本論文第2章第2節で詳しく検討しよう。
[61] 前者に関しては以下を参照のこと。OC, II, p. 628. 邦訳第十巻284頁。後者に関しては以下を参照のこと。Ibid., p. 631. 邦訳第十巻288頁。
[62] 「活発なところ」と「快活さ」に関しては以下を参照のこと。OC, II, p. 629. 邦訳第十巻285頁。「おきゃん」に関しては以下を参照のこと。Ibid., p. 628. 邦訳第十巻284頁。
[63] Ibid., p. 506. 邦訳第十巻141頁。
[64] 前者に関しては以下を参照のこと。OC, II, p. 625. 邦訳第十巻280頁。後者に関しては以下を参照のこと。Ibid., p. 629. 邦訳第十巻285頁。
[65] Ibid., p. 644. 邦訳第十巻305頁。
[66] Ibid., p. 738. 邦訳第十巻419頁。
[67] Ibid., p. 734. 邦訳第十巻415頁。
[68] Ibid., p. 738 邦訳第十巻419頁。
[69] Ibid., p. 739. 邦訳第十巻421頁。
[70] Ibid., p. 408. 邦訳第十巻24頁。
[71] Ibid., p. 354. 邦訳第九巻414頁。
[72] OC, II, p. 409. 邦訳第十巻26頁では「打ち解けよう」と訳されている。ここでは本論文に合わせて独自の訳をあてておく。以下の2つを参照した。 Dictionnaire de la langue française (Littré), 1873 ; Le Dictionnaire de l'Académie française, Quatrième Édition, 1762. https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/publicdicos/ (2021年12月8日アクセス)
[73] Ibid., p. 180. 邦訳第九巻202頁。
[74] Ibid., p. 409. 邦訳第十巻26頁。
[75] Ibid., p. 403-404. 邦訳第十巻18頁。
[76] Ibid., p. 180. 邦訳第九巻202頁。
[77] 以下の論文の次の箇所を参照のこと。ジャン・スタロバンスキー、前掲書、130-193頁。スタロバンスキーはここでジュリとクレールの心が互いに「透明」であるという点に注目し、「二人の愛すべき女友だち」という主題は「その周囲にひとつの「きわめて親密な社交界」が徐々に結晶されてくる透明な中心部となっている」と指摘している。ジュリがクレールに求める「率直さ」はこの「透明性」と関連があるように思われる。
[78] OC, II., p. 642. 邦訳第十巻302頁。
[79] Ibid., p. 631. 邦訳第十巻288-289頁。
[80] Ibid., p. 73. 邦訳第九巻71頁。
[81] Ibid., p. 396. 邦訳第九巻467頁。
[82] Ibid., p. 403. 邦訳第十巻17-18頁。
[83] Ibid., p. 628. 邦訳第十巻284頁。
[84] Ibid.
[85] Ibid., p. 629. 邦訳第十巻286頁。
[86] Ibid., p. 710. 邦訳第十巻388頁。
[87] Ibid., p. 709. 邦訳第十巻387頁。
[88] Ibid., p. 730. 邦訳第十巻411頁。
[89] われわれは本章第1節の注で、『新エロイーズ』の中で「夜」の時間がほとんど描かれていないということを確認してきた。ルソーの作品において「夜」はどのような意味を内包しているのだろうか?ジャン・スタロバンスキーは『ルソー 透明と障害』(184頁)で、ルソーが昼と夜という「両極の魅惑」にとらえられるとき、彼の魂は「アンビヴァランスに悩む不安な魂」として顕現すると指摘している。さらに、小西嘉幸は『テクストと表象』(139頁)で以下のように述べている。「ルソーは全作品を通じてほとんど夜について語っていないのだが、その理由は夜が読書と書くための時間、そしてときには死の時間だからである。」共に「夜」の時間を過ごしたクレールがジュリに「生気」を与えたとき、ヴォルマールは二人が眠る部屋から「物音(bruit)」を耳にしているのだが、あたかもそれと対応するかのように、ジュリの死の直前、ヴォルマールはジュリとクレールが眠っている部屋から「鈍い音(bruit sourd)」を耳にしているのである。この対比関係を前提とすれば、この「鈍い音」とともにクレールがジュリに何かを与えたという可能性は完全には排除されない。クレールが与えたもの、それは「死のヴェール」なのだと考えることはできないだろうか。もちろん、ジャン・スタロバンスキーが『ルソー 透明と障害』(181-193頁)で指摘し、小西嘉幸もまた『テクストと表象』(119頁)で指摘しているように、クレールはサン=プルーがインドからみやげとして持ち帰ってきたヴェールを現実世界における「死のヴェール」としてジュリの死に顔に被せている。しかしながら、ここに至るまでにジュリは人々の誤解によって一度「生き返って」いるとは考えられまいか。娘の様子を知らせるためにジュリの父親から送り出された従僕はジュリがまだ生きているのだと誤解し、その誤解は瞬く間にクラランの人々に広まり、あたかも事実であるかのように扱われていくのである。クレールはその誤解によるジュリの「蘇生」を終わらせるべく、現実世界における「死のヴェール」でジュリの顔を覆ったのだと考えられなくもない。これらのことから、クレールが二度にわたって「死のヴェール」でジュリを覆っていると考えることも可能ではないだろうか。
[90] OC, II, p. 711. 邦訳第十巻389-390頁。
[91] 以下の論文の次の箇所を参照のこと。ジャン・スタロバンスキー、前掲書、182頁。スタロバンスキーはここで、「ジュリーは、真実のところ、愛のために死ぬのではなく、彼女の母の義務を遂行したために死ぬのである」と指摘している。
[92] OC, II, p. 745. 邦訳第十巻429頁。
[93] Ibid., p. 12. 邦訳第十巻434頁。
[94] Ibid., p. 29. 邦訳第十巻454-455頁。