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教育論の文学的読解――虚構とアポリアから読む『エミール』


Laurence Mall, Émile ou les figures de la Fiction, Voltaire Foudation, SVEC, 2002, 334p.
ロレンス・モール『エミールあるいは虚構の文彩』、ヴォルテール財団、334ページ

安田百合絵
(東京大学人文社会系研究科博士課程、
日本学術振興会特別研究員DC)

ルソーが著した数々の書物のなかでも、『エミール』はすぐれて広い射程を持ち、無数のジャンルを横断する作品である。 « Émile ou de l’éducation »のタイトルが示すように教育に関する書でありながら、ときには自伝的挿話が自然に語りに介入し、ときには博物学的考察が延々と展開される。さらに読者を困惑させるのは、『エミール』における語りの位相の不安定さであろう。「エミール」という少年を主人公にした小説的体裁をとっているかに見えながら、この「エミール」は現実空間と虚構空間の間をたえず揺れ動き、語り手は時にエミールを養育する「教師(gouverneur)」として現れながら、時に別人として「教師」のことを記述する。

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十八世紀のフランス文学・哲学を広く専門とし、現在イリノイ大学助教授を務めるロレンス・モール[1]による『エミールあるいは虚構の文彩』は、このように「教育学の書」という単純な定義づけが端的に不可能な、きわめて捉えがたいテクストを、それを記述する筆致や文彩(フィギュール)に注目し、虚構という鍵概念によって読み解こうとした労作である。本書は十章から成り、どの章もはっきりとしたテーマ設定のもとでそれ自体として完結するような構造になっている。扱われているテーマは「私(je)」をめぐる問題や、例示と理論の関係、セクシュアリティ、テクスト内部の時制や時間、間テクスト性や「代理(vicariance)」の問題系など多岐にわたるが、それら個々の論点に注目しつつモールが明らかにしようとしているのは、『エミール』が単にルソーの教育論として、あるいは彼の思想体系だけを詰め込んだ書物として読みうるものではなく、虚構をはじめとするテクスト内部の複雑な装置によって成立しているものであり、したがって文学的読解の可能性に開かれているということである。

たとえば序論で著者は「概説でありながら小説(traité-roman)」という『エミール』の性質を強調している。この小説性ゆえに、『エミール』は一見些末に見えるアネクドートや虚構的要素をそぎ落として「純化」し、思弁的要素だけを抽出するという方法では十全に読み得ない。『エミール』の虚構的性質は作品の欠点ではなく、むしろ哲学的な論述の要素はこの虚構性と密接な関係を持つのだと著者は主張している。

かくして序論以後の十章は、『エミール』という作品の背後にある装置と、それらが負わされている機能との精密な分析に捧げられることになる。その分析の際に著者がとる特権的な方法は、『エミール』に含まれている背理や綻びの要素を浮かび上がらせる[2] というものであり、それぞれのテーマについて論じるなかで、著者は『エミール』によってルソーが実現しようとしていたことを示しながら、その実現を不可能にする陥穽がテクストそのものによって穿たれている、ということも少しずつ明らかにしてゆく。

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たとえば第二章で著者は、人称、とりわけ一人称「私(je)」に論点を集中させる。興味深いのは、本来的には截然と区別されねばならないはずの著者/語り手/登場人物の三つの層が混ざり合う瞬間が分析されていることだ。教育に専心せねばならない教師は原理的にテクストを書くことができず、ひるがえって、それを書いている著者が現在進行形で子どもを教育しているということはありえない。「誰が語っているのか?(Qui donc parle?)」の問題を解決する装置として、著者でも登場人物でもない語り手の存在が与えられる、とモールは述べ、エクリチュールのうちに子どもを創出しているはずの著者と、子どもを育てているはずの登場人物とを束の間ともに包摂する語り手の「私」を「本質的に異質な二つの世界に参画している一種の怪物」的存在であるとする。この「私」にまつわる混乱から「権威」の問題が発生してくる。著者ルソーが自らの権威を登場人物である教師に与え、今度は全能の教師が著者ルソーの展開する論の裏付けとなる……という権威の循環構造(モールはそれをトートロジーと呼ぶ)が生じているというのである[3]。(「書く者は行動できず、行動している者は書けない」という)理論的・原理的な問題を解決するために要請されたテクスト上の装置が、結局は権威の循環というアポリアを生み出してしまうことが明らかにされている。

また、第三章では「例」に焦点が当てられ、とりわけ例示と理論とがどのような関係を取り結んでいるかが検討される。モールの筆が冴えるのは例示が抱え持つ本質的な困難さを剔出する瞬間である。一方で、「自然の教育」の重要性を強調するためには、例における細部が厳密に詰められている必要がある。何も語り落とされてはならない。しかし他方で、この書物が概説としてほかの教育者たちに「模倣可能」であるためには、細部にこだわりすぎてもいけない。モールはさらに、こうした困難さがエピソードレベルのみならず、エミールという架空のモデルそのものについても当てはまることを示す。エミールという子どもは、純粋な想像の産物というより、理論的に真実を証明するという価値づけを持たされている。つまりエミールは再現可能でなくてはならない。そうであるときエミールというモデルは、全ての可能な子どもを表象するのと同時に理論の完全な体現者でなくてはならず、平凡(ordinaire)でありながら稀(rare)であるという矛盾を引き受けなければならない。ここでも(モデルと理論という)テクスト上の装置が、実は相互に依存しながら、両立しえない普遍性と個別性を同時に要求している背理が浮き彫りになる。

それ以降も同様に、テクストの内部にひそむ構造上の困難さが様々な観点から検討されてゆくことになる。たとえば『エミール』第四巻から前景化してくる「社会化」のテーマが扱われる第四章、セクシュアリティと女性のテーマが検討される第五章では、教師の持つ知識(savoir)の源泉という問題が描出される。『エミール』の設定からして、若い頃から教育に従事していることになっている教師が、直接に社交界や女性についての知識を持っていたということはありえない。そうであるとき、「知識(を与えるため)の知識」が教師には欠けているはずなのだから、教師がエミールに与えるこうした知識は謎である、と著者は述べる。その問いから、「知識の知識」はどこから来るのかという無限後退の逆説が生まれてくる。

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『エミールあるいは虚構の文彩』という題が示すように、モールが一貫して虚構の問題を軸に据えながらこうした背理を顕在化させているということも、注目すべき点であろう。虚構の問題がもっとも顕著にあらわれるのは、主として「歴史」の問題が議論の俎上に載せられる第七章である。ルソーは『エミール』のなかで、この作品を「小説(roman)」に仕立て上げるのは読者の欠陥によるものであり、本当はこの作品こそが人類の「歴史=物語(histoire)」でなければならなかったのだと述べる。『エミール』はもともと大きな意味で歴史性を帯びたものとして構想されていたのであり、モールは『人間不平等起源論』を思い起こさせながら、『エミール』が「そうであるべきもの」と「実際そうであるもの」とのコントラストによって築かれていることを説く。自然人と同じようにエミールが「そうであるべきもの」を体現する存在であるならば、当然歴史と虚構との関係性が焦点になってくるだろう。実際モールは、虚構が歴史に対して持つ「潜在性(potentialité)」を、プラトンやカントを援用しつつ説明してゆくのだが、その検討のなかで次第に明らかになってゆくのはやはり「教師」という存在の異様さである。ルソー自身が言うように、「人間を作るためには自らを人間にしなければならない」。過程そのものが、すでに過程による産物を前提するものであるという無限後退がここでも指摘される。こうした困難を抱え込んだままの『エミール』においては、歴史性を帯びた社会と虚構の社会との区別が曖昧にならざるをえない。かくしてこの作品の中には「経験的な実際の社会」「人間集団としての観念的社会」「エミールをとりまく共同体としての社会」という、本来的に噛み合わない三つの層が互いに混交してしまう、とモールは述べている。

結論部にあたる最終章では、あらためて虚構と文彩の問題が検討される。以下に簡単に要約してみたい。『エミール』の著者である「私(je)」とは、自然の真実に即時的に到達でき、人間社会の虚偽性も知悉する、という理論的に両立不可能な要素を統合することができる唯一の存在である。この「統合」のモメントが、「教師」という存在においては、社会と自然の間に穿たれた、人間の本源的な裂け目の「縫合」として現われる。しかし教師は、縫合されて全的に自分自身でいられる生徒とは異なり、その幻想性と脆さをも知っている。

さらに、虚構という側面からは、読者との関係の困難さもあらわにされる。『エミール』の根源にある発想は、人間の原初的善性を描きだすことである。ところが世界に存在していない善性は、それを示し証明するテクストのなかにしか存在することができない。そうである以上、読者にそのテクストをいかに読ませるかが重要になってくる。『エミール』に真実らしさを見出し、説得されるためには、読者は自分の常識を取り払う必要があり、つまり『エミール』の読書に先立って、エミールのようでなければならないのである。ここでも再び無限後退のアポリアが出てくる。ただ、モールはそれを指摘して終わるのではなく、真実と虚構の複雑な関係を見出して議論を先に進める。ルソーの真実は、その真実を含み持っている虚構なくしてはありえない。そして、『エミール』の虚構に偉大さをあたえるのは、著者がたえず執拗に現実と虚構をつきあわせ、人間存在を見失わないようにする意志があることだと言う。

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ここまで検討してきたように、本書は「虚構」というテーマ、そしてテクストの背後にある装置の分析を通じて『エミール』を読み尽くす試みであると言ってよい。多様な観点から読解されることによって、『エミール』というテクストの重層性が浮かび上がり、同時にそれが内包する困難さが、とりわけ繰り返し登場する背理や逆説によって姿をあらわしてくる。本書の成果は、著者自身も述べているように、それまでほとんど行われていなかった包括的な文学的アプローチによって『エミール』を読み解き、これだけ豊かな収穫をもたらしたことであろう。また本書ではあまり強調されていないが、モールの読解はルソーのほかのテクストにも適用されうる。たとえば注で本稿筆者が述べた『対話』の構造との類似性や、『エミール』と同じように哲学的な理論とロマネスクな虚構を横断している『人間不平等起源論』との比較など、モールの議論を手がかりにルソーを広く読むことも可能であろう。

ただし、この包括性は長所であると同時に短所にもなりうる。「虚構の文彩」を題に掲げながら、それをはるかに越えて多くの論点が扱われ、すべてが虚構や文彩の問題に回収されきっているわけでもないため、やや拡散的な、ともすれば冗長な印象は否めない。もう少し「虚構」というテーマに的を絞れば、より簡潔になったのではないか。さらに、テクストの明晰な読解によって、それが持つ内在的な難点を露わにする手法は説得力があり、読み応えもある一方、その明晰さによってかえって見えづらくなっている問題点もあるように思う。たとえば第五章で、「愛」の問題について教師は模範を示すことができない、と著者は述べる。若くして教育に身を捧げた教師は、自身で愛を体験しているということが原理的にありえず、完全に脱性化されているから、というのがその理由である。しかし教師が脱性化されているということ自体が持つ問題はとりあげられず、あくまで模範の可能性にだけスポットライトがあてられている。それによって論の運びははっきりするが、何かが語り落とされているような印象は拭えない。

いずれにしても、本書は『エミール』の文学的読解における現時点でのひとつの到達点を示すものであり、ルソー研究者のみならず、文学研究を志す者全てにとって貴重な示唆に富む一冊だと言えよう。

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[1] 本稿で取り上げたエミール論のほかに、モールは博士論文である『新エロイーズにおける起源と隠遁』を1997年に刊行し、ルソー作品における虚構の問題を広く論じている。Laurence Mall, Origines et retraites dans La Nouvelle Héloïse, New York, Peter Lang Publishing, 1997.

[2] こうした方法は、それ以降のモールの仕事においてもしばしば使われている。2012年に刊行された Eduquer selon nature中の論文、「ルソーとケアの倫理:エミールあるいは被傷性について」でモールは、純化された世界に生きる若く健康なエミールから、被傷性(vulnérabilité)を帯びる可能性が排除されていることを指摘しつつ、その非-被傷性を保証するものが教師による絶えざる保護であることを示している。ここにも、自由と自己の統御のための、すなわち本来的に保護を必要としない存在を育成するための教育に、教師の絶え間ない配慮が捧げられなければならないという逆説が見える。Laurence Mall, « Rousseau et l’éthique du care : Émile ou de la vulnérabilité » dans Éduquer selon nature. Seize études sur Émile de Rousseau, dir. Claude Habib, Desjonquères, 2012, pp. 174-184.

[3] 「権威の循環構造」の問題については、ルソーの自伝的著作『対話』においても同じことがいえることを指摘しておきたい。『対話』において著者ルソーは自らの権威を「ルソー」という著者とは別の人物に分け与え、「ルソー」による推論から議論を展開することで自分の主張(ジャン=ジャックの無実)を証明しようとしている。


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